Ⅱ.神秘の青花③
「雨に降られただけにしては濡れすぎているな」
ウィリアム邸に戻ったウリカを、その一言が出迎えた。
素朴な疑問を口にしたウィリアムは、直後にはっとした表情を見せる。その視線は、少女の手元へと注がれていた。
「その花……」
「湖上花って、この花で間違いありませんか?」
ウィリアムの反応を見て、確信を深めながら尋ねるウリカは、嬉しそうに微笑んだ。
「これをどこで?」
「咲いている場所を見つけたという子に案内してもらったんです。子供の目線だからこそ辿り着ける場所にありましたよ。場所を覚えてきたので、いつでも採りに行けます」
無邪気に笑うウリカを前に、ウィリアムは遠い過去の記憶を脳内再生させる。
(変わらないな……この子は……)
嬉しいのか悲しいのか分からない感情が胸中で渦を巻いた。
無意識に伸ばした手が、少女の頬に触れる。
「ウィリアムさん……?」
ウリカが不思議そうに顔を上げた。
「今日はもう帰りなさい。そのままでは風邪を引いてしまう」
少女に感情を読まれないよう視線を伏せて、ウィリアムは静かに告げる。
「……はい、そうします」
ウリカは素直に頷いた。実際、こんなずぶ濡れの状態で居座ることはできない。
注文してきた物の報告を簡単に済ませて湖上花を渡し、挨拶をしてからウィリアム邸を出たウリカは、馬を走らせながら、正体の知れない寂しさに胸を締め付けられていた。
一人になって、研究に戻ろうとしたウィリアムは、寂しげな笑顔を残して帰っていった少女の顔がちらつき、調合作業に集中できずにいた。
「くそっ……」
小さく呟いて作業台の上にだらしなく上体を傾ける。
白い作業台の無機質な感触を頬で受けとめながら、今さらのように沸き上がる葛藤に鬱々とした自問を投げかけていた。
この国に戻ってきた時……いや、十年前にここを離れた時、自分にはもう失うものなどないと思っていた。
そのはずなのに、心は揺れる。
脳裏で、かつて兄から言われた言葉が反響していた。
――いいかい、ウィリアム。たとえ恨みは忘れても、受けた恩は決して忘れてはいけないよ。
誰よりも尊敬している兄だった。それだけに、今はこの言葉が耳に痛い。
他に当てがなかったとはいえ、ステファンを頼ったのは間違いだっただろうか……。今さらながらにそんなことを思う。
切り捨てたつもりの過去に、本当は誰よりも縛られているのは自分かもしれない。
あてどない思考の海で、ついには考えることすら放棄して、ウィリアムは工房を出た。
思考に埋没することも、調合作業に没頭することも、本来は大好きなはずの行為が今は何よりも辛い。
客間に移動してソファーに横たわると、そのまま目を閉じる。そうすると今度は脳内に別の声が響いた。
『そんな所で寝ていたら風邪を引きますよ』
『こんな常春の気候で簡単に風邪を引くなら、もっと薬が売れて結構じゃないか』
『それ、屁理屈にもなっていないですよ。どれだけ薬を売ったとしても、儲け自体は出ていないんですから……』
『りくつ屋は嫌われるぞ』
『なら、へりくつ屋はもっと嫌われますね』
いつだったかにウリカと交わした会話が脳内を駆けめぐる。あの時は、呆れた子爵令嬢の声を聞きながら、思わず笑ってしまったことを思いだした。
くすりとウィリアムの口から吐息がもれる。
今日までのことを思い返しながら、もういい加減、無駄な抵抗は諦めるべきかもしれない、と思い始めていた。