3…名前はいくつあってもいい
「ねえ、お嬢さん大丈夫?」
そこは道端で、歩行者信号機の近くの電信柱に、くったりともたれかかっている人が見えたからだった。あたしが思わず声を掛けると、その女性は少しおかしそうに笑った。
「いやねぇ、お嬢さんなんて。 そんな可愛い歳でもなんでもないのに」
「あ、ごめんね? 嫌な思いさせた?」
「いいえ。 むしろその逆。 私をお嬢さんなんて呼んでくれるのは、あなただけよ」
前髪を撫で付けるしわくちゃな手に、細い血管がいくつも浮き出ている。
「ねぇ、大丈夫? 具合が悪いんじゃないの?」
「ん、少しね。 胸が苦しいだけ」
「え、大変じゃん! そこに座りなよ!」
あたしはその女性の手に触れると、ゆっくりと案内した。「あそこにベンチがあるよ。 歩ける?」
するとその人は「あらあら、ありがとうねえ助かるねえ」と言って、あたしに引っ張られるがまま、亀みたいな歩幅とゆったりさで、なんとかベンチまで辿り着いた。
その小さく折り曲がった身体が、ゆっくりと、ベンチに腰を下ろす。
「最近ねえ、心臓がね、急にバクバクしだすのね。 歳ねえ」
「そうなの? 歳になると急にバクバクするの?」
「みんなそうなるわけではないけれど、私の心臓は、信号が時々おかしくなっちゃうのよね。 だから、しょうがないの」
「え〜 なんか、それは大変そう」
そう言って、あたしはそのまま近くの信号機を見上げた。
今は静かに真っ赤に染まっているあの信号が時々変なバグを起こすとしたら、それは色々と混乱が起こるに決まっている。
「そう、困っちゃうわ」そう言いながら、その皺だらけの手が、胸元をすりすりと撫でている。
そうするとバクバクが楽になるのかと思って、あたしはその手を真似して、その女性の腕をすりすりした。
「ふふ…、ありがとう」
「少しは楽んなる?」
「ありがとう。 とっても楽よ。 あなた、優しい子ねえ」
「ありがと」
布越しでも、その服の下の腕が、骨と皮だけのような痩せ細った身体があることがすぐにわかった。地球人は歳を取ると、人によってはバクバクして、こうやってまるで鳥みたいに、骨と皮だけみたいに痩せて細くなる。らしい。なんだか、やっぱり大変そう。
「一生のうちに、打てる脈の数って決まってるらしいからね。 私もあの世に行くのはもうすぐかもしれないわねえ」
「そうなの? 数が決まってるの?」
「だから、こうやって早く脈を打ってしまうと、その分寿命がね」
「じゅみょう」
「時期が早まるわね」
「そーなんだ」
「でも、後悔は、ないわ」
その声に、強い儚さが混じっていた。
「おじいさんが、待っているもの」
「おじいさん?」
「私の旦那。 おじいさん」
「あ〜、お嬢さんの、大事な人?」
「ふふ、そう」
「ずっとあなたを待ってるんだ?」
「そうね。 もう5年になるかしらね」
「え〜〜〜遠恋ってやつじゃん!」
「ふふ、そうね。 遠距離ね」
「ありがとう。だいぶ落ち着いてきたわ」と言って、その女性はふう、と一つため息をついた。
あたしも腕をさするのをやめて、隣で背をもたれた。心地のいい風が吹いて、気持ちが良かった。今日はとっても天気がいい。
「そうだわ、とっても優しいあなたに、これ、あげる」
「え〜何〜〜?」
「飴ちゃん」
「あめちゃん?」
幾つかの模様で彩られた布が、何枚か連なってできた巾着袋を鞄から取り出すと、シュと絞り口を開いて、そのしわくちゃな手が「はい、どうぞ」と目の前で花が開くみたいに、その中身をあたしに見せた。「ほら、飴ちゃん」
「え〜〜〜何これ、超可愛い〜!」
「美味しいわよ。 甘くて」
「え〜やった〜ありがと〜〜!」
「こちらこそ、親切にどうもありがとうね。 こんなおばあちゃんの面倒見てくれて」
そこであたしは「えっ」と声を上げた。
「あなたの名前、おばあちゃんって言うんだ? 可愛い名前だね」
するとおばあちゃんはあらあら、と言いながらのんびり笑った。
「私みたいな年代の女性を、みんなおばあちゃん、とかおばあさんって、いうのよ」
「へえ〜そうなんだ? おばあちゃん? 可愛い名前だね」
おばあちゃん。
口の中で発音すると、そこにはなんだか、ぬくもりがある気がした。
「おばあちゃん、あんまり無理しないでね。 無理すると、いいことないからさ」
「ええ、そうするわ。どうもありがとうね」
「飴ちゃんありがとう。 おばあちゃん」
それからね、とあたしは自分の顔を指差した。
「あのね、あたしの名前、プラコっていうの」
「プラコちゃん」
素敵な名前ね、とおばあちゃんはもう一度深く笑ってくれた。あたしも、顔を突き合わせるようにして、うん!と言って、笑った。
またね、と言って、おばあちゃんは手を振って「よっこいしょ」という謎の言葉と一緒にたち上がると、また亀みたいにゆっくり歩き出して、横断歩道までの道のりを歩いて行った。
少し心配になったけど、「あんまり地球人に深入りするんじゃないよ」とは、ナヒアにこの間注意されたばかりだから、あたしはベンチからその背中を見送ることにした。
もらった包み紙を開くと、中から真っ白な真珠玉が出てきた。
「これが飴ちゃん?」
地球人から、謎のものをもらってしまった。
でもあの可愛いおばあちゃんのことだから、絶対的に毒ではないと思う。女の勘ってやつ。
「んっ何これ、超おいしい!」
目から火花が散りそうになった。
感動していると、無事に横断歩道を渡り終わったおばあちゃんがこちらを振り返って、小さく手を振っていた。良かった。ちゃんと渡れてる。
あたしも大きく手を振った。
可愛いおばあちゃん。美味しい飴ちゃん。
地球人は、名前の下に「ちゃん」をつけて呼び合うことを好むらしい。
今日も一つ、いいことを知れた。
データに保存しておこう。
あたしの人差し指は慣れたように眉間に触れる。
【 「おばあちゃん」 を保存しますか? 】
あたしは「うん!」と大きな声で返事をする。
ナヒアに「ちょっとあんたね!」と怒られそうな、独り言。そうだ、気をつけなければ。
今日も、地球は、明るくて、楽しい。そして、口の中は、甘くて美味しい。




