後編 継ぐ手
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納屋の錠は、赤く錆びついていて、鍵を回すのに難儀した。
観音開きの戸を引くと、埃と、乾いた土と、油のにおいが、いっぺんに流れ出してきた。
おれは子どものころ、ここで祖母に鍬の柄を握らせてもらった。
土間の壁には、その鍬が、いまも同じ釘に掛かっていた。
柄が、手の脂で黒く光っている。
何十年も、祖母の掌が触れつづけた場所だけが、艶を持っていた。
隅の棚に、茶封筒がいくつも並んでいた。
一枚ずつ、祖母の字で、品種と年が書いてある。
地大根、青菜、時無し——農協にも種苗店にも売っていない、祖母だけの種だ。
自分で実らせ、自分で採って、また翌年に蒔く。
そうやって、祖母は何十年も、同じ種を継いできたのだった。
封筒の隣に、糸で綴じた古いノートが一冊、置いてあった。
慈恩さんが、それを手に取った。
めくると、前のほうの頁は、祖母の字だった。
蒔き順が、畝ごとに番号で振ってある。
品種、間隔、水のやりよう。
ところどころに、「霜の前に」と、あの口癖が、鉛筆で書き添えてあった。
おれは、喉の奥が詰まった。
電話口で聞いた声が、そのまま紙の上に立っているみたいだった。
「中村さん」
慈恩さんが、頁を繰る手を止めた。
「ここから、字が変わります」
ノートの後ろのほう、紙の色が一段黄ばんだあたりから、筆跡が別のものになっていた。
祖母の字より、角ばって、古い。
けれど、書いてある蒔き順は——番号も、間隔も、「霜の前に」の一言まで、祖母のものと、そっくり同じだった。
「これは、誰の字です?」
おれが答えられずにいると、納屋の戸口から、声がした。
杉本さんだった。
軽トラの音を聞きつけて、様子を見に来たらしい。
ノートを覗きこんで、しわだらけの指で、その古い字を、そっとなぞった。
「……スエ婆さんだ」
杉本さんは、低く言った。
「ハナ婆の、姑さんだよ。この畑の、前の主だ」
杉本さんは、土間の上がり框に腰かけて、ぽつぽつと話しはじめた。
ハナ婆——おれの祖母が、この中村の家に嫁いできたのは、二十歳のときだ。
まだ戦後の、物のない時分だった。
畑を切り盛りしていたのは、姑のスエ婆さん。
気の強い、働き者の女だったという。
ところが、祖母が嫁いで何年もしないうちに、スエ婆さんは、畑の畝の途中で倒れて、そのまま逝った。
急なことだった。
「その年だ」
杉本さんは、遠くを見た。
「誰も蒔いてねえのに、畑が、いつもどおり実った。スエ婆さんが倒れたのは、種蒔きの、ちょうど半ばでな。残りの畝は、誰も蒔いちゃいねえ。なのに、秋になったら、畝がぜんぶ、順に実っただ。おれも、この目で見た。若かったハナ婆が、その畑の前に、いまのあんたと同じように、突っ立ってた」
そのとき、若い嫁だった祖母は、どうしたか。
杉本さんは、煙草に火をつけて、けむりの向こうで、少しだけ笑った。
「ハナ婆はな、畑に手を合わせて、言っただよ。『継がせてもらいます』って。それから、スエ婆さんのやってた順を、ぜんぶ自分の手に覚えて、死ぬまで、いっぺんも崩さなかった」
おれは、畝を振り返った。
冷夏で、里じゅうの畑が遅れているなかで、祖母の畝だけが、律儀に芽をそろえている。
その並びが、急に、まるで違って見えた。
あれは、祖母ひとりの几帳面さじゃない。
祖母の前の、そのまた前の、何代もの手が、同じ順で、同じ土に、重ねて刻んできた段取りなのだ。
「付喪神でも、おばあさんの幽霊でも、ないですよ」
慈恩さんが、ノートを閉じて言った。
「化けて出て、畑仕事をしてるわけじゃない。——土が、覚えてるんです。継いだ人の、手をね」
土に、手入れの段取りが染みついている。
だから畑は、人が消えても、一季節ぶんだけ、亡くなった人の順と時機で育ちつづける。
天気が悪かろうが、誰も水をやるまいが、土は、覚えた手を、律儀に繰り返す。
それだけの話なのだと、慈恩さんは言った。
悪いものは、どこにもいない。
むしろ、こんなにあたたかい残りかたは、そうそうない、と。
「祓おうと思えば、祓えます」
慈恩さんは、おれのほうを見た。
「でも、祓えば、ただの土に戻りますよ。二度と、勝手には実らない。——それは、見送りじゃなくて、忘れることです」
継ぐか、手放すか。
慈恩さんは、そのどちらも勧めなかった。
売るなとも、継げとも、言わなかった。
「ぼくは、決めません。決めるのは、あなたです」。
ただ、と、細い線香の袋を出しながら、付け足した。
「決める前に、ひとつ、やっておいたほうがいいことがあります」
畑の隅に、苔むした古い石が、半分土に埋まって据わっていた。
子どものころは、ただの石だと思っていた。
祖母は、あれを「野の神さん」と呼んで、畑仕事のたびに、手を合わせていた。
慈恩さんは、小瓶の粗塩を、おれの掌に、ひとつまみ載せた。
「水は、使わないでください。あなたの汗で、溶かすんです」
おれは、掌の塩を握った。
畑仕事の心当たりもない都会の手は、すぐには汗をかかなかった。
それでも、しばらく握っているうちに、掌がじんわり湿って、塩の角が、溶けて丸くなっていくのがわかった。
おれは、しゃがんで、その塩を、石の縁に沿って、ひと回り、指で撫でつけた。
慈恩さんは、手を貸さなかった。
少し離れて、ただ見ていた。
石の肌が、塩と汗で、うっすら光った。
「あとは」
慈恩さんは、畑に背を向けた。
「ぼくは、あっちにいます」
そう言って、畦の端の、柿の木の下まで下がった。
細い線香に火をつけ、ポケットの灰皿を片手に、待つ構えで、立った。
おれひとりが、畝の前に、残された。
おれは、畑に、向き合った。
祖母の蒔いた——いや、祖母の手を覚えた土が実らせた、青菜の芽が、夕方の風に、いっせいに揺れていた。
言うことなんて、決めていなかった。
それなのに、口を開いたら、いちばん言いたくなかった言葉が、先に出た。
「ばあちゃん」
声が、掠れた。
「間に合わなくて、ごめん」
一度言ってしまうと、あとは、堰を切ったみたいだった。
去年の秋、「そのうち採りに行くよ」と言ったきり、行かなかったこと。
盆も正月も、仕事を口実に、足を向けなかったこと。
看取りに間に合わなかったのは、当番のせいなんかじゃなくて、ずっと、間に合わせる気で生きてこなかったからだということ。
畝に向かって、おれは、ぜんぶ言った。
誰にも聞かせたことのない声で。
芽は、返事のかわりみたいに、ただ、揺れていた。
柿の木の下の慈恩さんは、こちらを見なかった。
線香の煙だけが、まっすぐ立って、風に折れて、また立った。
しばらくして、慈恩さんが、無地のメモカードを一枚、おれに渡した。
「口で言えたことは、もう、書けますよ」。
おれは、畝のそばにしゃがんで、鉛筆で、短く書いた。
うまい言葉じゃない。
ただ、いちばん本当のことを書いた。
それを、庭石のそばの、いちばん初めの畝の土に、そっと置いた。
継ぐか、売るか。
おれは、まだ決められなかった。
都会の仕事を放り出して、ここで畑をやる——そんな綺麗な決心は、つかなかった。
ただ、ひとつだけ、決めたことがあった。
「霜の前に」
おれは、慈恩さんに言った。
「今年、いっぺんだけ、自分の手で、蒔いてみます」
祖母のノートの、いちばん初めの畝から、書いてある順のとおりに。
それで、続けられるかどうかは、そのあとで考える。
慈恩さんは、糸目のまま、うなずいた。
「それで、いいと思いますよ」
軽トラで神宝町へ送る道すがら、慈恩さんは、窓の外の、遅れた里の畑を眺めていた。
「土ってのは、正直でしてね」
ぽつりと言った。
「手をかけた分だけ、覚える。かけなかった分は、なんにも、覚えちゃくれない。人より、よっぽど義理堅い」
食えない人だ、と思った。
でも、その一言は、妙に胸に残った。
その年の霜の前に、おれは、有給を取って柚野へ戻り、ノートのとおりに、庭石のそばの畝から、種を蒔いた。
掌は、まだ祖母のようには硬くない。
順番も、間隔も、たどたどしかった。
それでも、土は、おれの手を、黙って受け止めた。
来年、この畝から芽が出るころ、おれはたぶん、また都会にいる。
それでも、いつか——土が、おれの手を、覚えていくのかもしれない。
祖母の手を、覚えたみたいに。
間に合わなかった、あの夏の分も、少しずつ。
イメージソングはこちら。
https://youtu.be/ag0HhrD4PQI?si=kW99qs_boaOw7JpT




