表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神宝町怪異相談  作者: KASANE
手仕舞い〔前後編〕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/63

後編 手仕舞い

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


帳場は、店の入口の脇にあった。


文机ほどの台に、古い算盤と、印肉と、引き出し。


鍵はかかっていなかった。


引き出しの奥から、紐で綴じた帳面が出てきた。


表紙に、父の字で「注文控」とあった。


めくると、几帳面な字が並んでいた。


日付、名前、品、寸法、手間賃。


障子の張り替え、襖の建て付け直し、欄間の修理。


手間賃の欄を見て、わたしは黙った。


安いのだ。


相場を知らないわたしでも分かるほど、安い。


直しの仕事ばかり二つ返事で受けて、この値段で、父は七十まで店を保たせてきた。


断れない人だったのだ。


あんなに、無愛想なくせに。


「最後の頁を」と、慈恩さんが言った。


最後の一行は、この秋の日付だった。


品書きの欄に「雪見障子、一枚」。


寸法が添えてある。


そして名前の欄で、目が止まった。


——千夏。


苗字もない、それだけだった。


寸法の数字に、見覚えがあった。


どこの窓か、考えるより先に、体のほうが分かった。


去年、わたしが買った家の、居間の窓だ。


去年の暮れ、わたしは郊外に小さな中古の家を買った。


独りで生きていくと決めた、その覚悟の代わりみたいな買い物だった。


父には電話で一度だけ伝えた。


「そうか」で終わった。


ただ、年が明けてから、父は一度だけ、前触れもなく家を見に来た。


上がりもせず、庭先から居間の窓を長いこと眺めて、茶も飲まずに帰った。


愛想のない人だとあきれて、それきり忘れていた。


表の戸が開いて、矢部のおじさんが顔を出した。


拝み屋が来ると聞いて、様子を見に来たらしい。


帳面の最後の頁を覗きこんで、おじさんは、ああ、と息をついた。


「削ってたよ、勝さん。倒れる前の晩までな。板は、去年のうちから選んであった。千夏ちゃんが家を買ったと聞いてから、碁を打つ手が、そわそわして仕方なかっただ」


雪見障子というのは、下半分に硝子が入って、座ったまま外の景色が見える障子だ。


子どものころ、よその家で見て、うちにも欲しいと父にねだったことがある。


父は「うちには要らん」と言った。


三十年も前の話だ。


それも、忘れていた。


「継がせる気なんて、なかったんです」わたしは、帳面を見たまま言った。


「女の手には合わんって、道具にも触らせなかった。それなのに、どうして」


「継がせなかったのはな、手に合わんからじゃねえよ」おじさんは、ゆっくり言った。


「この商売が先細るのを、勝さんは誰より知ってた。娘に苦労させたくなかっただけだ。碁を打ちながら、いっぺんだけ言ってたよ。『あれの手は、いい手だ。もったいねえが、俺の代で仕舞う』とな」


慈恩さんは、作業台の鉋を見おろしていた。


「幽霊じゃありませんよ」と言った。


「お父さんが化けて出て、あなたの手を動かしてるわけじゃない。——道具に、手つきが染みてるんです。何十年も同じ手に握られてきた道具には、その手の癖が残る。で、道具は、自分じゃ動けません。だから、握ってくれた手に、移るんです」


ただし、と慈恩さんは付け足した。


移るのは、仕舞い残した一件のぶんだけ。


あの手は、あなたに技を仕込む気はない。


最後の注文を、納めそこねているだけです——。


「祓えますよ」慈恩さんは、わたしを見た。


「祓えば、手はもう動きません。道具はただの道具に、あの一枚はただの木に戻ります。でもそれは、仕舞いじゃなくて、忘れることです。仕上げるか、祓うか、このまま蓋をするか。ぼくは決めません。決めるのは、あなたです」


迷っているわたしの掌に、慈恩さんは小瓶の粗塩を、ひとつまみ載せた。


「決める前に、ひとつ」。


水は使わない、あなたの汗で溶かすのだと言った。


わたしは塩を握った。


事務仕事の手は、なかなか汗をかかなかった。


それでも握っているうちに、掌がじんわり湿って、塩の角が丸くなっていった。


その塩で、作業台の縁を、ひと回り、指で撫でた。


何十年も父の肘が載ってきた縁は、手の脂で黒く光っていた。


撫で終わると、工房の空気が、少しだけ軽くなった気がした。


「仕上げます」と、わたしは言った。


「仕上げて、うちの窓に、入れます」


それから二週間、わたしは会社帰りに栄町へ通った。


鉋を握ると、手が動いた。


手の運ぶままに、削り、あわせ、組んだ。


わたしはそれを、自分の手の内側から見ていた。


通いはじめて、分かったことがある。


工房は、夜のほうがあたたかい。


裸電球の下で木を削っていると、隣の茶の間で宿題をしていた子どもの耳に、この音がどれだけ近くにあったか、いまさら分かった。


会社の昼休みには、指が机の木目をなぞっているのに気づいて、あわてて手を引っ込めたりした。


不思議なことに、通ううちに、借りる手は日ごとに薄くなっていった。


最初は十のうち十、父の手だった。


それが九になり、七になり、しまいには、削る前に親指で刃を撫でる癖だけが残って、あとはわたしの、たどたどしい手になった。


道具が、手を返していくのだと思った。


最後の一本の組子は、まるまる自分の手で削った。


屑は厚くて、不格好だった。


三度削りすぎて、木を無駄にした。


それでも、四度目は、はまった。


建て上がった一枚を前に、慈恩さんが、無地のメモカードをくれた。


わたしは鉛筆で、短く書いた。


——たしかに、うけとりました。


それを、注文控の最後の頁に挟んだ。


それから、誰もいない工房で、声に出した。


「お父さん」。


声が、思ったより掠れた。


「受け取ります。……祝いなら、口で言ってよ。一言くらい、言ってよ」。


あとは、言葉にならなかった。


作業台の向こうで誰かが「よし」と言ってくれる気がして、耳を澄ました。


工房は、静かだった。


木のにおいだけがした。


表で待っていた慈恩さんの煙草のけむりが、戸の隙間から、細く流れて消えた。


十二月の頭に、雪見障子は、うちの居間の窓に納まった。


建て付けは、矢部のおじさんが手を貸してくれた。


障子を建てた窓は、店で見てきたどの建具より小さかった。


それでも父は、この一枚のために、去年のうちから板を選んだのだ。


看板を下ろす日、わたしは道具をぜんぶおじさんの店で研いでもらい、戻ってきた刃に油を引いて、一本ずつ木箱に仕舞った。


鉋を仕舞うとき、最後にもう一度だけ、握ってみた。


手は、もう動かなかった。


ただのわたしの手が、ただの重い道具を持っていた。


廃業の紙は、あっけないものだった。


判子を一つ押すだけで、二代の店が終わった。


帰りぎわ、慈恩さんに訊いた。


畳んで、よかったんでしょうか。


慈恩さんは、糸目のまま言った。


「仕舞いってのは、仕事のうちですよ。それも、いちばん難しいやつです。それに——いい職人の手は、店より長生きします。げんに一枚、納まったでしょう」


食えない人だ、と思った。


でも、その一言で、押した判子の重さが、少しだけ変わった。


一月の朝、初めての雪が降った。


わたしは居間に座って、雪見障子の硝子越しに、白くなっていく小さな庭を見ていた。


座ったまま、外が見える。


何も言わずに寸法だけ測って帰った人の、これが一言なのだと思った。


掌を開くと、指はもう、刃の撫で方を覚えていない。


それでいい。


ただ、削りすぎて無駄にした木のにおいだけは、まだ手のどこかに残っている。


「よし」の一言は、とうとう聞けなかった。


その分だけこの障子は、冬のあいだじゅう、明るい。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ