第二話 出ていない会議
金曜、私は会社を休んだ。
朝、起きたときから胃が重かった。
熱はない。
頭痛もない。
それでも、会社へ向かうことを考えると、しばらく布団から出られなかった。
上司へ連絡すると、
『今日は休んでください』
と返ってきた。
言われた通りにした。
昼過ぎまで眠った。
夕方、仕事用のスマートフォンが震えた。
見ないつもりだった。
でも、画面を見た。
吉岡君からの社内チャットだった。
『月曜で大丈夫です。新規代理店の一覧、お願いします』
何の話か分からない。
『ごめん。何の件?』
すぐに返事が来た。
『今日の部門会議です。議事録に水野さん担当って』
私はベッドから起き上がった。
今日の部門会議。
私は出席していない。
招待もされていない。
『私、その会議出てないよ』
『そうですよね。でも担当欄に』
添付された画像を開いた。
部門会議議事録。
対応事項。
『新規代理店候補一覧作成』
『担当:水野』
指先が冷えた。
月曜。
私は出社すると、真っ先に野上課長の席へ行った。
「金曜の部門会議、私、出てませんよね」
「ああ。休みだったからな」
「これ、誰が私の担当にしました?」
印刷した議事録を置いた。
課長が眉を寄せた。
「誰だったかな」
「決めたんですか?」
「いや……」
しばらく考えてから、首を振った。
「決めてないな」
「じゃあ、どうして私の名前が入ってるんですか」
「議事録作ったの、企画の田村だろ。聞いてみるか」
田村さんにも聞いた。
「入れてません」
即答だった。
「最後まで担当空欄でした」
「履歴にも残ってないんです」
「私、その欄、触ってませんから」
「じゃあ、誰が」
「分かりません」
田村さんの顔から笑いが消えた。
総務の古川さんへ相談したのは、その日の昼だった。
システム担当では解決しなかった。
人が触っていないのなら、次にどこへ持っていけばいいのか分からなかったからだ。
古川さんは話を最後まで聞いたあと、机の引き出しから白い名刺を出した。
会社名らしいものは、小さく一つだけ。
『慈恩・オフィス』
その下に、慈恩という名前と電話番号があった。
「前に、変なことが続いた会社の人からもらいました。私は使ったことないですけど」
「何をする人ですか」
「そこが、よく分からないんです」
紹介としてはかなり弱かった。
それでも、その日の夕方に電話した。
四回鳴って、男の声が出た。
「はい」
「水野と申します。相談したいことがあって」
「どんな?」
「会社の議事録に、勝手に私の名前が入ります」
少し間があった。
「画面だけじゃ分からないんで、来られます?」
◆
神宝町の十階建てのビル。
最上階の扉を開けると、煙草の匂いがした。
「どうぞー」
奥から声がする。
黒いスーツの男が、革張りの椅子に沈んでいた。
年齢は五十前後に見えた。
目は細く閉じていて、ひどく眠そうだった。
「水野紗季です」
「慈恩です」
向かいの丸椅子を指された。
私は月曜からのことを順に話した。
空欄に名前が入ること。
消しても、担当が決まらないままだと戻ること。
担当が決まらなかった会議の翌朝に出ること。
私が出席していない会議にも出たこと。
慈恩は途中で質問を挟まなかった。
全部聞いたあと、煙草を灰皿に置いた。
「その名前が入った仕事、どうしてます?」
「やっています」
「毎回?」
「はい」
「なんで?」
「放っておけないので」
「名前が入ってるから?」
「それもありますけど……誰もやらなかったら、期限が来ます」
「なるほど」
慈恩が初めて頷いた。
「空いてる仕事が嫌なんですね」
「嫌、というか」
言葉を探した。
「担当が決まっていないのに、会議が終わるのが嫌なんです。誰も持ってない仕事って、結局どこかで事故になるので」
「七年、それを拾ってきた?」
「はい」
「頼られたいとか?」
「違います」
そこだけはすぐに言えた。
「むしろ、誰かがちゃんと持ってくれるなら、そのほうがいいです」
「じゃあ話が早いですねー」
慈恩は立ち上がった。
「会社、見せてください」
「今からですか」
「今日じゃなくていいですよー。外部の人間を入れる手続き、あるでしょうし」
翌日。
その手続きは総務が作ってくれた。
『来訪目的:業務フロー確認』
『受入責任者:水野紗季』
古川さんは何も疑問に思っていなかった。
◆
慈恩は会議室へ入ると、最初に議事録を見せてほしいと言った。
「最近のだけでいいですか」
「一年前くらい」
「そんなに?」
「めんどくせぇでしょうけどねー」
私は共有フォルダから過去の議事録を開いた。
慈恩は椅子へ座ったまま、私にページを送らせた。
自分ではマウスに触らない。
三月。
『担当:水野』
その前の会議メモには担当者なし。
四月。
『担当:水野』
チャットには「誰か対応できますか」のまま返事なし。
六月。
『担当:水野』
私は覚えていた。
その頃までは、自分から「私がやります」と言っていた。
「これも?」
「はい」
「これも?」
「……はい」
「去年は、名前が勝手に入ることは?」
「ありません」
「じゃあ、最初は全部、水野さんが自分で埋めてた」
「そうです」
慈恩は画面ではなく、私の顔の少し上を見た。
「七年やったら、そりゃ覚えますよねー」
「誰がですか」
「まだ分かりません」
午後、野上課長と田村さんにも残ってもらった。
パソコンは閉じた。
ホワイトボードだけを使う。
田村さんが黒いマーカーで書く。
『共有棚の旧資料を整理する』
その下に、
『担当:』
とだけ書いた。
「誰がやります?」
私が聞いた。
誰も答えない。
野上課長が腕を組んだ。
「急ぎじゃないよな」
「では、担当は?」
「あとで決めよう」
「誰が決めます?」
課長が少し困った顔をした。
「そこまで決める?」
そのまま、田村さんがノートを閉じた。
「じゃあ、今日はここまでで」
全員が椅子を引いた。
黒い線が動いた。
誰もマーカーを持っていない。
『担当:』
その右側に、一画ずつ字が増えていく。
『水』
田村さんが立ったまま固まった。
『水野』
最後の線が止まる。
野上課長の喉が鳴った。
「俺、書いてないぞ」
「見れば分かります」
自分でも驚くほど平らな声が出た。
慈恩だけは座ったままだった。
「もう一回やりましょうか」
田村さんが「もう?」という顔をした。
慈恩は気にしない。
今度は別の仕事を書く。
『倉庫の備品数を確認する』
『担当:』
私は言った。
「担当は、まだ決めません」
野上課長を見る。
「木曜までに、課長が決めてください」
「俺が?」
「はい。決める人を決めます」
課長は少し考えたあと、頷いた。
「分かった。木曜までに俺が決める」
田村さんがその下に書く。
『担当:未定』
『決定:野上』
『期限:木曜』
「今日はここまでです」
田村さんがノートを閉じた。
全員で待った。
何も起きない。
一分。
二分。
『未定』は『水野』にならなかった。
慈恩が立った。
「これですねー」
「何がです?」
「水野さんを狙ってるんじゃない」
最初のホワイトボードを指す。
『担当:水野』
「決めることまで放り出した仕事に、いつもの答えが入ってるだけです」
「いつもの答え」
「七年分の」
私は二枚目を見る。
『担当:未定』
『決定:野上』
そこには何も増えない。
「未定って書けばいいんですか」
「文字が効いてるわけじゃないですよー」
慈恩はポケットから小さな白いカードを一枚出した。
「決めてないことを、決めてないまま誰かに渡さない。それだけです」
「怪異は?」
「祓う相手、いませんねー」
「じゃあ、これで終わりですか」
「まだ」
白いカードが私の手に置かれた。
「明日の本番で、水野さんが同じことできたら」
「本番?」
「普通の会議ですよー」
慈恩は小瓶の粗塩を一度ポケットから出して、また戻した。
「今回は、こっちは要らないです」





