第五章「異端の天使」 10
――――《具現》。
TODⅢの眼前から虚空に浮かぶようにして突如として出現した巨大な岩の塊。
あれが出現した時点でリンネは本能的に身の危険を察知し、感覚神経を通して全身に強い警告を発していた。
よもや、あらゆる物質や現象を破壊できる彼女がまして物質を創造するなど、誰が考えようものか……。
襲い来る無数の岩の礫に対応をせざるを得ない戦況のなか、とんだ先入観を抱いてしまったことを悔いるリンネに対して、TODⅢが次の手を仕掛けてくるのにはそう時間は掛からなかった。
TODⅢは背に生やした人工翼で飛翔し、《九尾》の力を借りて浮遊するリンネのがら空きとなった無防備な背後を透かさず取る。
そして、感情の抜け落ちた冷ややかな視線の先にリンネの姿を捕らえたTODⅢは容赦なく《破壊》の力を込めた右腕を振り下ろした。
――――間に合わない!
リンネが覚悟を決めて強く瞳を閉じると、次の瞬間――――先程まで防護壁を展開するために力を貸していたはずの契約精霊《九尾》がリンネの傍らから咄嗟に二人の間を割って入るように飛び出してきた。
無論、そんなことをすれば、どうなってしまうか……契約精霊の《九尾》にだって分かっているはずだ。
「――――九尾ッ!」
咄嗟の出来事で少し反応が遅れたリンネは自分の契約精霊が主である自分の身を護るために自らの身体を張って盾になってくれようとしている状況を頭で理解すると、語気を強めて契約精霊の名前を叫んだ。
「…………」
無機質にして無感情な表情を浮かべるTODⅢはリンネとの間に突如介入してきた《九尾》の姿を軽く一瞥すると、そのまま《破壊》を帯びた右腕を《九尾》の胴体に勢いよく叩き込んだ。
契約精霊の《九尾》はTODⅢの攻撃を正面から諸に喰らうと、強い超振動のようなものを受けて右腕の触れた部分から次第に微細な粒子となって消失していく。
また、使役していた《九尾》が消失したことによって浮力を失ったリンネは敵に無防備な姿を晒した状態で宙に放り出されると、やがて地面に向かってゆっくりと落下し始めた。
それはまさに敵側からすれば、恰好の獲物だ。
「今度こそ仕留めます」
TODⅢは人工翼の機動力を活かして《破壊》による反動を押し殺すと、追撃を仕掛けるように再度右腕に《破壊》を纏い、リンネに襲い掛かってくる。
(……このままだと、まずい!)
契約精霊を失ったリンネはそう胸中で呟きながら渋面を浮かべると、眼前に迫りくる脅威に対して思わず額に汗を滲ませた。
袖に仕込んである式札で迎撃しようにも、人工翼の機動力を持ったTODⅢには単なる付け焼刃でしかない。
それどころか、《破壊》によって軽く薙ぎ払われ、時間稼ぎにすらならないだろう。
だが、このまま何もしなければ、リンネは確実に《破壊》の餌食となってしまうことは言うまでもない。
だから、僅かでも良い。この最悪な状況を打破するために敵の攻撃範囲から少しでも逸れることが出来れば……。
リンネがこうして逡巡している間にもTODⅢは確実に距離を詰め、獲物を仕留めるために接近してきている――――あまり時間はない。
(……これだけは、使いたくなかったけど……)
リンネは自分のなかで考えを纏めると、ゆっくり両腕を広げて静かに目を瞑った。
「大人しく覚悟を決めたようですね……でしたら、後はどうか無残に散ってください」
「――――《破壊》」
TODⅢがそう言い終える頃には彼女の右腕はリンネの胸元に触れる瞬間だった。
伸ばした右腕の先には依然として目を瞑ったままのリンネの姿がある。
地上から二人の戦闘の一部始終を眺めていた奏夜も『案外、呆気ねぇナァ』とぼやきながら、白衣のポケットに入れてあった煙草と着火機材に手を伸ばす。
誰もがリンネの無残な敗北を確信していた――――ちょうど、その刹那だった。
「……消えた?」
ほんの数秒前まで正確に捕捉していたはずの標的、リンネの姿が一瞬にして視界から消えてなくなる。おかげで、振り被ったTODⅢの攻撃はどういう訳かただただ空を掠めるだけで、手応えのない感触だけがその右腕に残っていた。
TODⅢは現状を再認識するため人工翼で素早く旋回すると、リンネの消失地点から一度距離を取って体勢を整えようと試みる。
だが――――消えたはずのリンネの姿を再び捉えるのに、そう時間はいらなかった。
リンネの消失地点。
そこから数メートル程しか離れていない場所に彼女は存在していた。
――――しかし、ただ、存在していた、という表現ではあまりに抽象的かもしれない。
彼女は、そう――――浮かんでいた。宙に佇んでいた、と言っても過言ではないだろう。
契約精霊の《九尾》が与えた浮遊力の恩恵とはまた違う《核心術》の根幹にも相似する偉業とも呼べる核心力……。
リンネはTODⅢの攻撃が間近に迫るまで敢えて引き寄せ、寸前のところで相手の軌道から上手く外れることで間一髪、回避してみせたのだ。
地上から眺めていた天使研究の第一人者でもある奏夜はそのあまりの衝撃に思わず手に掴んでいた煙草と着火機材を滑り落として、わなわなと全身を震わせる。
ましてや、その衝撃は表情こそ変わらないが、感情の起伏が乏しいTODⅢでさえリンネのその姿を凝視して動揺しているかのように見えた。
透き通るように輝かしく、力強くも美しい、天使だけが持つことを許された純白の翼。
それが、彼女――――神聖なる天使であるリンネの背中から忽然と姿を現していたのだ。
奏夜は手元から滑り落ちた煙草や着火機材には目もくれず、まるで魅入られたかのように視線をリンネの一点に絞る。
そして、奏夜はその天使の本来の姿を目の当たりにして、ある決定的な異変に気が付く。
途端。酷く息を荒げ、全身の震えを押さえるように両腕で強く自身の身体を抱き締めた奏夜は舌舐め擦りをしながら興奮して血走った紅色の瞳をギラギラと滾らせ、上空に飛翔する一人の天使の姿を狂気的な眼差しで見詰めると、口の端を吊り上げ、不敵に嗤ってこう言い放つのだった――――
「――――片翼の天使」
――――と。




