第五章「異端の天使」 1
第五章「天使の微笑み」
――――世界はいつだって、見せ掛けの平和で満ち溢れていた。
多くの人類や生き物たちは、世界にひっそりと潜みながら、次第に蔓延していく『闇』の存在を知らない。
それはおそらく、生きとし生ける者の全てが常に心の中に宿し得るもの。
決して抹消することのできない、深い深い『闇』は流れゆく時間のなかで、世代を追うごとに着実に力を増幅させていった。
――――弱肉強食の世界。
――――それがこの世界に生きる上での当たり前の摂理。
自らがこの調律された世界で『生』を受けるためには別の何かを――――或いは他の誰かを犠牲にしなければ、存続することができない。
――――世界は生まれた瞬間から、そういう風に出来てしまっている。
最終的に世界が辿り着く先――――その終焉がどんな結果であろうとも、世界は非条理に崩れ去っていく。
生命が長い年月を掛けて積み上げてきた歴史や文化、人類が成長していくごとに蓄積されてきた数多の記録や大切な思い出。
――――大切な誰かと共に過ごした幸福に満ち溢れていた時間。
――――時には笑い合い、哀しみ合い、怒鳴り合った、掛け替えのない日々の数々。
それら全てが、まるで――――そこには初めから存在していなかったように、瞬間的な速度で無惨にも掻き消えていく。
人も水も、建物も景色も、土地に宿る精霊や神々でさえも、『深淵の闇』は容赦なく飲み込んでいく――――そんな風景の一部始終を何も出来ずに『永遠』と見続けてきた少女は、自分という存在の不甲斐なさにただただ後悔を繰り返すばかりだった……。
「――――ねぇ、もしかして、君も一人なの?」
精霊の森の奥地――――湖が広がる神殿の片隅で薄汚れた衣服に身を纏った、小柄でか細い腕と脚が印象的だった少年のあどけない表情がふと脳裏に浮かぶ。
「――――もし、君も一人なら、僕と――――友だちになってくれませんか!」
その時の私は、てっきり夢でも見ていたのではないだろうか――――そう、錯覚してしまう程に衝撃的な出来事で思考回路が思わず一時停止してしまったのを覚えている。
それもそのはず――――『天使』である私の姿は、『人類』の眼で視認することはおろか、あらゆる最高位の『術』を用いたとしても、認知できないようになっているからだ。
それは言うなれば、人が実体のない水や空気を物理的に手で掴めないのと同様に、世界が決定付けた自然の摂理――――『運命力』に他ならない。
『運命力』を覆すことは、世界そのものを創り返ることと同義とも言える偉業であり、世界の創造主である『最高神』にしかその権限は与えられておらず、ましてや年端もいかない子どもが為せる業ではない。
――――これは、何かの間違い。私の世界に存在できるのは、他でもない私自身だけ。
――――『天使』である私は、人の温もりに触れることを『世界』から許されてはいなかった。
――――なのに、どうしてだろう。
――――不思議と、私は、その少年からそっと差し伸べられた小さな手に強く惹かれていた。
その細い腕から突き出した小さな手は、賑やかで裕福な街で暮らす他の生命体に比べてもとても貧弱そうで、手を握り返しただけで簡単に折れてしまいそうなくらいに頼りない。
――――私はこの『世界』を守護するために『最高神』に創られた『天使』なんだ。
――――現在、ここに存在する『現実世界』と、同列の世界線に存在しながらも決して交わる事のない『天使だけの固有世界』。その垣根を越えるような手段などあり得ない。否、あってはならないのだ。
――――『天使』は『現実世界』の安寧と発展を守護する者。ただ、それだけの存在なのだ……。
ましてや、世界が創り出された時点から定められた世界の摂理『運命力』を覆すことも、永遠と繰り返されてきた『深淵の闇』による世界の侵攻を阻むことすら叶いそうにない――――そんな、不安ばかりが募る小さな彼の手を――――、
「――――はい。喜んで」
リンネは伸ばした両手でそっと優しく包み込み、これまでに感じたことのない胸の高鳴りに満面の笑みを露にしながら、人の温もりというものに初めて触れたのだった。




