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勇者にすべてを奪われた俺、魔王として帰還する  作者: 未定 Ω
第1部 勇者が捨てた男

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002 黒炎の魔王

北方深淵から立ち上る黒炎は、三日経っても消えなかった。


それどころか、日を追うごとに存在感を増しているようにすら見えた。


王都から北を見れば、遠い地平線の向こうに黒く揺らめく炎が見える。昼間であっても空はどこか薄暗く、まるで太陽そのものが怯えて隠れてしまったかのようだった。夜になれば、その異様さはさらに際立つ。漆黒の炎柱が雲を焦がし、時折、雷にも似た低い唸り声が大地を震わせる。


王都全体が、不気味な緊張に包まれている。


昼でも北の空だけが薄暗く染まり、夜になれば巨大な炎柱が雲を焦がした。酒場では魔王復活の噂が飛び交い、教会では終末を恐れる民が列を作る。騎士団は連日出撃を繰り返していたが、深淵へ近づいた部隊は誰一人戻らなかった。


そんな中でも、人々は勇者を求める。


不安が広がれば広がるほど、人は強い光を欲しがる。


誰かに「大丈夫だ」と言ってほしくなる。


誰かに「きっと救われる」と保証してほしくなる。


だから人々は、黒炎を恐れながらも、勇者レオという存在に縋り続けていた。


不安が大きいほど、希望という看板が必要になるからだ。


「勇者レオ様ならきっと魔王を倒してくださる!」

「今度こそ世界を救ってくださるんだ!」


歓声を浴びながら、レオは城の回廊を歩いていた。


騎士たちは敬礼し、侍女たちは憧れの眼差しを向ける。廊下に飾られた新しい絵画には、すでに“北方深淵の戦い”が描かれていた。


勇者レオが聖剣を掲げ、魔を退ける姿。


その背後には誰もいない。


本来なら隣にいたはずの副団長の姿は、最初から存在しなかったかのように消されていた。


だが、その顔に余裕はない。


北方深淵から戻って以来、眠れていなかった。


目を閉じるたびに思い出す。


耳を塞いでも、あの日の音が消えない。


崩れ落ちる岩盤の音。


吹雪の中で軋む結界。


そして、自分が最後までカインを見捨てた瞬間の沈黙。


崩れ落ちる足場。


闇へ落ちていくカイン。


そして最後に見た、あの目。


責めてもいない。


恨みを叫んでもいない。


ただ、全部を理解した目だった。


「……っ」


レオは無意識に拳を握り締めた。


あれ以来、剣を振るう感覚が狂っている。


敵を斬っても、以前のような高揚感がない。


むしろ、周囲の歓声が大きくなるほど胸の奥がざわついた。


本当に、自分は勇者なのか。


その疑問が、頭から離れない。


「レオ様」


声をかけられ、振り返る。


白い法衣を纏った司祭たちが、深刻な顔で並んでいた。


「北方の調査隊が全滅しました」


「……またか」


「確認された魔力量は、すでに過去の魔王級を上回っています」


司祭の言葉に、空気が重く沈む。


「魔王認定を行います」


その一言に、レオの喉がわずかに動いた。


魔王。


世界の敵。


勇者が倒すべき存在。


本来なら、ここで恐怖より先に使命感が湧くべきだった。だがレオの脳裏に浮かんだのは、漆黒の炎の中に見えた剣筋だった。


あれは。


間違いなく、カインの剣だった。


「……本当に魔王なのか?」


思わず漏れた声に、司祭が眉をひそめる。


「何を仰るのです」


「いや……」


レオは言葉を切った。


言えるはずがない。


勇者パーティ副団長だった男が、魔王として戻ってきたなど。


そんな話をすれば、教会は即座に口封じへ動くだろう。


あるいは。


自分自身が、その真実に耐えられなかった。


司祭は静かに続ける。


「勇者様。あなたには近く、魔王討伐のための再遠征へ向かっていただきます」


レオは反射的に頷きかけた。


だが、その瞬間。


脳裏に浮かぶ。


カインの背中。


いつも前を歩き、自分の失敗を補い、迷った時には答えを出してくれた男。


そして最後まで、自分たちを守ろうとした男。


レオは奥歯を噛み締めた。


「……準備が必要だ」


「勇者様?」


「今の戦力じゃ無理だ。深淵の魔力は異常だし、近づいた兵が全滅してる。もう少し情報を集めないと――」


「恐れておられるのですか?」


司祭の声が、わずかに冷えた。


レオの肩が揺れる。


その反応を見て、司祭たちは視線を交わした。


「勇者様。あなたは世界の希望です」


「……分かってる」


「ならば迷ってはなりません。人々は、あなたが必ず魔王を討つと信じています」


信じている。


その言葉が、今のレオには呪いのように聞こえた。


以前なら違った。


勇者として期待されることが誇らしかった。


人々に必要とされるたび、自分は特別なのだと思えた。


だが今は違う。


賞賛されるほど、胸の奥に黒い泥のような感情が溜まっていく。


その歓声の土台に、カインという男の犠牲があると知ってしまったからだ。


期待されるほど、恐怖が大きくなる。


もし次の戦場で、自分が勝てなかったら。


もし、カインが本当に生きていたら。


もし。


あの男が、自分より強かったら。


「……失礼する」


レオは短く告げ、司祭たちの横を通り過ぎた。


その背中を、冷たい視線が見送っていた。


王城の中庭では、セレナが一人で祈りを捧げていた。


白い石畳には夜露が降り、噴水の水面に月明かりが揺れている。普段なら心を落ち着かせるはずの静かな庭園が、今のセレナにはひどく冷たく感じられた。


噴水の水音だけが静かに響く。


彼女はこの数日、ほとんど眠っていない。


眠ろうとすると、必ず夢を見るからだ。


深淵へ落ちていくカインの姿を。


黒い闇へ呑まれながら、それでも最後まで自分たちを庇おうとしていた背中を。


眠れば夢を見るからだ。


深淵へ落ちていくカインを。


伸ばした手が届かない夢を。


「……どうして」


小さく漏れた声は、風に消えた。


どうして止められなかったのか。


どうして一緒に飛び込めなかったのか。


どうして、自分は最後まで“聖女”でいることを選んでしまったのか。


答えは分かっている。


怖かったのだ。


教会に逆らうことが。


聖女としての役割を失うことが。


世界から否定されることが。


そして何より。


カインに手を伸ばした瞬間、自分がもう“勇者の隣に立つ聖女”ではいられなくなることが。


「最低……」


自嘲するように呟く。


彼は最後まで、自分たちを守った。


なのに自分は、最後まで役割を捨てきれなかった。


その時。


背後から足音が聞こえた。


「セレナ」


振り返ると、レオが立っていた。


だが、彼女はすぐに違和感に気づく。


痩せている。


目の下に隈が浮かび、以前のような自信が感じられない。


まるで何かに追い詰められているようだった。


「……大丈夫ですか?」


「それ、今の俺に聞く?」


レオは乾いた笑みを浮かべた。


セレナは答えられなかった。


二人の間に、重い沈黙が落ちる。


以前なら、こんな空気にはならなかった。


三人でいる時、空気の中心にはいつもレオがいた。


レオが笑えば場が明るくなり、セレナが呆れたようにため息をつき、カインが静かに後始末をする。


それが自然だった。


ずっと続くものだと思っていた。


だが今、その均衡は壊れている。


二人だけになった空間は、驚くほど不安定だった。


レオはいつも場を明るくしたし、セレナも自然に笑えていた。だが今は違う。二人の間には、どうしてもカインの不在が横たわっていた。


レオが先に口を開く。


「……お前も思ったよな」


「え?」


「黒炎の中の剣」


セレナの呼吸が止まる。


レオは視線を逸らしたまま言った。


「あれ、カインだった」


否定できなかった。


したくなかった。


セレナはゆっくり頷いた。


「……私も、そう思いました」


その瞬間、レオが苦しそうに顔を歪めた。


「なんでだよ……」


絞り出すような声だった。


「なんで、あいつなんだよ」


セレナは何も言えない。


レオは震える拳を見つめながら続けた。


「俺は勇者なんだ。魔王を倒して、世界を救う側なんだ。なのに……なんであいつが、そっちに行くんだよ」


その言葉を聞いて、セレナは胸が痛んだ。


違う。


カインは最初から魔王だったわけじゃない。


世界が。


自分たちが。


彼をそこへ追いやったのだ。


だが、その言葉は喉で止まった。


今さらそんな正論をぶつけても、何も戻らない。


「レオ」


「分かってる!」


レオが声を荒げた。


「俺が悪いんだろ!? でも仕方なかったじゃないか! あいつがいたら、俺は勇者になれなかった!」


感情を吐き出した直後、レオは自分で自分の言葉に傷ついたような顔をした。


「……俺は」


彼は弱々しく呟く。


「俺は、主役になりたかっただけなんだ」


セレナは目を閉じた。


責められなかった。


レオもまた、この世界に押しつけられた役割の中で壊れ始めている。


勇者でいなければならない。


期待に応え続けなければならない。


そうやって、誰も本当の自分ではいられなくなる。


その夜。


北方深淵の周囲では、魔力嵐が吹き荒れていた。


空気そのものが歪み、普通の生物なら近づくだけで発狂すると言われる濃密な闇が大地を覆っている。


その中心で。


北方深淵のさらに奥。


漆黒の城が、静かに形を成していた。


黒い岩壁がうねり、闇そのものが城壁へ変わっていく。地面から噴き出した黒炎が塔を作り、天井のない大広間を照らしていた。


その中心。


巨大な王座に、一人の男が座っている。


黒い外套。


赤く燃える瞳。


そして、膝の上に置かれた漆黒の剣。


カインはゆっくり目を開いた。


視界に映る景色は、もはや人間の王城とは別物だった。


壁は脈動するように黒く揺れ、床の下では巨大な魔力が鼓動している。まるで城そのものが生き物のようだった。


身体の奥で、黒炎が脈打っている。


怒りが消えない。


少しでも気を抜けば、胸の奥から黒炎が噴き出してきそうになる。


それは感情というより、本能に近かった。


憎め。


忘れるな。


怒り続けろ。


魔王の力が、そう囁き続けてくる。


いや、消えた瞬間に、自分という存在そのものが崩れ落ちると理解していた。


魔王の力は呪いだ。


歴代魔王の記憶が、断片的に流れ込んでくる。


勇者に討たれた瞬間。


裏切られた瞬間。


人々から怪物として石を投げられた瞬間。


そのどれもが、激しい怒りと絶望に満ちていた。


彼らは最初から怪物だったわけではない。


誰かに敵役を押しつけられ、憎しみを背負わされ、最後には“倒されるべき悪”として処理された。


カインは、その事実を知ってしまった。


怒りを燃料に存在を維持する。


だから忘れられない。


裏切りも。


喪失も。


セレナの泣き顔も。


全部が黒炎になって胸の奥で燃え続ける。


『馴染んできたな』


頭の奥で、低い声が響く。


歴代魔王の残滓。


今では、それが自分の一部になりつつあった。


「黙れ」


カインが吐き捨てる。


『怒りを否定するか?』


「違う」


カインは静かに立ち上がった。


黒炎が足元で揺れる。


「飲まれないだけだ」


怒りに呑まれた瞬間、自分は本当に怪物になる。


だからカインは、辛うじて理性を繋ぎ止めていた。


自分が何を憎んでいるのか。


何を壊したいのか。


それだけは見失わないように。


その時、広間の奥から複数の気配が近づいてきた。


魔族たちだった。


その姿は、人間たちが教科書で語る“醜悪な魔族”とは違っていた。


疲弊し、怯え、傷ついた者たち。


幼い子どもを抱えた女。


足を失った兵士。


焼け焦げた布を纏った老人。


彼らは化け物ではなく、ただ生き延びようとしている人々に見えた。


角を持つ者。


獣の耳を持つ者。


片腕を失った老兵。


どの顔にも警戒と恐怖が浮かんでいる。


その中の一人が、震える声で口を開いた。


「ほ、本当に……新しい魔王なのですか」


カインは彼らを見下ろした。


歴代の魔王なら、ここで力を示して服従させるのだろう。


だが、カインは違った。


「お前たちは、人間に追われているのか」


魔族たちは困惑したように顔を見合わせる。


老兵が前へ出た。


「……はい。村を焼かれました。勇者軍に」


その言葉に、カインの瞳がわずかに揺れた。


勇者軍。


その言葉を聞いた瞬間、カインの胸の奥で黒炎が揺れた。


正義の軍。


世界を守る軍。


人々はそう呼ぶ。


だが、敵と定義された側から見ればどうだ。


村を焼かれ、家族を失い、理由も聞かれず討伐される。


それは本当に“正義”なのか。


正義の名で進軍し、魔族を討伐する者たち。


だが、その実態はどうだ。


敵と定義された瞬間、相手の事情など誰も見ない。


魔王だから殺す。


魔族だから滅ぼす。


それは人間側が、自分へ向けてきた理屈と同じだった。


カインは静かに言う。


「……安心しろ」


魔族たちが息を呑む。


「もう誰にも、お前たちを好き勝手には殺させない」


その瞬間。


広間の黒炎が、大きく揺らめいた。


まるで新しい王の誕生を祝福するように。


だが、魔族たちの表情から恐怖は消えなかった。


当然だった。


魔王とは、彼らにとっても絶対の支配者だ。


歴代魔王の多くは力によって魔族を従わせ、怒りと恐怖で軍勢を築いてきた。逆らえば殺される。命令に従わなければ捨て駒にされる。


それが魔王という存在だった。


だからこそ、目の前の男の言葉が理解できない。


守る。


そんな言葉を、魔王が口にするはずがなかった。


沈黙の中、幼い魔族の少女が母親の後ろから顔を覗かせる。


小さな角。


煤で汚れた頬。


そして怯え切った目。


その目を見た瞬間、カインの胸に鈍い痛みが走った。


王都近郊の村で救助活動をした時も、こんな目を見たことがある。


魔獣被害で家を失った子ども。


盗賊に襲われた商人の娘。


戦争は、いつも力のない者から全部を奪っていく。


人間でも。


魔族でも。


それは変わらない。


カインはゆっくり視線を伏せた。


もし自分が、最初からこういう光景を見ていたら。


もし勇者としてではなく、“敵側”から世界を見ていたら。


自分は何を守ろうとしていたのだろう。


『迷うな』


頭の奥で、歴代魔王の声が響く。


『憎しみこそが力だ』


「分かってる」


カインは低く呟いた。


怒りを失えば、自分は崩壊する。


今の自分は、怒りによって形を保っている存在だ。


だから憎しみは必要だ。


だが。


憎むだけでは、結局また同じことが繰り返される。


勇者がいて。


魔王がいて。


誰かが英雄になり、誰かが悪として殺される。


そんな物語の輪の中で、また誰かが踏み潰される。


カインは、それを終わらせたかった。


その時。


広間の外から轟音が響いた。


魔族たちが怯えたように身を寄せ合う。


直後、黒い兵士が広間へ飛び込んできた。


「魔王様!」


片膝をついた兵士は、息を荒げながら報告する。


「人間の討伐隊です! 深淵外縁部まで侵入しています!」


空気が緊張に包まれた。


魔族たちの顔から血の気が引く。


まだ村を焼かれた記憶が生々しく残っているのだろう。


老兵が震える声で言う。


「も、もう追ってきたのか……」


「子どもたちを隠せ!」


「結界は!?」


恐怖が一気に広がっていく。


その様子を見ながら、カインは静かに立ち上がった。


玉座の背後で黒炎が揺らめく。


兵士が恐る恐る続けた。


「数は多くありません。斥候部隊かと……ですが、このままでは拠点の存在が――」


「分かった」


カインは短く答えた。


そして、王座の横に立てかけていた黒剣を掴む。


その瞬間。


広間中の空気が震えた。


魔力の密度が、一気に跳ね上がる。


魔族たちが息を呑み、思わず後退した。


今のカインは、人間だった頃とは比べ物にならない。


ただ立ち上がっただけで、大気そのものが恐怖を覚える。


それほどの存在へ変貌していた。


だが。


カインの脳裏に浮かんだのは、恐怖ではなかった。


王都で怯えていた民たち。


役割に押し潰されていたセレナ。


勇者であろうとして壊れ始めていたレオ。


そして今、自分の後ろで震えている魔族たち。


誰もが、何かに踏みつけられている。


英雄。


魔王。


聖女。


そんな役割に。


カインは剣を握り締めた。


「……行ってくる」


それだけ言い残し、歩き出す。


すると、小さな足音が聞こえた。


先ほどの幼い魔族の少女が、不安そうな顔でこちらを見上げていた。


「まおう、さま……」


母親が慌てて少女を引き寄せる。


だが少女は、震える声で言った。


「また、おうち……なくなるの?」


その一言で。


カインの胸の奥の黒炎が、大きく揺れた。


怒りとは違う熱だった。


守りたい。


そんな感情が、黒炎の奥で微かに灯る。


『……ほう』


歴代魔王たちがざわめく。


守護の感情。


それは、これまでの魔王には存在しなかったものだからだ。


カインは少女の前にしゃがみ込み、できるだけ穏やかな声で言った。


「なくならない」


少女の瞳が揺れる。


「俺が、守る」


その言葉を口にした瞬間。


カイン自身が気づいてしまった。


自分はもう、ただ復讐のためだけに立っているわけではない。


奪われた怒りだけでなく。


これ以上、誰も奪わせたくないという意志が生まれ始めている。


それはまだ小さな火種だった。


だが確かに、黒炎の奥で燃え始めていた。

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