沈む違和感
それは、本当に小さな違和感だった。
ターンのあと、身体を伸ばす瞬間。 腰の奥に、わずかに引っかかるような重さを感じた。
(今の、なに)
優希は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに意識を切り替える。 水の抵抗だろう。疲労が溜まっているだけ。
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
その日の練習メニューは、強度が高かった。 200を想定したレースペース。 一本一本、集中を切らさない。
泳ぎ終えたあと、プールサイドに手をついた瞬間、再び同じ感覚が走る。
(……気のせい)
優希は深呼吸して、姿勢を整えた。 周囲には気づかれないように、いつも通りの表情を保つ。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは碧人だった。
「うん」
即答する。
「ちょっと疲れてるだけ」
嘘ではない。碧人はそれ以上何も言わなかった。
(気のせい、だよね。)
自分に言い聞かせながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
――違和感は、消えなかった。
翌日の朝練。 水に入る前のストレッチで、腰を伸ばした瞬間、鈍い感覚が走る。
(……昨日より、ある)
それでも、優希は止まらなかった。
止まる理由が、なかった。
青ヶ崎高校の水泳部は、今、仕上げの時期に入っている。 県大会、その先の関東大会を見据えた重要な局面。
自分が抜ける、という選択肢はなかった。
(ここで休むのは、甘え)
そうやって、ずっとやってきた。 多少の不調なら、努力で上書きする。
努力は、裏切らない。 それが、優希の信じてきた唯一の真理だった。
放課後。 自主練の時間。
「今日は、どうする?」
碧人の問いに、優希は少しだけ迷ってから答えた。
「軽めで」
「珍しいな」
その一言に、胸が少しざわつく。
「明日、追い込みたいから」
そう言うと、碧人は納得したように頷いた。
水に入る。 身体は、動く。 タイムも、極端には落ちていない。
だからこそ、余計に厄介だった。
“できてしまう”がゆえに、異変を見過ごしてしまう。
練習後、着替えをしながら、優希は無意識に腰に手を当てていた。
「……水城?」
更衣室の入口で、碧人が足を止める。
「何?」
「いや」
一瞬、言葉を探してから、
「無理、してない?」
その声は、いつもより少し低かった。
優希は、わずかに笑ってみせる。
「してないよ」
「……そっか」
それ以上、碧人は踏み込まなかった。 踏み込めなかった、と言った方が正しい。
(俺が、どこまで言っていいんだ)
心配する資格。 引き止める立場。
まだ、自分はそこにいない。
夜。 机に向かい、問題集を開く。
集中しようとすればするほど、身体の感覚が気になる。
腰の奥に沈む、重たい違和感。 水の中では誤魔化せても、陸では、はっきり分かる。
(……大丈夫)
優希は、シャーペンを握り直した。
まだ、泳げる。 まだ、走れている。
それなら、止まる理由はない。
その判断が、 どれほど危ういものだったのか。
この時の優希は、まだ知らなかった。
静かな水面の下で、 確実に、ひびが入っていることを。
初めまして。お読みいただきありがとうございます♪
白瀬翠と申します。
水泳部を舞台とした健全なストーリーが少ないと感じたので今回このような作品を執筆させていただきました。
皆様に楽しんでいただけると幸いです。
また、誤字・脱字、不適切な表現等がありましたらコメントで教えていただけると嬉しいです。
その他なんでもお待ちしております。
この作品が日々努力するあなたの背中をそっと押せるような一作となりますように。




