魔侯と緑龍【scene14】
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ミュルクヴィズの森はギデオンフェル王国と『魔国』マイグランに挟まれた広大な森である。北はハドリー山脈、南はランベル湖まで南北に広がり、人間と魔族を分かつ役割を果たしていた。この森のおかげで、ひとは魔族に脅かされることが少ないのだ。ミュルクヴィズの森は、互いの行き来を阻む険難の地であった。
ミュルクヴィズの森は人間たちが住む世界の森とは、生態系がまるで異なっている。魔獣と呼ばれる凶暴な獣が跋扈し、植物にも動物を捕食するものが生息している。人間世界にある、食虫植物のような小さなものではない。人間をひと飲みにできるほど巨大な植物が存在するのだ。ほかにもトレントと呼ばれる、ひとのように歩行する樹木のモンスターなど、ミュルクヴィズの森は常識からかけ離れたものだった。
たとえば、今、1匹のカエルが虫を追っている。カエルはその虫をひと口で呑み込んだ瞬間、草むらに隠れていた大蛇に捕らえられた。大蛇はカエルを咥えて木の根の上を這い進んでいたが、木の根が裂けるや、その大蛇を飲み込んでしまった。弱肉強食こそが最大の原理であるが、その食物連鎖の頂点が見えない生態系。それがミュルクヴィズの森にある『現実』であった。
ギデオンフェル王国はもちろんのこと、『魔国』マイグランも、この森を自分の領土としていない。自国のものとするには、この森はあまりにも手に余るのだ。森はあらゆるものの侵入を拒むようで、あらゆるものを受け入れる。マイグランの傘下にいることを良しとせず、この森で暮らす魔族は少なくなかった。安全な被支配より、危険な自由を選んでいるのだ。
ミュルクヴィズの森の西の端に近いところにとんがり帽子のような小屋が建っている。そこに住む魔女、レイシアはそんな自由を選んだひとりだった。
彼女は煮えたぎった大釜から上澄みのようなものを柄杓ですくい上げると、そのまま隣室の寝台にまで持って歩いた。黒いドレスを優雅にまとい、高い鼻をツンとあげている。見た目では年齢は40歳ほどか。さらに若く見えるほど美しい女性であった。
「ほら、これをお飲み。傷口から入った毒を消してくれるよ」
魔女は寝台に横たわっている男に薬を差し出した。男はリザードマンだった。
「すまねぇな……。って、アチチ! ちゃんと冷ましてから持ってきてくれ」
リザードマンは柄杓の薬に口をつけたが、すぐに離して文句を言った。
「何だい。『緑龍』の字を持つ者がだらしない」
レイシアはまったく悪びれる様子を見せない。寝台のリザードマンは『緑龍』ドラルクだった。ドラルクは柄杓を両手で持つと、ふうふう息を吹きかけながら薬をすすりだした。その様子を見て、レイシアはフンと鼻を鳴らす。
「殺しても死なないようなあんたが大したざまだねぇ。しかも、ここまでの手傷を負わせたのが人間だなんて、あんたが弱いのか、はたまた、その人間が強いのか……」
「そのどちらでもねぇ。今回は俺がヘマしただけだ」
ドラルクはギロリと魔女を睨みながら口を挟んだ。レイシアはやれやれと言うように肩をすくめる。
「ま、どっちでもいいさ。とにかく、薬を飲んだら眠ることだね。あんたに一番効く薬は休養さ」
「この腕は何日で完全につながる?」
ドラルクは自分の左腕を撫でながら尋ねた。リオンに斬り落とされた腕は、元の位置につながっていた。切断された跡が白い筋として残っている。
「あんたが大人しくしてりゃ、2、3日で完治するよ。何だい、もう出て行くつもりかい? ま、出て行くのは勝手だけど、こっちも患者にすぐ出戻られると迷惑だからね。あたしが大丈夫と言うまでは出て行くんじゃないよ……」
魔女はそこまで言うと口をつぐんだ。ドラルクも身体を起こしてあたりの気配をうかがい始めた。
「何だ、この気配は?」
ドラルクが緊張した口調でつぶやいた瞬間だった。
「やぁ『緑龍』」
ドラルクの寝台にひとりの男が腰かけた状態で話しかけていた。魔女はさっと飛び下がり、腰から小さな杖を取り出して構えた。「誰だい!」
「魔女殿もお久しぶりだ」
男は片手を挙げて、レイシアにも笑顔を向ける。レイシアは持っている杖を少し下げた。
「……あんたは、四侯アルタイル!」
アルタイルはドラルクに向き直ると、シーツの上からドラルクの腹を軽く叩いた。
「君がこっぴどくやられて森へ逃げ込んだと聞いてね。お見舞いに来たのさ」
ドラルクはシーツの端をつかんで険しい表情になった。
――いつの間に入り込んだ? いや、どうして俺がここにいるとわかった?
「どうした? 君のケガは話すこともできないほど重いのかい?」
「……い、いや。だいぶ良くなった」
「そうかい。そりゃ良かった」
ドラルクは背筋が強張るのを感じた。これが戦慄というものか。ドラルクは言い知れぬ圧迫感で息が苦しくなった。
「君が抜けた後、メネアを攻めていた部隊は惨敗してね、チリンスの丘まで逃げ帰ってしまったよ。1万の兵を送り込んだのに、戻ってきたのは半分近いほどだった。4割以上の者が死ぬか、戦線から逃げ出したようなんだ」
アルタイルはドラルクの腹に手を置いたまま話し続ける。ドラルクの額から汗が流れだしてきた。アルタイルの手がじわじわと自分の腹をつかみ始めているのだ。
「私は戦闘力に劣るホブゴブリンを重宝していた。なぜなら、彼らは職務に忠実で、組織行動ができるからだ。一方、リザードマンは戦闘力、耐久力は高いが、どうも組織的行動に難がある」
ドラルクの顔が苦痛で歪み始めた。アルタイルがさらに力を手に込めてきたのだ。
「それでも、私は君を『緑龍隊』とともに軍に迎え入れ、指揮官の地位も与えた。君はほかのリザードマンと違い、私の命令を忠実にこなせると信じたからだ。しかし、どうも私の見込み違いだったらしいね」
「ま、待ってくれ。話を聞いてくれ!」
ドラルクは苦しげな表情のまま話し出した。アルタイルの指は堅いドラルクの腹に深く食い込んでいる。
「不覚に大ケガをして、ここで治療しているが、逃げたわけではないんだ。傷が治れば、俺は『緑龍隊』を引き連れて、あの連中を仕留めるつもりなんだ。本当だ。信じてくれ!」
「『緑龍隊』? それは、小屋の外で伸びている連中のことかね?」
アルタイルの言葉に、ドラルクは目を見張った。
「外で伸びている? 俺の部下たちを殺したのか?」
アルタイルは片手をあげて首を振った。もう片方の手は相変わらずドラルクの腹をつかんでいる。
「あんなの、殺すほどもない。全員には眠ってもらっているだけさ」
ドラルクは新たな汗が噴き出すのを感じていた。
……あいつらは、それなりに腕の立つ連中だ。それが、俺が気づけないほど簡単にやられたって言うのか!
「ちょっと、四侯! そいつはあたしの患者だよ。たとえマイグランのお偉いさんであっても、ここで勝手な殺生はさせないよ!」
レイシアは杖を突き出しながら警告した。アルタイルは穏やかな笑みをたたえながら魔女に顔を向けた。
「なに、ただ話しているだけさ。それに、もし殺すつもりなら、とっくに殺しているさ。あなたも一緒にね」
それがただの冗談でないことは魔女にも理解できた。ハイクラスの特殊能力は個人で異なる。その異能の力を『個性』と呼ぶものもいる。魔法とは別系統のもので、魔法を極めた魔女でさえも実態がつかめていない。アルタイルの特殊能力の正体を知らなければ、防ぐ対策も立てられない。自分の力に自信のあるレイシアでさえ、アルタイルと戦って勝てる気はしなかったのだ。
「おい、魔女には手を出さないでくれ。俺が勝手に押しかけて治療を頼んだんだ。俺のせいで、彼女まで手に掛けることはないだろう。あんただって、こんな若い女を殺す趣味はあるまい」
アルタイルはドラルクに目を向けた。
「若い女? 君は彼女が何歳なのか知らないのかい? 彼女は私が生まれる前から、ここで魔女だったんだよ」
ドラルクは驚いてレイシアに視線を移した。
「何だって? あんた、いったい何歳だ?」
「バカ! 女性に年齢なんて聞くんじゃないよ! あんたもくだらないことを言わないでおくれ!」
レイシアは不快そうな声で応じた。
「そうだね。私もくだらない話で来たわけじゃない」
アルタイルは再びドラルクに向かうと、つかんでいる手に力を込め直す。ドラルクは苦痛でアルタイルの腕をつかもうとした。しかし、両手が動かない。
……俺の腕が動かない! 何かに固定されているようだ!
「さて、君はあの役に立たない部下たちと、どうやって復讐戦を行なうと言うのかね? そもそも、油断していたとは言え、やすやすと人間に敗れる君に、私が再戦の許可を与えるとでも?」
「た、たしかに、人間を侮っていた! そ、それは認める。だが、あそこには人間じゃないものも混じっていたんだ!」
アルタイルの手から力が抜けた。「人間じゃないもの?」
ドラルクは不意に自由になった両手で腹を押さえると、あえぐように息を吐いた。
「あ、……ああ。俺の左腕を斬り落としたやつだ。やつは人間ではあり得ない高速移動を使って、俺の攻撃をかわし、俺の腕を斬った。高速移動と言ったが、人間どもが間合いを詰める足さばき技の『瞬歩』と呼ばれるものだ。しかし、やつの『瞬歩』はけた違いの速さだったんだ。あれは異常だ。人間の速さじゃねぇ」
「ほう、そんなものがメネア陣営にいたと言うのか」
「そ、そうだ。たしか、名前は『リオン』って言ったな。バルバトス王を殺したやつの子孫だそうだ」
ドラルクの言葉は、アルタイルに大きな変化をもたらした。アルタイルは自分の顔に手を当てると、くっくっと忍び笑いを始めたのだ。
「リオン……、またしてもリオンか!」
ついには大声をあげて笑い出す。
「そうか、君はあのリオンっていう覚醒者にやられたのか……」
アルタイルはドラルクの肩に手を置いて笑いながら言った。ドラルクは戸惑った表情でうなずいた。「……覚醒者。そうだ、リオンは覚醒者だと聞いた」
レイシアは、いざとなればアルタイルを攻撃するつもりで身構えていたが、アルタイルのあまりの変化に困惑していた。今、攻撃すれば、アルタイルを倒せるのではないかと思えるほど隙だらけだったのだ。
アルタイルはひとしきり笑うと、ドラルクの肩をポンポンと叩いた。
「『緑龍』。実に有益な情報をもたらしてくれたことに免じて、今回は大目に見よう。君は再びリオンと戦うつもりなんだね?」
頭の中に別の顔が一瞬浮かんだが、ドラルクは強くうなずいた。「ああ。今度こそやつを殺す」
「けっこう」
アルタイルは立ち上がった。
「君にはリオン討伐の任務を与える。ガニメデスの陣に戻る必要はない。君がやりやすいように、自由に行動したまえ。ただし、今度しくじった場合、そのときは……」
ドラルクはうなずいた。
「わかってる。俺には後がない。そうだろ?」
「理解が早くて助かる。では、私はこれで失礼しよう。朗報を期待するよ」
小屋の中は静かになり、ドラルクとレイシアはあたりを見渡した。アルタイルは最後の言葉とともに姿を消してしまっていた。現れたときと同様、何の前触れもなかった。
「……何て、でたらめなやつなんだ……」
ドラルクは深いため息をついた。つられるようにレイシアもため息をつく。
「ほんと、何て日だよ。寿命が縮む思いをしたさね……」
それを聞いて、ドラルクが思い出したように顔をあげた。
「そうだ。あんた、本当は何歳なんだ?」
「バカ!」
レイシアは怒鳴りながら、手に持っていた杖をドラルクに投げつけた。




