負の記憶(その1)【scene21】
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……正しいひとになってね……
リオンが目を覚ましたとき、その言葉が脳裏によみがえった。死ぬ前に母が遺した言葉だ。母の夢を見ていたのだろうか。リオンは頭を振った。思い出せない。目を覚ましたとき、それまで見ていたはずの夢は幻となって記憶の底から消えてしまった。だから、さっきの言葉が夢の延長でよみがえったものなのか、今のリオンにはわからない。
「くっ!」
リオンは胸のあたりを押さえた。母の言葉は、気まぐれによみがえっては胸の奥を掴む。この重苦しさ、息苦しさは、母が残した呪いに等しいものだ。
……正しいひとになってね……
リオンは頭を振った。今度はレトの顔が浮かんだのだ。
「なぜ、奴の顔が浮かんでくる!」
胸を押さえながらリオンは毒づいた。レト個人に恨みはない。しかし、あいつの存在は俺を苛立たせる。その理由をリオンは気づきかけていた。いや、むしろ明快なはずだった。気づかないふりをすることで、そして、レトに対する憎悪を募らせることで『逃げた』のだ。そうだ。俺は今、逃げている。何に? 過去から。過去の自分から。もし、過去を忘れさせる毒薬があるのなら、毒だと承知で飲んでみせる。それで自分の過去と決別できるのなら、それはもはや毒ではない。良薬なのだ。
リオンが思い出したくないのは、覚醒者になる前の自分のすべてだった。
リオンは父イーグルと母エリーズの間に生まれた。イーグルは家系や姓が不明である。姓がないものは下級市民であるはずだが、彼は高い教養と高度な医科学の知識があった。下級市民は高度な教育を受けることができない。それで、彼は中級以上の階級だったが、落ちぶれて下級市民として生きているのだと思われた。一方、母のエリーズはウィルライト家最後のひとりだった。ウィルライト家はかつて広大な土地を持つ貴族であった。当時は貴族たちの中でも有力者と見られていた。そこを見込まれて、当時のアーバイン家の末娘を妻として迎えている。彼女がリオンの曾祖母にあたる。リオンが勇者の末裔であるというのは、アーバイン家の血筋を引いた曾祖母の系譜を継いでいるからである。勇者の家系の名門と婚姻が結べるほど隆盛を誇ったウィルライト家だったが、リオンの祖父の代に不幸が起きた。リオンの祖父は当時、大きな事業に取り組んでいた。それは私財の多くを費やすものだった。しかし、リオンの祖父は事業を軌道に乗せる前に急逝した。主を失った事業は破綻し、リオンの祖母はまだ幼い娘を連れて領地を去らなければならなかった。屋敷も土地も担保に入っていたのである。こうして、ウィルライト家は見る影もなく没落した。貴族階級が下級市民まで落ちるのは珍しいことではない。貴族が家名を守るには、経済力と政治力が必要である。そのどちらも失った者には没落するより道がなかったのだ。
リオンは下級市民として生を受けた。母は小学校の教員として働いていた。父のことはよくわかっていない。在野の学者として、何かの研究に取り組んでいたとされる。その父はリオンが2歳のときに失踪した。噂では失踪した当日、農民のひとりがミュルクヴィズの森に向かう父の姿を目撃したそうである。ミュルクヴィズの森は、『魔の森』とも呼ばれる危険な森だ。魔族や魔獣が跋扈するところで、一般民は立ち入りが禁止されている。父がなぜ、そんな森へ向かったのか、真相を知る者は誰もいない。母ですら見当がつかなかったのだ。以来、リオンはほとんど母の手ひとつで育てられたのである。
リオンは母の美貌を受け継ぎ、美しく、そして逞しく成長した。勉強でも優秀な成績を修めていた。それは中級市民以上の者が通える高等学校への進学が決まるほどだった。しかし、リオンがその学校の門をくぐることはなかった。母が急な病で倒れたのである。学費に使うはずだった蓄えは母の治療費として消え、リオンの進学の道は閉ざされた。下級市民は、特待生以外の進学が認められていないのだ。リオンは生活と母の治療費のため、働きに出ることになった。とは言え、未成年の下級市民にまともな仕事があるものではない。リオンはいくつかの日銭仕事を掛け持ちしながら生計を立てるしかなかった。
リオンが仕事で出入りしているところにノース家があった。ケインの実家である。ノース家は中級市民の地主で、階級のわりには豊かな暮らしをしていた。リオンはノース家で庭掃除などの雑用をしていくなかで、ケインと知り合ったのである。ケインはリオンと同い年ということもあり、すぐに打ち解けるようになった。それにケインは市民階級などでひとを区別せず、誰とでも親しく接する少年だった。ケインの引き立てもあってか、リオンはノース家の紹介でほかにも多くの仕事にありつけたのだった。
「よく働くなぁ、リオンは。つくづく感心するよ」
ある日、柵を直しているリオンを眺めながらケインがつぶやいた。ふたりは16歳になっていたが、どちらも身体はまだ大きくなかった。特にリオンは栄養が足りていないようで痩せていた。しかし、母譲りの美貌に悪い影響を与えるほどではなかった。
「生活のためだからさ。君に褒められることじゃない」
リオンは木づちで柵を叩きながら答えた。
「でも最近、仕事の量を増やしてないか? そこまで生活が苦しいのか?」
ケインの質問にリオンは暗い表情でうなずいた。
「最近、母さんの具合がさらに悪くなったんだ。ちゃんとした病院に入れてあげたいけど、これまでの収入じゃ無理なんだ」
「それで明日、オーベルスタイン様のお屋敷で植栽の剪定か」
「そうさ。君の父さんにはあの仕事を紹介してもらって感謝してる。あれはけっこう割のいい仕事になりそうなんだ」
「そ、そうか……」
ケインの態度が気になり、リオンはケインに振り返った。
「ケイン?」
ケインはもじもじしていたが、意を決したように話し始めた。
「お前さぁ、オーベルスタイン夫人の噂を聞いたことがないのか?」
「噂? いいや」
「実は、あのご夫人。男漁りの趣味があるそうで、旦那が出向で長期不在なのをいいことに、あちこちから男を招いてはお楽しみなんだとさ。昔は社交界の花形だったらしいけど、今は相当崩れちゃってるからね。あれで男にモテるとは思えないが、金に物を言わせて男どもを手なずけているらしいよ。それに男の食い散らかし方がひどいって話さ。そんな噂がある屋敷に、お前を行かせようだなんて、親父は鈍いんだか、それともウラがあるのか気になってな」
「あくまで噂なんだろ? 君の父さんが何かを企てるなんて考えすぎだよ」
ケインは疑わしげな眼つきだった。「そうかなぁ」
「それにオーベルスタイン家の庭は相当広いそうじゃないか。夫人と顔を合わせる可能性は低いと思うよ」
「あくまで『低い』だけだ。いいか、リオン。明日はつばの広い帽子を被って、顔を隠して仕事をするんだ。決してオーベルスタイン夫人に見つかるんじゃねぇぞ」
リオンは苦笑いした。「忠告には従うよ。ありがとう、ケイン」
翌朝、リオンはつばの広い帽子を被って、オーベルスタイン家の庭仕事に取り掛かっていた。その日は天気が良く、朝から強い日差しが照りつけていた。これなら、この帽子を被っての作業は不自然でないはずだ。
オーベルスタイン家の庭はかなりの広さで、村の草競馬場よりも広いほどだった。ただの植栽の剪定だと思っていたが、これはかなり骨の折れる仕事だと気づかされた。
リオンは屋敷に近いところから作業を始めた。目につきやすいところからきれいにしていけば、それ以外が今ひとつの仕上がりでも誤魔化せるかもしれない。リオンはいかにも世俗的な考えで剪定の段取りを決めたのだった。
屋敷入口近くから裏庭へ、食堂前に2階の書斎から望むことのできる範囲へ、リオンは頭の中で立てた計画通りに仕事を進めていった。作業のひとつひとつは手間だったが、剪定の仕事は順調に進んでいく。昼休みを取るころには、目立ったところの作業を終えることができた。この調子でいけば日が暮れるまでには全体の三分の一は終わるだろう。
……三分の一、か……。
リオンは心の中でつぶやいた。自分の家の前には一本の樫の木と、紫陽花期に美しく咲き乱れるアジサイが生えていた。生えている場所は誰の土地でもないところで、いずれも自然のものだ。もし、それらを剪定することがあるなら、リオンは半日とかからず仕事をやり終えているはずだ。自然に生えているものより、ひとの手で育てられている植物の量のほうが多いのだ。これだけのものを維持するために、彼らはどれだけの財を使っているのだろう。リオンには見当もつかないことだった。
昼下がりになると、庭の空気は湿度が上り、息苦しいものになっていた。リオンは息苦しさから逃れるために帽子を脱いで、そのつばで自分の顔を扇いだ。初夏の空気はそれほど熱を帯びておらず、頬を撫でる風は心地よかった。リオンはしばらく顔に風を送りながら目を閉じていた。
自分の肩に手が置かれたのはそのときだった。顔だけ振り向いてみると、そこにはひとりの中年女性の顔があった。この屋敷の女主人、オーベルスタイン夫人だ。かつては社交界の花形として美貌を誇っていた彼女も、年齢を重ねるごとにそれを失っていた。もてはやされていたころより目方は倍以上に増え、顔は脂肪で覆われるほどになった。リオンの肩に置かれている手はぷよぷよと膨れ上がり、どことなく幼児のものを連想させた。リオンは彼女と目が合ったとき、背筋が強張るのを感じた。
「あなた、ノースの紹介で来たひとね。若くて真面目なひとが来るって聞いたけど、あなたのような子とは思わなかったわ。あのノースもひとが悪いわね。ちゃんと教えてくれないなんて」
夫人の言葉で、ケインの父親が自分を夫人への貢物として送り込んだのでないことはわかった。リオンは身じろぎひとつせずに立っていた。夫人はリオンの肩を撫でながら耳元で囁いた。
「あなた、とってもきれいね。美しいと言ってもいいぐらい。下級市民にこんな男の子がいるなんて思いもしなかったわ……」
リオンは撫でられている手を引き剥がそうと思って、自分の手を肩に伸ばした。しかし、リオンはその手を夫人の手に重ねるだけにとどめた。夫人はどきりとしてリオンの顔を見つめた。リオンは憂いを帯びた微笑みで夫人を見つめていた。その儚げな笑みは妖しいまでに美しいものだった。夫人はまるで10代の少女に戻ったように胸が高鳴った。
リオンは夫人の手に自分の手を重ねたまま囁いた。
「どうです? 僕を買いませんか?」




