十四夜の涙
その後十六夜とのLINEは途切れた。考えたくもなかった。少しだけ後悔したがこれからどう仲を立て直すかなんて考えたら頭が痛くなった。そろそろ2年生が終わって3年生に進級する。期末考査では赤点が何個かあったものの進級できた。日に日に「センター試験」という言葉を先生が発するようになってきた。2年生の時点の模試では特に行きたい所がないため地元の国立大学を志望校としたが、D判定だった。ああ、何も考えたくない。
下弦の半月がうっとおしいほど輝いていた。もう知らん知らん。月とか見たくない。十六夜すら見たくない。
いつもはうるさくて仕方がない母親が観ている深夜バラエティと缶チューハイを机に置く音、そして汚い笑い声。扉越しに俺の耳へ届くあの音は十六夜のことで頭がいっぱいで腹立たしい自分の気持ちを抑えることのできた子守唄となっていた。
終業式が終わり無事に単位を落とすことなく追試も受けずに済んだが制服の左袖のボタンが1つ落ちていた。思い当たる場所を探してもない。つまり、制服屋へ行ってボタンを買わなければならなくなった。貴重なゴロゴロする時間を削ってまで行きたくなかったが新学期に入って1日目で担任から注意を受けるのも不服であるため買いに行くことにした。
空から降ってくるものが雪から雨になり、道路の脇に申し訳なさそうにでかい図体を置いていた所々黒くなった雪の塊も溶けて田んぼからは土の匂いがしてきた。しかし雪国の3月はまだまだ寒かった。冷たい雨に濡れないように傘を差し、商店街にある制服屋へ向かった。前から遠慮なく吹く風が俊の顔と手の甲の皮膚を突き刺した。咄嗟に俺の黒い傘を前に傾けた。このような時、前から誰が来るのか、どんな障害物があるのか分からなくなるから歩幅を今までの半分にし随時傘から顔を出して前方確認を怠らなかった。
雲と雲の間から西の方に傾いた太陽が顔を出し、地面を明るく照らした。雨と風はまだ止んでいなかった。それと同時にそれと別なものが傘越しに当たった気がした。覚えのある匂いがシャボン玉が弾けるように舞った。とてもいい匂いだった。その後すぐにココアの甘くて香ばしい匂いも俊の鼻まで届いた。慌てて傘を閉じ前を向くとそこには小さくて細い身体の見覚えのある女の子がいた。
「ごめんな……」
俺は思わず息を呑んだ。言葉が出なかった。
そこには十六夜がいた。十六夜は小動物と同じくらいの手に十六夜と俺が初めて出会ったスーパーの買い物袋を持っていた。そのビニール袋には缶ココアと粉ココアが入っていた。
「今日の7時、あの丘で待ってるよ」
十六夜はその言葉を言い残して速歩で帰って行った。
無事に制服屋へ行って北高の校章が描かれている袖ボタンを買って家路を辿った。その間ずっと十六夜の事、今日の夜の事を考えていた。
「付き合うとかどうとかそんな低レベルの問題じゃない」今月の初め頃、十六夜の口から放たれた言葉を思い出した。朝岡さんの双子の弟と両思いだとか、十六夜からしてみれば付き纏われているだけだとか、両者の言い分が食い違っていて俺の頭の中は混乱していた。そして、十六夜の考えていることが分からず腹が立った。そんな彼女ともう一度会いたいと思う気持ちが芽生えている俺もどうかしている。別に付き合いたいとかではないが何故か十六夜が誰かに取られるのことに嫌気が差している自分もいる。さて、今日の夜はあの丘へ行こうかな。どうしようかな。
虎視眈々と時計の針は進んでいき、長くなったのに日も既に西の山へと沈んでいった。空が紫色になり間もなく真っ暗になろうとした頃、何気なく付けていたテレビはバラエティー番組に映像が変わっていた。テレビではアイドルがゲストチームとゲームをして得点を競い合っている模様を映していた。ゲストチームの中の1人の女優が「時間がない時間がない!」と大きな声でチームを鼓舞していた。何気ないものであったが俺の頭にワンシーンが蘇ってきた。
十六夜が寒空の下「時間が無くなっちゃうな」と独りごちた。「どうして時間がないの?」と聞いたら「何でもない」と答えた。その意味は「何でもない」によって分からないままになったがその横顔は今まで見たことのない焦りが見えた顔だった。
何となく十六夜との時間が限られたものになっているのかもしれない。そう感じた俺はテレビと部屋の電気を消して扉を開けた。
8時少し前、あの丘に着いて上を見上げた。案の定小さなシルエットが大きな丘の上にポツリと夜空をバックとして置いてあった。俺は若草が芽吹き出している丘を走ってかけ登った。頂上に着くといつものアーモンドアイは少し寂しそうだった。
「来てくれたんだね、ありがとう」
アーモンドアイは潤っていた。顔は笑っていたが悲しい感情を隠しきれていなかった。
「実はね、ずっと話さなければいけなかったことがあるんだ」
一言一言俺に伝えようと涙が零れそうな大きい目をこちらに向けて話していた。
「ずっと会いたかったんだ。俊と再会することをずっと待っていたんだ」
大きいだけのアーモンドアイから1粒の滴が左目から流れてきた。
「もうね、時間が来てしまうの」
そう言って十六夜は取り乱してしまった。俺はどんな言葉をかければいいのか分からずに丘の上で立ち尽くしていた。「打倒西高」を掲げていた東高のサッカー部は春休みである日中に部活をしていたのか声は聞こえてこなかった。俺の耳に入ってきた音は十六夜の泣きじゃくる声だけだった。
「落ち着いて。それから話を聞くから」
俺は十六夜の壊れそうな背中をなでて隣に座った。
「ありがとう」
いつもはくしゃっとした生意気でもあるあの笑顔が今日はくしゃっとした悲しさの溢れる泣き顔に変わっていた。夜空を見上げると十六夜と似ているが左右反対の月になっていた。
「今日は珍しいね。いつもは十六夜なのに今日は満月の1日前で」
そう言うと十六夜は伏せていた顔を上げて
「十六夜が南中した時、帰らなきゃいけないの」
落ち着いたのか最初の第一声はそれだった。
「信じてもらえないかもしれないけど、この世界に来て5回目の十六夜で月に帰らなければいけないの」
十六夜の言葉を飲み込むことが出来なかった。何回も噛んでも噛んでも小さくならずに飲み込めない冷めた肉の塊のような言葉だった。
「私ね、分からないかもしれないけど俊に助けられたの。何百年も前の話。俊の前世に」