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不器用ですが、結婚します  作者: 川崎 春
3/3

相思相愛への道

 最近考える。どうして慶人君は、私を選んだのか。

 姿勢が良いから綺麗に見えるとか、笑うと可愛いからもっと笑え、とか言われる。

 性格や思考に関しては自信がある。……絶対に男受けしない。でも、慶人君は結婚してくれるらしい。

 そんな事をつらつらと考えている内に、肉の表面が焦げてきた。

 薄い肉はいいんだ。問題はこれが鳥のもも肉だと言う事だ。

 火が通ったか心配だ。生焼けを食べさせる訳にはいかない。

「また切って中を見ているの?」

 慶人君が覗いて言った。

「一口サイズにカットして、もっと焼くだけ」

 完全な強がりだ。

 慶人君は、噴き出しそうになりながら去って行く。

 笑うのはちょっと許せないが、結局全部食べてくれるのだ。うまいって言って。

 だから、苦手だけれど、料理を頑張ろうと思う。出来る様になりたいと思う。

 そして、また元の場所に思考が戻っていく。

 あんなに人間の出来た人が、私を好きになるとか、絶対におかしい気がするのだ。

 結婚式まで、後一か月。

 ネットで相性について調べてみたら、体臭で好みが決まると言う実験があるのを知った。

 着たシャツの匂いを嗅がせて、誰が一番好みか調べると、遺伝的に相性の良い人が分かるのだとか。

 慶人君は、もしかしたら、私の匂いが好きなのかも知れない。

 でも自分の匂いなんて、分からない。

 風呂には入っている。臭くは無いと思う。

 慶人君の体臭に関して考えてみる。……慶人君は、営業のたしなみだと言って、制汗剤をスプレーして出社している。汗臭いのは私も嫌なので、私もしているから、それは分かる。

 ただ休日に、何故か男性用の香水を付けているのだ。

 甘酸っぱい匂いがするやつ。嫌いじゃないけれど、最近、慶人君の匂いと言うと、あれになっている。体臭じゃない。

 ……慶人君は私の匂いを知っているかも知れないのに、私は全く分かっていない。

 既に夜。今日は平日だから、香水は付けていない。まだ洗っていない洗濯物がある。

 お互い、別室に籠っている時間だったので、私はそっと部屋を出て、風呂場の横の洗濯機に近づいた。

「あ~」

 思わず声を出して、その場に崩れ落ちてしまった。

 洗濯物が、既に干されていた。

 私達の借りた賃貸マンションには、浴室乾燥機が付いている。

 私が食事の片づけをしている間に、慶人君が洗濯をしてくれていたのだ。

 そして、気付かずに風呂に入って、部屋で私が体臭についての記事を呼んでいる間に洗濯が終わって、慶人君が全部干してしまったのだ。

「どうしたんだよ?」

 慶人君が部屋から出て来て、私を見下ろしている。

「いや、色々と迂闊だったと……」

 シャツの匂いが確認出来なかった。

「洗濯まで頑張らなくても、俺がやるよ」

 良い人だ。私がここに来た理由に気付かず、優しい解釈をしてくれる。

「ありがとう」

 誤解を解かないまま立ち上がる。

 慶人君のシャツの匂いを嗅ぎたかったのに、洗濯してあって絶望したなんて。これでは変態だ。

「明日も会社だから、早く寝ろ」

 そう言って、頭をぽんと叩いて、慶人君は去って行く。……兄を思い出す。完全に子ども扱いされている。

 今までは、気にしていなかったのに、今日は面白く無い。

「子ども扱いしないで」

 私がそう言うと、慶人君がぴたっと立ち止まった。

「今、それを言うか?」

 こちらを振り向かない。……何か変だ。

「お前さ、下着も着けてないし、薄着なんだけど」

 今は夏だ。風呂上りは暑い。タンクトップだったのだ。しかも汗で、下着の当たっている部分がかゆくなるので、外していたのだ。

 絶句する。気を緩め過ぎた自分を悟る。

 慶人君が、怒っているのが分かった。

「理沙との約束を守りたいから頑張ってる俺を煽って、何がしたいんだよ」

 私は何も言ってない。だから、何もされていない。約束は守られ続けている。

 好きだから結婚しようと言ってくれた人に、我慢をさせている。

「ごめん」

「謝るな」

「でも、ごめん」

「だったら、俺を受け入れろよ!」

 慶人君が怒鳴った。

 とっくに受け入れている。こんなに油断して、洗濯の事にも気付かないくらい、慶人君の事を考えていた。

 自分が馬鹿になっている事を自覚する。

 慶人君と同じで居たかった。対等でありたかった。けれど、全然そうじゃなかった。甘えてばかりの自分に腹が立つ。

 それが情けなくて、思うよりも先に言葉が口を突いていた。

「恋なんて、するんじゃなかった!」

 私は慶人君の後ろをすり抜けて、自分の部屋に入ると、扉の前に、三段に積まれたプラスチックの衣装ケースを置いて、扉を塞いだ。

 それを背もたれにして、うずくまる。

 一緒にご飯を食べて、一緒に出勤して、土日も結構な頻度で一緒に居た。

 色々な場所にも行った。咲と出かけるのとも、兄と出かけるのとも、全然違った。

 慶人君だから、外で手を繫いで歩けたのだ。

 映画館で、肩に寄りかかって寝たりもした。

 そんな恥ずかしい事をするのは、恥知らずだと思っていたのに、気づけば自分がやっていたのだ。

 背中に圧迫感を感じる。

 衣装ケースごと、私がずるずると前進しているのだ。

 慶人君が扉を開けようとしている!

「来ないで」

 返事が無い。衣装ケースと私がズルズルと動く。

 背中に体重をかけてみるけれど、やっぱりズルズルと移動している。凄い力だった。

 振り向くと、扉の隙間から腕が出て来て、押し広げる様にして、慶人君が入って来るのが見えた。

 思わず這って逃げるが、あっと言う間に捕まっていた。……何度も忘れては思い出す。慶人君の圧倒的なまでの力を。

 慶人君は、普段の優しい対応でそれを覆い隠して、私に見せないだけなのだ。慶人君が本気を出せば、私なんてどうにでも出来てしまう。でも、そうはしなかった。約束したから。

 私は、甘えるだけ甘えて、約束の言葉を与えなかった。だから、こんな風になってしまったのだ。痛い程の力に、それを感じる。

 背後から抱きすくめられて、耳元で声がする。

「誰が好きか言え」

 いつもの声と違う。

「言えよ!」

 怖い。

「けいと……くん」

 慶人君が回している腕の上に、ぽとぽとと涙が落ちた。涙が勝手に出て来る。……こんな形で白状させられるとは思っていなかったのだ。怖いだけじゃない。後悔している。

「嘘じゃないよな?」

「嘘じゃ……ない」

 何度も確認するのは……私が何も言わなかったから。慶人君をこんな風にしてしまったのは、私だ。

「ごめんなさい」

 慶人君は、感情が抜け落ちたみたいな声で続けた。

「泣いてもダメだ」

 頬に暖かい何かが当たる。息と共に、声が振動になって、頬から伝わって来る。

「怖いか?」

 頷く。

「俺も怖いよ。自分で自分を止められない」

 顎を手で持ち上げられて、慶人君の方を向かされる。

「でも……今更、逃がしてやる気は無い」

 慶人君が、普通の状態じゃない事は、顔を見て分かった。声がいつもと違ったのも、そのせいだ……。

 分かっているのに、止められないと言っているのは、本当なのだろう。

「ごめん」

 もう、逃げないから。そんなに傷ついた顔をしないで。

 続きは言わせてもらえなかった。


 喧嘩腰のプロポーズの果てに待っていたのは、婚約指輪無しの婚約期間に、強制的な告白と関係を迫ると言う、最悪なものだった。

 理沙の好きは、俺の好きとは違う。

 分かっていた。俺には油断して頼っても良いのだと、信頼してくれていたのは。

 体力が無いからすぐ眠くなる。そして、不器用で、料理が苦手。

 それでも、頑張って起きているし、料理も覚えようとしている姿は微笑ましかった。

 俺の為なのだと思うと、心底嬉しかった。

 手を差し出せば、当たり前に握り返してくれる様になった。

 穏やかで充実した日常。……理沙に与えたかったものだ。時間つぶしにパズルをやって眠る様な日々から解放してやれた。色々な表情を俺に見せる様になった。

 幸せな筈なのに、俺はどこかで焦っていた。

 一緒に居て、緊張する様な事も無く、家族として暮らしていくには、これで十分だった。

 理沙がそれに満足して、このまま俺とずっと暮らしていくのかと思うと、喉をかきむしって、叫びたくなる様な衝動が、何処かで溜まって溢れそうになっていた。

 さらさらと、柔らかい髪の毛が腕や肩に当たる程側に居るのに、理沙は俺を選ぶと言ってくれない。

 選んでくれてはいる。とは思っていた。俺ほど側に居る人間が居ないのは、毎日見ていたから。

 ……見ているだけでは、実感が持てない。

 聞けばいいのか?けれど、聞いても答えてくれなかったら?

 もっと距離があれば、我慢出来たのかも知れない。けれど、同じ家で暮らしている。どうしたって考えてしまう。

 俺は好きでも無い女と、一緒に暮らす訳では無い。結婚する訳でも無い。

 それなのに、理沙は恋愛を後悔していると言った。

 俺が相手だからか?もっと違う奴を好きになりたかったと言う意味なのか?

 そこからは、頭に血が昇って、覚えているが他人事みたいに感じる。……最悪だった。

「会社は?」

 理沙は、ベッドから出て来なかった。

「休む。風邪って言っておいて」

 被ったタオルケットの中から、くぐもった声がした。

「分かった」

 謝罪すべきだろうが、今言ったところで、土下座しようが無意味だと感じる。

 ……俺は謝りながら、怯えて泣いている理沙を許さなかった。

 一晩して頭が冷えたら、言葉が届かない程に、心が遠くなってしまった事に恐怖する。

 会社ではいつも通り仕事はこなしたけれど、退社時間が怖かった。退社して、家に帰る。それだけの事が物凄く重たい。

 もっとやり方があっただろうに……。

 俺は間違えた。失敗したのだ。

 帰り支度をしたものの、休憩ブースで無料のお茶を飲んでぐずぐずしてしまった。

 どうすれば許してもらえる?元通りになれる?……頭の中では、冷たい表情で俺を見ている理沙が浮かんでは消える。

 そこに、誰かがやって来た。

「国塚君、今日、飲みに行かない?」

 声を掛けて来たのは、同じ営業部の安達さんだった。

 三歳年上の女性で、俺の先輩に当たる。綺麗な人で、仕事も出来る。結婚はしていた。……過去形だ。

 五年前、入籍報告を受けて、飲み会をした。相手は、証券会社に勤めている人で、同じ大学の先輩だと言っていた。

 部長にだけ離婚の報告をしていた事を知ったのは、俺の結婚が決まった後だった。

 何があったのか、いつ離婚したのかも、知らない。

 ただ、結婚が決まって報告して以来、俺にだけ聞こえる様に、自分の事情を話したり、営業部の飲み会で、側に座っていたりしたのは知っている。

 この人は近いと、甘い花の匂いがするのだ。……近づかないと分からない程度に香水を付けている。婚約してから、この匂いを嗅ぐ頻度が増した。

 嫌な臭いでは無いが、俺は好きになれない。

「いえ……今日は理沙が休んでいますから」

「本田さん、そんなに悪いの?」

 ……理沙は何処も悪くない。俺が全部悪い。

 そんな事を考えていると、ふわっと甘い花みたいな匂いがする。

「独身最後の息抜き、私としない?」

 耳元でささやく。

 背筋が寒くなった。……今まで、こんなに露骨な誘いは無かった。

「辛いなら、話を聞くわ。私は夫婦の悩みは分かるから」

 安達さんは……俺の様子がおかしい事、そして理沙が休んでいる事から、何かを感じ取って、俺を露骨に誘っているのだ。

 俺達の関係を壊す行為だと分かって言っている。それなのに、糾弾すれば、後輩を親身に心配していただけだ。と言えるスタンスを捨てない。

 会社での立場で、安達さんが先輩である為、強く言えない事も、見越している。

 巧妙に、甘い匂いと笑顔で俺を誘う。自分は悪者にならず、俺だけを陥れる様に。

 営業の総合職に就職して、成績を残しているだけあって、性別など無関係に、頭の良い、駆け引きに強い人だとは思っていた。

 けれど、その才能に毒が加わって、俺に迫って来る。

 安達さんの心理を確認する気も無い。ただ、俺をターゲットにして、何かをしようとしているのは分かる。

 理沙が一番怖がっていて、考えたくない事をしている女が、目の前に居る。

 理沙にとって、不倫も略奪も、他人事では無い。生まれた時から付きまとっている。

 だったら、不道徳も受け入れる女に育てば良かったのに、道を踏み外すくらいなら、恋愛はしない。なんて、生真面目で不器用な女に成長してしまった。

 理沙の悲鳴みたいな声を思い出す。

『恋なんてしなければよかった』

 人を好きになって、相手を手に入れようとする欲。理沙にとっては犯罪に近い感情だった筈だ。生まれて初めて感じたのだろう。

 それに怯えていただけなのに、俺は我慢できずに、自分の感情と欲でねじ伏せてしまったのだ。そして、そのまま置き去りにした。

「帰ります」

 体を引いて、花の匂いから遠ざかり、それだけを言う。さっきまでと違って、早く帰って謝らなければならないと思う。

「風邪なんでしょ?本田さんも大人だもの。酷いなら、病院に行っているわよ」

 安達さんは、そう言って、離れた距離を縮めて来る。

「同居している婚約者が体調を崩しているのに、飲みに行くなんて、おかしいですよね」

 少し強い口調で言うと、安達さんは目を潤ませた。

「私はただ国塚君の様子がおかしいから、先輩として誘っただけよ。大きな病気じゃないなら、会社の付き合いが優先されるのは、当たり前じゃないの?もし、これが部長の誘いでも断るの?」

 ああ言えばこう言う。……何処までもべっとりと張り付いて来る言葉に苛立つ。

「断ります。部長は飲みに行くのを強要したりしません」

「風邪なんて、嘘なんでしょ?」

 潤んだ目のまま、花の匂いをさせて、花の様に笑いながら、安達さんは言った。

「喧嘩したんでしょ?国塚君がおかしくなって、本田さんが休む程の酷い喧嘩。それなのに、仕事に来たんだから……手遅れよ」

 ぼろりと、悪意が顔を見せる。

「うちは、そろそろ子供が欲しいって話で喧嘩になったわ。私はここまでキャリアを積んだのよ。簡単に同意なんてできない。……だから夫の話を聞かなかった。怒っていたから、私はその日、黙って出社した。会社で頭を冷やして、好きだから、子供を産むまでにもう少し時間が欲しいって伝えたくて、急いで帰った」

 安達さんの笑顔が消えて、目から涙がこぼれた。

「帰ったら、居なくなっていたわ。記入済みの離婚届だけ置いて。好きで一緒に居たいだけなのは、おかしいの?」

 同情はする。けれど、俺達に自分を重ねて見ないで欲しい。いい迷惑だ。

 俺は、我慢のさせ過ぎで元カノを失った。

 だから知っている。愛情が冷めるまで我慢させてしまったら、取り返しがつかない事なんて、とっくに知っているのだ。

 離婚したのが何時かは知らないが、安達さんの夫は、数年の間、我慢した筈だ。子供の話はきっかけだったのかも知れない。

 好きなだけでは越えられない何かを、安達さんは気付かずに超えてしまった。だから夫婦が壊れてしまった。それだけの話だ。

 子供を作る、作らないなんて、正解の無いものだ。夫婦で決めて納得出来たら正解だ。

 そこで、あなたの考えが正しいです。なんて事は言えない。……恋人じゃない、夫婦だから。

 そもそも俺達は、婚姻届けもまだ出してない。昨日、理沙の気持ちを脅して聞き出したと言う……あり得ない状態だ。

 長年連れ添った夫婦の問題と同一視するな。俺はそれどころじゃないんだ!

「そう言う話は、旦那さんともっと早くにすべきだったんじゃないですか?会社の後輩に言っても、無駄ですよ」

 俺は他人なんだよ。あんたのそれは、気を引く道具になっていない。ただの愚痴だ。

 俺の言葉で一瞬絶句して、安達さんが豹変した。

「帰りたくなくて、暇を潰していた人の言い分じゃないわね」

 流した涙も、花みたいな誘う表情も消え失せた。……そこには、悪鬼の様な形相の女が居た。自分だけが不幸なのだと思い込んで、世界を恨み切った顔だ。

「あなたを見て、気付いたんです。何処が悪かったのか」

「手遅れよ」

「例え手遅れでも、俺も理沙も……安達さんに迷惑はかけません。安心して下さい」

 何度も、他人の枠を超えて来るこの人に、再度線引きをする。俺をどうしたいのかは知らないが、やめてくれ。

「何で私がこんな風になったと思うの?私達が離婚した日に、結婚するなんて言い出すからよ!」

 ……何度も言う。同情はする。タイミングが悪かったのも不運だと思う。一番不幸な日に、全く正反対の人が居るのを見るのは辛かっただろう。

 けれど、それが原因で俺達の関係を壊そうとするのはおかしい。

 後輩としては、言ってはいけないのだろうが……とにかく今は帰りたい。

「俺と理沙が上手く行かなかったとしても、あなたみたいにはなりません」

「そんなの、どうして分かるのよ?」

「俺達は常識人ですから、家庭内の問題を会社で喋ったりしません。今後の仕事にも響きますし、体裁も悪いですから」

 安達さんの悪鬼の形相が、みるみる崩れていく。家庭だけでなく、仕事も失うかも知れないと、暗に指摘したのに気付いた様だ。

「私は別に……心配して忠告しただけよ」

「だったら、こんな風に誘わないで下さい。二度と。それで今日の事は忘れます。思い出させたくなったら誘ってください。……その時は、課長も部長も呼びますから」

「わ、分かったわ」

 安達さんは、さっと背を向けると、走り去って行った。

 大きく息を吐いて、握りしめていた拳の力を抜く。さっきは、安達さんみたいにならないと言ったが、理沙にもし捨てられたら、俺もおかしくなってしまうかも知れない。

 捨てられる前に、まずはちゃんと謝って許してもらわなくては。

 悪い事は考えない。とにかく、俺は会社を出た。


 慶人君が会社から帰って来る。

 多分、明日も明後日も、慶人君はこの家に帰って来る。当然、今日も。

 あんなに傷ついているのに、慶人君は帰って来る。ここが私達の家だから。

 何をしたかったのかは、散々教えられて理解した。

 シャツの匂いなんて嗅がなくても、慶人君の匂いは知っていた事を思い知る。

 同居してから、隣に居たのだ。ずっと。分からない筈など無い。

 他の人だったら、間違いなく、大声をあげて暴れていた状況でも、私は抵抗しなかった。

 慶人君だからだ。

 あなたが好きです。

 この言葉をちゃんと言わないまま、ズルズルと一緒に暮らしていたから、慶人君はあんな風に壊れてしまったのだ。

 子ども扱いされて、当たり前だったのだ。

 それに反発して、大人扱いされたらこの有様。慶人君と一緒に出社したくなくて、会社をズル休みしたなんて、口が裂けても人に言えない。

 珠代を小動物だと思っていたけれど、私も似た様な物だ。人の事は言えない。

 慶人君に会うのが怖いのだ。心理的には、小さな箱に入れられて、バタバタしているネズミと変らない。

 ……傷つけてしまったのが怖いのだ。

 傷ついた人の心の傷は、見えない。

 すぐに忘れてしまう傷もあるけれど、昨日の出来事は、お互い、大きな傷になってしまった。確信がある。

 大きな傷は、人を変えてしまう。

 私は、過去に負った大きな傷をずっと抱えていた。それを慶人君が癒してくれたのだ。

 だから、一緒に暮らせた。慶人君を好きになれるだけの感性を取り戻した。けれど、傷つけてしまった。

 逃げて終わりにするのも嫌だし、会って慶人君が何を思っているのか、聞くのも怖い。

 箱に入れられたネズミの様に、部屋をうろうろしていたけれど、最善の答えが見つからない。

 お昼に、部屋に持って来た液体燃料があったので飲んだだけで、他は殆ど喉を通らない。考え続けているのと、慶人君が帰って来ると言う緊張で、頭まで痛くなってくる。

 でも、絶対にここに居なくてはならない事だけは分かる。

 慶人君は、私を無理矢理捕まえて、結婚するのだと思っているから、あんな事を言うのだ。そして、傷ついた。

 そうじゃない事だけは、分かって欲しい。

 私は、私の意思でここに居て、慶人君と暮らして行く。結婚するのだと、信じて欲しいのだ。

 ガチャ。

 鍵を差し込む音がする。

 逃げてはいけない。そうは思うけれど、結局、朝と同じく、タオルケットの中に潜り込んでしまった。……顔を見るのが怖いのだ。

 扉が開いて、閉じると、玄関脇の電気のスイッチがパチっと音を立てた。

 私の靴と違って、脱ぐときの音が少し重い。男物の革靴だから。そして、聞き覚えのある足音がする。

 音だけで分かる。慶人君だ。

 足音は、私の部屋の前を素通りした。

 あれ?

 ノックがあると思っていた私は、思わず拍子抜けしてしまう。

 隣の慶人君の部屋からゴソゴソ音がする。……着替えているのだ。

 スーツが皺になるから脱ぎに行ったのか。

 着替えたら来る……。

 緊張していると、隣の部屋の扉が音を立てた。

 思わず首を竦めていたが……足音は遠ざかって行った。

 また?

 今度は、台所で水道の音がした。手を洗っている。

 その後は、冷蔵庫の扉が閉まる時の音とか、包丁がまな板に当たる音、何かを焼く音……。

 何だかいい匂いがしてくる。私が作るよりも、うんと早いスピードで、何かが出来ている。

 そうか……晩御飯、まだなんだ。

 私は何も準備しなかった。だから、当然慶人君は自分の分を用意しないといけない。

 冷凍ご飯を解凍しているのか、レンジの音も聞こえる。

 食器がカチャカチャ音を立てて、リビングのテーブルに並べられて行く。

 パチっと箸を置く音が二回した……。

 私の分も、作ってくれた。

 それが分かった途端、目に、涙の膜が出来た。

 慶人君は、仲直りする為に何をしたらいいのか、ちゃんと考えて、やってくれているのだ。あんなにも、傷ついた顔をしていたのに。

 私とまだ一緒に居たいと、行動で示してくれているのだ。怖がって逃げている自分が、情けなくなってしまった。

 タオルケットから這い出して、扉の前まで歩いていく。扉を開けると、立っていた慶人君が振り向いた。

 やっぱり顔を見るのは怖い!

 私は、背中を見ながら、背中に勢いよく抱き付いた。

「わっ、理沙?」

 戸惑った声がする。……昨日みたいに怖くない。いつもの慶人君だ。

「大好き。ずっと言わなくてごめん」

 大事な言葉は、思い切りくぐもった。背中に顔を押し付けて言ったから。

 しまった……。聞こえなかったかも。でも恥かしいから、顔はそのまま。ただ、抱き付き、慶人君の胴に回した腕に力を込める。

 慶人君は、前に回っていた私の手を握った。

「あんなに酷い事をしたのに、赦してくれるのか?」

「怖かったけど……嫌じゃなかった」

 慶人君が、大きく息を吐く。

「俺の方こそ、本当にごめん」

 顔を背中にすりつけたまま、首を横に振る。

 慶人君の匂いがする。それを思い切り吸い込む。……シャツじゃなくて、本人にくっついて直接嗅げば良かったのだ。

 その許可を取りさえすれば、昨日みたいな事にはならなかったのだ。

「言わなかった私が悪い」

 キスもしないまま、結婚するつもりだった。

 式でも、キスをするか、しないか選べて、私が迷わずしないにしたのだ。……人前で狂気の沙汰だと思ったのだ。

 その時、慶人君がちょっと抵抗したのを覚えている。

「指輪、はめるだけでいい」

「普通はやるものだけど」

「海外のやり方でしょ?嫌なら白無垢にする衣装も選ばなくていいし」

「そんなに、嫌か?」

「やだよ」

 慶人君が酷くがっかりしていたのを思い出す。あの時は、全然分からなかったけれど、今は分かる。

 好きな人に言うべき言葉では無かった。

 そんな言葉の数々を、一杯慶人君にぶつけてしまった。

「私、慶人君と並んで歩ける人になりたい」

 結婚を決めてから、手を引いてもらってここまで来た。けれど、自分の世界を、あえて狭めて知らん顔する姿勢はやめる。

 過去がどうであれ、これからは慶人君と一緒に居るのだ。慶人君を困らせたくない。

「だから、頑張る」

 いきなり回した腕を解かれた。

 すると慶人君がこちらを振り向いて、私を抱きしめた。

「理沙」

 昨日と違う。少しも怖くない。

 ……慶人君は、私の肩に頭をくっつけて呟いた。

「俺、どうしても我慢出来なかった。酷い事してるって思ったけど、止められなかった。本当に好きなのに……ごめん」

 また、視界が歪んでいる。私は再度腕を回し、慶人君の体を抱き返した。

「赦すよ。だから一緒に居て。傷つけても喧嘩しても、仲直り出来るって、信じられる相手で居て。私もそうなるように頑張るから」

 慶人君は何度も頷いた。

 どれだけそうしていただろう。お互いに照れ笑いをして、冷めたご飯を食べた。

 それから、話をした。……今後の話だ。

 私が料理教室に行きたいと言ったら、慶人君は本当にやりたいなら、と言ってくれた。

 ネットの動画を見ても、さっぱりな私には実演や指導をしてくれる先生が必要なのだ。

 慶人君からは、やっぱり婚約指輪をして欲しいと言う希望が出た。

「昨日と今日の事を忘れないで、俺達の起点にするのに、物を残しておきたいんだ。別に身に付けなくてもいい。持っていてくれ。……もし忘れそうな時に、見られたら、それでいいんだ」

 そう言う意味なら、文句は無い。

「婚約指輪の定番みたいな指輪じゃないのがいい。結婚しても着けられるのが欲しい」

 慶人君は笑って頷いた。

 式まで二週間を切った頃、私は指輪をして会社に出社した。

「あれ?指輪だ!本田さんが指輪してるよ」

「綺麗だね。ダイヤと……この透き通った緑色の石は何?」

 目ざとい経理女子達は、当然気付いて、仕事前に集まって来た。

「ペリドットですか?」

 後輩がそう言う。

「そう」

「八月の誕生石ですね。本田さんは、八月生まれですか」

「九月だよ」

 全員が目を丸くする。

「国塚君が八月なの?」

「いえ、五月です」

「何でペリドットなの?」

 八月は、私達が夫婦として出発した月だから。デザインも気に入って、これに決めたのだ。……私は興味が無かったから考えなかっただけで、センスや好みが無い訳じゃない。慶人君がそう言って後押ししてくれたので、選んだ指輪だ。

「秘密です。凄く気に入っています」

 本当だから、素でそう言ったら、

「挙式直前に盛り上がって来るとか……爆破かしらね」

「ごちそうさま。お腹一杯だわ」

「いいなぁ。私も、優しい彼氏が欲しいですぅ」

 とか言いながら、仕事机に戻って行った。

 ……慶人君と私だけが知っている意味があるのだと、皆察知したのだ。

 のろけてしまった。と、そこで気付いた。

 人が生暖かい目で自分を見ているのに、全く気にならないなんて、初めて知った。


「国塚、気持ち悪い。運転しながらニヤニヤするな」

 仕事の合間、会社の車で移動中に、先輩である小林さんに言われた。

「新婚なんです。大目に見てください」

 結婚式も、何とか無事に済んだ。

 理沙のウェディングドレス姿は、想像以上の出来だった。すっきりしたラインのドレスで、首も肩もむき出しになっていた。髪もアップにされて、長くて細い首が強調されていた。色も白くて……俺は凄く満足だった。特にうなじ。俺はうなじフェチなのかも知れない。

 前日の夜に酷い状態だった母の事は、この時点で忘れた。……多分。

 前日からホテルに泊まっていたので、国塚家は久々に集まった。

「何でこんなに、こじんまりとした式をするのよ!お相手が恥ずかしくて見せられないみたいじゃないの!結婚式は、お金がかかっても、ちゃんと私達がお金は出すから、派手にやらないとだめなの!」

 母の機関銃の様な言葉を聞き流し、兄弟を見ると、味方になってくれる気配が無い。

「まぁまぁ、飲まないとやってられないよね。ほら、これ飲んで」

「そうね」

 父が、母に缶ビールを渡す。

「これ、高級なビールじゃない!」

「うんうん。これだけじゃないよ。慶人が沢山持って来てくれたから、今日は、色々飲もうね。お祝いだから」

 会社からお祝いだと言って、かなりの種類の酒をもらったのだ。日本酒、ワイン、生酵母のビール……かなり珍しい物だ。

 今日、それを持って来たのだ。……母の目を、式から逸らしたくて。父は、その意思を理解してくれたらしく、上手くやってくれた。

 父も本当は、口を挟みたい派だが、今更めでたい日に、水を差す様な真似はしたくないと言う良識も持ち合わせている。非常にありがたい。

 俺はその隙に、こそっと場所を移動して、兄弟と一緒に、両親から距離を置いた。

「助けてくれてもいいじゃないか」

 俺が言うと、二人は言った。

「お前、俺達を売っただろう」

 兄貴……碧人の言葉にぎくっとする。

「慶兄、酷いよ。どうするんだよ。アレ」

 母は、完全に機嫌を損ねて、ガブガブと酒を飲んでは、ワーワー言っている。父がなだめているが、収まる気配が無い。

「俺が前例になれば、母さんも諦めるかと思ったんだけどなぁ」

「「嘘だ」」

 自分でも似ていると思う、碧人と勇人が、同時に言って、こちらに迫って来る。

 結婚式は、親に勿論相談をするものだが、親が強く出て仕切ると、夫婦の仲が悪くなる。

 俺達はそう思うのだが、母は、自分が親に仕切られて、何も選べずに結婚したから、自分もそうしたいのだ。

 子供の頃から、耳タコなくらい、聞かされた話だ。

 三人共思っていた。それは負の連鎖だ!と。

 母には可哀そうだが、断ち切るべきだと思っていた。まだ見ぬ嫁との結婚生活が、不幸にならない為に。

 とは言っても、実感を伴っていた訳じゃなかった。何とかなるだろう。なんて、思っていたのは確かだ。

 そんな訳で、碧人が軽い気持ちで、彼女を連れて実家に来た訳だが……。

 俺達は、実家に急遽呼び出され、碧人の彼女を取り囲むようにして、会う事になった。

 見たのは、顔を会わせた当初は引きつりながらも笑顔だったのに、最後は青くなって目の泳いでいる碧人の彼女の姿だった。

 当然、別れてしまった。……お母様に従いますなんて、古風な女は今時居ない。俺達は、親のせいで、生涯独身かも知れない。そんな風に認識を持つきっかけになった。

「女同士だから、分かり合える。うちの息子を選んだ理沙ちゃんに、私は最高のアドバイスが出来る。これからは、私が全部やってあげたい!赤ちゃんは絶対に女の子がいいの。退院するときには、フリルの付いたドレスみたいな産着を私がプレゼントするの!」

 酔った母の声が聞こえる。

 母の理屈はこんな感じだ。……本気で。

 結婚式は何とかしのげたが、今後もこんな状態は続く。

 だから俺達兄弟は、好きな子が出来ても、なかなか先に進めなくなっている部分もあるのだ。

「お前……よくあの難関を突破したな」

 碧人は、母に彼女を撃墜されているので、ため息交じりに言った。

「車で移動中に、婚約者連れて行くって連絡して、三時間も居ないで帰って来た」

「奇襲か……」

 勇人が本気で考えている。……もしかして、彼女居るのか?

「見合いは最悪だよな。最初からあの人が話に入って来る訳だし……」

 碧人は会社で、凄い母親が実家に居る……と、元カノに噂を流されてしまった。

 元カノはその後、寿退社して、碧人だけが残る恰好になった。

 それから、会社では誰も女の子が近づいて来ない。同僚も女の子を紹介してくれない。上司からの見合いも来ない。……見合いが来るとすれば、うちの親からだ。

「綺麗なお洋服、可愛い靴、帽子。サイコー!臭いTシャツに汚い運動靴、野球帽とか、もう絶対に嫌!」

 背後で叫んでいる母の声が聞こえる。父は、必死で酒を勧めて、気を逸らしている。

……俺達が兄弟三人揃って、酒に強いのは、両親共に、酒に強いからだ。

 特に母は、俺達を上回る酒豪だ。

 飲んでは吠えて、吠えては飲んでいる。その姿は、国塚家最強の生物だと言わざるを得ない。

「相変わらず、元気だな……」

「百歳とか、余裕で生きそう」

 碧人と勇人が、ちらりと見て呟く。顔が真剣だ。……多分俺も同じ表情をしている。

「今後は兄弟で協力すべきだと思う。連絡を取って、情報を共有しよう。一人で戦っても勝てる気がしない」

 碧人の言葉に、俺も勇人も頷く。

「俺、彼女居るんだ。もう二年、付き合ってるんだけど……プロポーズできてない。待っていてくれてるのに」

 勇人が、がっくりして小声で呟く。

 ちらりと見ると、母は、ワインの説明を読んでいて聞いていない。

「俺は、結婚どころか、彼女も出来る気がしない」

 碧人もがっくりしている。

 幸せの絶頂である俺が何を言っても、嫌味にしかならない。

 そんな訳で、男三人、近況報告をしつつ、酒を飲んで夜が更けた。

「男の子なんてつまんない!」

 母は、ずっとわめいていた。

 翌日の式で、母は喉の具合が悪かった。酒で枯れたのだ。お陰で大人しくしていた。……昨日、わめき過ぎたのが原因だ。

 食事会を兼ねた披露宴では、息を吹き返し始めて、ヒヤヒヤした。

 しかし、殆ど被害が出なかった。

 珠代が、娘の心ちゃんを着飾って出席していた事で、母の目が完全にそっちに向いたのだ。

 珠代手作りのパーティドレスを着た心ちゃんに、すっかり心を奪われてしまったのだ。

「かわいいわねぇ。お洋服も素敵。まぁ!手作りなの?凄いわ。お若いのに、素敵なお母さんなのねぇ」

 褒めちぎられて、珠代もまんざらじゃなさそうだったので、理沙に目配せして放置した。

 誠さんの席に座り込んでいるので焦ったが、代わりに、母の席に誠さんが座って、うちの兄弟や父と話をしていた。

 理沙のご両親も、苦笑しつつ聞いてくれている。……後で当然謝罪した。

 珠代が、母の理想に近い嫁だから、本田家が心底羨ましい!と言うのがにじみ出た言葉の連発に、本田家の人々は黙るしか無かったのだ。

 理沙に聞いている。最近になって、嫁姑問題が勃発している事を。

 もうイベントを開くのに、実家は使わせない。自分も手伝わない。と、お義母さんが宣言したそうだ。

 誠さんの家はマンションだ。戸建てじゃない。だから珠代は、ママ友を呼んで食事会や子供を遊ばせるなど、近い本田家を使っていたのだ。心ちゃんが小さな赤ん坊の頃から。

 赤ん坊は寝ているだけだ。しかし、もう幼稚園児。動き回る。

 お義母さんは、ずっと我慢していたのだ。いきなり連絡が来て、小さな子供達が大勢遊びに来る。親が見ていない内に、家を汚し、物を壊す。手入れした庭の花も、勝手に摘み取られてしまったのだとか。

 理沙の事をライバル視して張り合っていた事に腹を立てていただけでなく、実害がかなり積み重なっていた様だ。

 だから、珠代とお義母さんの間には、微妙な空気があった訳だが、うちの母が気付かずにまくし立てて、それどころでは無くなった様子だった。

 とにかく、雰囲気が悪くなる事も無く、無事に全てが終わった。

 結婚式は、緊張するものだとは思っていたが、ここまで神経をすり減らす物だとは思っていなかった。

 アットホームで和やかなお式でしたね。なんて式場の人は言ってくれたが、俺も理沙も、微妙な笑顔になっていたと思う。

 帰って行く皆を無事に見送り、理沙は言った。

「結婚しちゃったね」

「そうだな」

 手を握ると、ちゃんと握り返してくれる。これ……いい。

「婚姻届け出して旅行。楽しみだね」

「そうだな」

 入籍日は、今週の木曜日、理沙の誕生日にする。覚えやすいし、記念日を忘れないからと、俺が決めた。

 沖縄への新婚旅行へは、その後、そのまま結婚による特別休暇と土日、更に有休を繋げて、四泊五日で行く事になっている。

 早くに決めたし、金土日に飛行機移動が無い事もあって、かなり費用も削れた。

 だから、理沙にはその浮いた金で、スキューバダイビングをしてもらう。

 理沙は泳ぐのが苦手らしい。だから、未だに抵抗しているが、これは譲れない。

 俺が一緒に、あの綺麗な海を見たいのだ。

 それまで後三日。早く今週の前半は終わって欲しい。

「夢も希望も一杯って感じだな」

「当然です」

「旅行帰って来たら、浮かれてないでちゃんと仕事してくれよ」

「勿論です」

「あー。こいつ、絶対聞いてない。殴っても痛くないんじゃね?」

 何とでも言えばいいのだ。

 苦節の日々を乗り越えて、ようやく名実共に夫婦になって、旅行に行くのだ。普通で居られる方がおかしい。

「この世の春ですが何か?」

「本田と付き合ってる素振りも無しに、いきなり結婚するって言うから、訳ありなんじゃねぇのって、俺達は心配してたのに、損したよ」

 そんな風に見えていたのか。

「訳ありって何ですか?」

「酔わせて、本田に結婚の約束させたとか」

 ……カラシが嫌いな事しか、分かりませんでした。

「本田の弱みでも握って、脅して結婚したとか」

「あの、何で俺ばっかり、悪者なんですか?」

 一方的に、俺ばかりやらかしている話ばかりだ。……まぁ、結果的にやらかしているから、何とも言えないが。

「お前が本田の事を大好きなのは、営業と経理では常識」

 え?

 信号で止まったので、横を見ると、小林さんが、半眼で俺を見ていた。

「経理へ部長のお使いで喜んで行く癖に、経理の寄って来る女の子の誰にも、なびかない。……消去法で分かるって。部長がわざとお使いさせてたのも、二人きりにしていたのも、分かってなかっただろう」

「すいません。……全然気付いていませんでした」

 信号が変わるので、前を向く。恋で盲目でも、安全運転はしなくてはならない。

「お前、モテるのに、ずっと中学生の片思いみたいになってたから、経理と営業では凄く心配されてたんだぞ」

 本人の知らない所で、そんな話になっていたとは。

「だから結婚報告が来て、思い余って何かやったに違いないって話になっていたんだよ……本田は婚約指輪もしてねぇし、地味婚だし」

 安達さんが、俺達の関係を壊そうと食い下がったのは、この辺りの話が後押しになっていたからかも知れない。……困る。もう誰も壊しに来ない様に言っておかねば。

「ちゃんと、恋愛結婚です」

 一か月程前からの事だが。

「理沙はこだわりが少ないし、贅沢を嫌うんです。だから、こんな感じになってしまっただけです」

 婚約指輪と言うか、謝罪指輪と言うかは、今ちゃんとしてるし。

「そうみたいだな。……式が近くなって、本田の様子が変わった。お前も頭のネジが緩みっ放しだし、杞憂だったなって話になった」

「ご心配をおかけしました」

 きっと、埋もれていく筈だった話。小林さんがたまたま話してくれただけの、会社の噂。

「良かったな。幸せになれよ」

「はい」

 ところで、気になる事がある。

「頭のネジが緩みっ放しって……俺、仕事してますよね?」

 小林さんは、忌々しそうに言った。

「してるよ。ただ、いきなりニヤニヤするの、止めろ」

「……努力します」

 俺はとりあえず、顔を引き締めた。……引き締めたつもりだったが、また緩んでいたらしく、会社に到着して車を降りると、脇腹に、小林さんの肘鉄を食らった。

 徐々に落ち着きますから。なんて言っても、きっと良い顔はしないだろう。

 小林さんは独身だ。爆破してやるとか、言われる前に何とかしよう。

 でも、理沙かわいいしなぁ……。

「その顔、やめろって、いってんだよ!」

 小林さんに、また肘鉄を食らった。

 でも幸せ。

 肘鉄されても顔の緩んでいる俺を見て、小林さんは気味悪そうに自分のデスクに戻って行った。

 後三日、頑張って仕事をしよう。俺もデスクに戻った。


 晴天。空には雲一つない。

 夏とはちょっと違う、秋の空が広がる中、旅行用のキャリーバックをゴロゴロ言わせながら、私達は市役所に来た。

 婚姻届けを出して、沖縄に行くのだ。

「沖縄も天気みたいだな。崩れる予定も無い」

 慶人君は、受付待ちの間に、スマホで天気をチェックしている。

 私は、別に雨でもいいと思っている。慶人君と一緒なら、きっと何をしていても楽しいから。……慶人君には、言っていないが。

 戸籍謄本を取った時に、慶人君に中を見られるのは、ちょっとだけ嫌だなと思いつつ渡した。

 私の生まれてからの記録が全てあるのだから、実の両親の事も、勿論載っている。

 慶人君は、中を見なかった。

「これで書類全部だよな」

 と、それだけ言って、自分の謄本と一緒に畳んで、婚姻届けと一緒に封筒に入れた。

 私達の本籍は、どうするかと言う相談になって、そのまま慶人君の実家に置いておく事になった。何時か家を買ったら、その時に移そうと言う話になったのだ。

 何度も戸籍を移すのは面倒だし、今すぐ必要な事も無いから、と言う理由だ。

 離婚届にも、戸籍謄本が必要になる。

 それを危惧しているらしい慶人君が、

「本籍地なんて、覚えなくていいからな。忘れていて、いいからな。戸籍が必要なら俺が取るから」

 なんて、病んだ事を言っていた。

 そんな事、起こらないのに。

 たまに、慶人君は病んだ事を言う。

 私が、慶人君を待たせ過ぎたせいで起こった弊害だから、甘んじて受け入れている。

「国塚君、重たいね。想像以上だわ」

 結婚式の前日に咲が来ていて、色々端折りながら、今までの経緯を話をしたのだが、呆れていた。

 喧嘩をして、私が会社に一緒に行きたくなくて、ズル休みをした事と、その夜に仲直りをして、ようやく夫婦になる覚悟が出来た事を話しただけだ。

「仲直りの印とか言いながら、結局、理沙ちゃんに指輪させちゃったんでしょ?理沙ちゃん、それ初めての指輪だよね?」

 ファッションリングの類は持っていない。

「指輪をする習慣の無い理沙ちゃんに、仲直りの印に指輪って。どれだけ独占欲強いのよ」

「独占欲?」

 好きで居てくれるだけだと思っていた。

「結局、自分の物だってアピールしたくて、いらないって言った婚約指輪させられちゃったって事じゃない」

 間違えていないだけに、反論出来ない。

「挙式まで二週間なのに、思い余って指輪させる辺りが、重たい。結婚指輪あるのに」

 ……以前の私なら、そう思っていたかも知れない。けれど、一緒に暮らしていて分かったのだ。

 慶人君は、生涯を共にして、家族を増やす相手として、私を選んだ。慶人君にとって、それは退けない戦いみたいなものだったのだ。

 単純な好きだけでは、乗り越えられない事情も、受け入れた。それは全て、私が色々と誤魔化せない不器用な人間である事を気に入っているからだ。

 処世術を身につけないで、ジグソーパズルに逃げ込んでいたのが原因な訳だが……。慶人君は、世渡り上手な女の子を、本当の姿が見えないと言って、嫌う節がある。

 普通の男性の考え方よりも、偏っている気がする。慶人君みたいな男ばかりの世界では、ホステスやキャバ嬢は全滅してしまうだろう。

 女が女を武器にして生きる事を、否定していなければ、私みたいな女に興味など持たなかった筈だ。

 その事をちょっと話すと、咲は納得したみたいに言った。

「前の女で、痛い目に遭ってるのかもね」

 一瞬、嫌な気分になった。……でもよく考えれば当たり前だ。渋いイケメンとして扱われているのは、高校時代からだそうだし、彼女が居なかった訳が無いのだ。

「笑顔や建前は、確かに武器だよね。露骨にアピールする人は、嘘臭い。逆にうまく使い過ぎる人は、本心が見えない。だから、嫌だって言う話なら、私も分かるかも知れない」

「そうなの?」

「理沙ちゃんと居る時は、理沙ちゃんが、素の私を嫌がらないで居てくれるから、居心地いいもん。国塚君がそこにハマってるなら、納得かも」

 じゃあ、前の彼女には、慶人君と酷い別れ方をしてくれて(?)ありがとう。とか、思っておくべきなのだろうか……。

 私が考えていると、咲が急に話を変えた。

「ところで理沙ちゃん、最近お化粧、上手になってない?お肌も前より綺麗よ」

「ありがとう。百貨店の化粧品売り場で、ちゃんとしたのを試して、やり方教えてもらった」

 デパートの化粧品売り場で、一通りメイクしてくれると言うコーナーがあって、予約を入れて、出来る範囲の化粧を教えてもらったのだ。

 金はかかった。基礎化粧品を、毎日ペタペタ塗っている。

 メイクは苦手だから、沢山はいらない事を伝えたら、実際のメイクに使う品は減ったが、乳液やらナイトクリームやら、今まで使っていなかった物を買わされた。

 こんな物……効果あるのか?

 半信半疑で、金が勿体ないので塗っていた訳だが、咲が言うのだから、効果はあったらしい。

「コンビニ化粧品の理沙ちゃんが?メーカー品……」

 咲が茫然としている。

「結婚って凄い。理沙ちゃんをこんなに変えるなんて」

「慶人君と一緒に居て恥ずかしくない女で居ようと思って、咲ちゃんが居れば頼んだんだけど……習うのも選ぶのも、結局その道にプロになっちゃった」

「私じゃ、ここまでに仕上げるのは無理かも。基礎化粧品、大事なんだね。どんなの使ってるの?」

 なんて事で、今まで咲の喜ぶ話は殆ど出来なかったのに、ちゃんと出来る様になった。

「私もちょっと調べてやってみるわ。確かに、何時までも若いまんまじゃないもんね。長い目で見たら、メイクよりも基礎化粧に比重置くべきね。理沙ちゃんからそんな情報もらう事になるなんて、信じられないけど」

 多分、液体燃料を主食にするのをやめて、ちゃんとした食事をしている事も大きな要因だ。だから、化粧品だけの問題では無い気もするが……咲の美容への意識に火が付いているから、止めるのは難しい。

「理沙ちゃんがツヤツヤになって本当に良かった」

「ありがとう……」

 ツヤツヤって、変な言い方だと思ったが、咲が話を変えたので、聞けないままになった。

 そこからは、咲の旦那さんが、咲の趣味とは違う、卑猥な下着の着用をほのめかしてくるので、どうしようか考えていると言う、意外な話になった。

 咲は、勿論私が誰にも言わないと信頼して話してくれているのだから、誰にも言う気は無い。

 慶人君はそう言う趣味は無い……と、思う。

 どちらかと言えば、下着なんて邪魔だと思っている節がある。

「相手が喜ぶなら着ればいいと思う。咲は綺麗だからどんな下着でも着こなせる。減る物じゃないんだし、夫婦だけの秘密なら、いいんじゃないの?」

 私がそう言うと、咲に肩に手を置かれた。

「ほんのちょっと前まで、字が上手いだけの、恋愛アレルギーパズルマニアだったのに、言う様になったわね。国塚君……凄いわ」

 恋愛アレルギーパズルマニア。

「そのパズルだけど、捨てたよ。オークションでも売れなかった」

 私が思い出して、がっくりしていると、咲が笑った。

「人の趣味に口は挟まないけど、限度があるわよ。私も、いい加減捨てた方がいいと思ってた。部屋が倉庫になってたじゃない」

「大きいのは、粗大ごみ扱いで、お金まで取られた」

「ばらして燃えるゴミに出しなさいよ」

「ばらしても、フレームは金属だし、長い方の長さが、粗大ごみの範囲に入っちゃったの。だから、そのまま捨てる事にした」

 辛い作業だった。

「そんな大きなの、何枚も一人暮らしの部屋に置いておくからダメなのよ」

 慶人君にも、似た様な事を言われた。だから、レンタルスペースに保管すると言ったが、却下された。……安心して増やされると困ると言う理由で。

 咲には、思い切り笑われた。

 そうしている内に、夜は更けて、咲は私よりも酒に弱いから部屋に帰した。

 私は実家も近いし、話しは十分にしてあったから、部屋に戻る事にした。

 部屋は、慶人君と一緒に取ってあるけれど、慶人君は多分帰ってこない気がする。家族の人に掴まっていたから。

 そんな訳で、私は部屋に帰って、さっさと寝る事にした訳だけれど……。

 緊張してよく眠れなかった。

 披露宴の最中に、ちょっと意識が遠のいていた。ガシっと肩を慶人君に掴まれて、はっとする。

「頑張れ」

 小声で言われて、頷く。

 挨拶で酒を注がれて、飲んだのも良く無かったかも知れない。慶人君は、私もお酒は弱くないと言っていたが……やはり緊張と睡眠不足の上での酒は、厳しいみたいだ。

 慶人君の友人は気付いていた。

「国塚の奥さん、肝座ってるなぁ!」

 なんて笑われてしまった……。お陰で目が覚めたが。

 サーフィンをするきっかけになったと言う高野さんは、陽気で楽しい人だった。

 大学のサークル仲間で、沖縄にも一緒に行った人だそうだ。当時の貧乏旅行の話を聞けて楽しかった。

「民宿で借りた車のガソリン、けちって、エンストしちゃったんだけど、その後が大変でさぁ。暑いし、携帯かけても、民宿の人は留守だし」

「そうでしたね……結局、車押して帰ったんでした」

「民宿に着いたら、民宿の爺ちゃんが、ゲラゲラ腹抱えて笑うし」

「後で聞いたら、民宿に戻って来るよりも、うんと近い距離にガススタあったって話でしたね。携帯も、ちゃんと調べなかった俺達は、かなりアホでしたね」

 五人、男ばかりで行ったそうだ。キラキラしていて眩しい、青春の話だ。

 私には無かった物だ。ちょっとだけ、羨ましい。咲とは一緒に居たけれど、旅行なんて行かなかった。……二人共、そんな心境じゃなかったから。

 皆帰って行って、慶人君と家に帰った後、

「楽しい事、一緒にこれからしような」

 と、慶人君が言った。

「今日は眠いから、やめて」

「そう言う意味じゃないよ!」

 首を傾げると、慶人君は言った。

「これからの時間は、楽しく生きて行こう。俺と一緒に」

 そう言う意味なら、納得だ。

「うん」

 笑顔で答えると、慶人君がちょっと困った様に言った。

「それで……今日は一緒に寝てくれないんですか?」

 そう言う意味じゃないって恰好付けて置いてこれか!

「凄く眠いの。明日は仕事」

「はい……」

 しゅんと項垂れている慶人君が、面白くて、思わず笑ってしまった。籍は入れていないけれど、今日は夫婦だとお披露目した日なのだった。

「明日の朝、ご飯作ってくれるなら」

「やるやる!」

 何か返事が欲望にまみれている気がして嫌だ。……男はこれで普通だと、慶人君が言っていたけれど、本当の所はよく分からない。

 そう思いつつも、私は慶人君の望みを叶えてしまう。

 慶人君は、私に勝てないと思っているかも知れないが、八月のあの日以来……私は慶人君に勝てなくなっている。

 分かっているのだろうか?

 色々思い出している内に、役所で受付の順番になって、婚姻届けは無事に受理された。

 私は、二十七歳になって、国塚理沙になった。


 空港への直行バスの中でも、飛行機でも、理沙は寝てばかりいた。

 ……眠そうだったのは分かっていたが、飛行機に乗るのは、初めてとか言っていたのに、機内で緊張もせずに寝ていた。

 ベルトの脱着の時に起こしたが、それ以外寝ていた。外が見える様に窓際の席にしたのに。

 理沙は、良く寝る。前からそう思っていたけれど、本当に体力が無い。何か、運動させた方が良いのでは無いかとちょっと思ってしまう。

 沖縄でホテルに着くと、ようやくすっきりしたのか、荷物を置いて、伸びをした。

「何か、寝てる間に運ばれて、一瞬で違う場所に来た感じ。ラッキー」

 ラッキーじゃねぇよ。

「それ、楽しいのか?」

 俺が言うと、理沙は笑った。

「楽しいよ。慶人君が居ると、どこでも安心して眠れるし」

 安心して眠れる?そこで、俺の脳裏に色々な考えが過った。

 ジグソーパズルの山。眠るまで、夜に理沙がやっていた事。一緒に暮らすようになって、寝ている所を良く見る様になった理由。挙式の日に、酷く眠そうにしていたのは……。

 理沙は自分の事を言いたがらない。だから、気付かなかった。

「もしかして、一人で寝るのが怖いのか?」

 理沙は、耳まで真っ赤になった。

「怖くない」

 自覚せずに抱えていた悩みなのかも知れない。思いがけず、俺に指摘されて狼狽えている。

「一人でも平気」

 萌える。新婚で俺に依存してる新妻とか。

 もう理沙が寝てても、絶対に邪魔しない。俺の特権だって分かったから。

「何かいやらしい事考えてる!こっち来ないで」

 当然、無視。

「部屋、別々にするのやめよう」

 理沙を抱きしめて言う。脇腹をボカボカ殴っているが、本気じゃないし。何?この可愛いの。

「そんなの頼んでない」

「ベッド、同じのにしておいて良かった。くっつけて置けばダブルベッドの代用になる」

「別にひっつけなくていい」

「嫌か?」

 ちょっと視線を合わせて聞けば、嫌じゃないかどうかなんて、すぐに分かる。俺に見透かされるのが嫌なのか、理沙は視線を逸らす。

「嫌って言ったら、慶人君、しょんぼりするんでしょ?」

「そうだな」

「……それなら、それでいいよ」

 不貞腐れた顔で、理沙はそう言った。

 鼻血出そう!

 確かに理沙は、俺が同じ家の中に居ると思うだけで、熟睡できるのかも知れない。

 きっと理沙は、俺が居ると安心するとは思っていても、毎日一緒に寝たいかどうかまでは考えていなかったのだ。

 そして今考えて、それでいいと思ってくれた。理沙は、黙っている事はあっても、誤魔化す事をしないから、嫌なら言う。きっぱりと断る。けれど、それをしなかった。

 こんなに素直だから、生きて行くのが辛かったのだろう。でも、このままでいいと思う。

 俺が側に居るだけで辛さが減るなら、ズルくなって一人で生きて行ける様になんて、ならなくていい。俺はそんな事を考えてしまった。

 理沙の好きって感情は、一生俺のそれとは同じにならない。想ってきた時間が違い過ぎるのだ。

 長過ぎた片思いを諦めきれず、無理矢理に押し通した結果、俺は歪んでしまった自覚がある。

 理沙の想像も付かない様な感情を含んだ恋慕を、心の中に内包している。

 理沙は、気付いているのか、いないのか。

 どっちにしても、結果は同じだ。

 理沙の言う通り、いやらしい事は考えていたが、今は解放する。

「もうすぐ夕飯だ。ホテルの中、見て回ってから、行くか」

「うん」

 ほっとした様子で、理沙が笑顔になった。

 同じ場所まで堕ちて来いと言うのは、理沙に歪めと言う事だ。

 ほの暗い感情を理沙に持たせたい訳では無いから、俺の中の狂暴な部分は、心の隅に押しやって、小さく囲い込む。

 手を差し出せば、迷いなく手を出してくれる。ここまでの苦労を思うと、歪んだ自分の思いを忘れられる。

「沖縄~♪ここは本島~」

 呑気に、歌うような口調で言いながら横を歩く理沙の姿を、会社の人達は知らない。

 会社の理沙には隙が無い。こんな風にのんびりしていないのだ。

「他の島も行く。楽しみにしていいぞ」

 スキューバダイビングは、本島では無くて、渡嘉敷島に行って日帰りでする予定だ。ケラマブルーと呼ばれる、綺麗な海を理沙に見せたくてそうした。あっちに泊っても良かったのだが、ガラス細工の工房を回る事も考えて、日帰りにした。

「船って修学旅行のフェリー以来かも」

「酔い止めは、一応持っていけ」

 高速船の予約は取れているから、片道四十分程度だが、念の為に言っておく。

「分かった」

 喜んでくれるといいな……。楽しい思い出にしたい。

 手を繫いで歩いていても、ホテルのスタッフは笑顔で軽く会釈する程度だ。理沙は、ちょっと恥ずかしそうにしている。

 結婚指輪は、新婚旅行から帰った後と言う話になっている。

 理沙が、旅先で落としたら嫌だと言うからだ。最近している指輪も、家に置いて行くと言うので、渋々頷いた。

 俺としては、ただの旅行じゃなく、新婚旅行だと周知させたかった訳だが、

「誰も気にしてないよ。沖縄に知り合いでも居るの?」

 なんて理沙は言われて、反論出来ない。

 これ以上食い下がると、面倒くさい奴だと思われそうな雰囲気だったので、引き下がる事にした。

 だから、俺の指にも理沙の指にも、なにも無い状態な訳だが……。俺としてはそれが妙に心細い。

 夕飯になった。

 ちょっと暗めの照明で、キャンドルが置かれた席に着いて、食事を取る。

 そこで、他愛ない話をして飯を食べていた理沙が、顔を強張らせた。

「どうした?」

 視線の先をちらりと見て、俺も顔を強張らせた。指を絡ませて身を乗り出し、深海調査並のキスをしている男女が見えたからだ。

 隣の席で、少し離れている……離れてはいるのだが、視界に入る。

 恋愛初心者の理沙には、刺激が強かったのだろう。俺もちょっと居心地が悪い。

 俺達は、早々に部屋に戻る事にした。

「びっくりした」

 理沙が部屋でぼそっと言う。

「俺も」

 いくら何でも、あれはどうかと思う。

「お互いしか見えていないって、怖いね。気を付けなきゃ」

 理沙が、何かを決意している……。これは流れ的に不味いのでは?

「変な事考えていないだろうな?」

「考えてないよ。やっぱり家に帰るまでは、旅行を旅行らしく楽しまないとなって思っただけ。変な事は考えない」

 いやいやいや。

「俺達、新婚旅行でここに来てるんだし、部屋では二人だけなんだから、そんな風に考えるのはどうかと思うぞ」

「気が緩んで、あんな風になったら困る。だから健全に過ごすべきだ」

 ちゃんと思いが通じて、夫婦になっても、理沙は理沙だ。潔癖な部分が、思いがけず顔を出す。

「ちょっと待て」

「私、お風呂入るから」

 理沙は、さっさとバスルームに消えて行った。本当は、一緒に入りたかったのに。

 未だに理沙からは、一緒の入浴を拒絶されている。この旅行で何とかしようと思っていたのに……。

 隣に居た奴らのせいだ!

 理沙は、人に恥じる様な行為をしたくないと言う考えが強い。あれを見たら、ぽーっとした新婚気分が抜けてしまったのだろう。

 結局、理沙にはその後も距離を保たれて、健全に過ごしてしまった。

 翌朝、バイキングの朝食に行くと、例の男女も居た。

 二人共、揃いの銀色の指輪をしている。あちらも新婚旅行だった様だ。

 朝から二人だけオーラが違う。他の人がどう思っているかは知らないが、男が女の腰に手をまわした状態でトレーを持ち、そこに女が食べ物をせっせと入れている。

 そして、一つのトレーの皿に入れて来た料理を取り分けて食べている。

 一つのトレーに一緒に料理を持ってくるのは分かる。一緒に食べる物を選ぶのは楽しかろう……。それは確かに認める。羨ましい。

 だが、立つとすぐに女の腰に男が手を回して離れないと言う行為が、俺と理沙の限界を超えているのだ。

 理沙は、その様子を半眼で見て、黙々と飯を食っている。

 ……これ、やばいんじゃないか?新婚旅行なのに、修学旅行に変化するんじゃなかろうか。

「理沙」

「何?」

 口数が少ない。……新婚が傍目に見て、ああ見えると思われたら困るのだが、きっとそう思っている。

「俺達は俺達だろ?人とは違うんだから、あまり気にするな」

 釘を刺すと、理沙は俺をじっと見た。

「どの程度なら、人に不快感を与えないと思う?」

 俺にも……ある程度しか分からない。ただ、俺達があそこまでの事をしないのは分かる。

「さあな」

「だったら家に帰るまで、旅行に専念して楽しむべきだと思う」

 これ……ダメだ。ちゃんと言わないと。

 食事が終わって一旦部屋に戻ると、俺は理沙の手首を掴む。

「慶人君?」

「俺達は、ハメを外しに来たんだ。分かるか?多少の事には、目をつぶってもらうんだよ」

 理沙が首を傾げる。

「俺達の予定は、あって無い様なものだ。……今回の旅行の場合」

 分からないのか、理沙が俺をじっと見ている。

「俺達が、二人で楽しい思い出を作れるなら、それでいいんだよ」

「でも……」

 俯いた理沙の額に、俺は自分の額をくっつける。

「ガイドについて回るだけの団体旅行じゃない。俺達だけの思い出を作りに来たんだ」

「思い出?」

「そうだよ。最悪、この部屋にこもりっきりで、外に行かなくても、俺達が楽しいなら、それで構わないんだ」

 理沙の顔が、真っ赤になる。

「そんなの旅行じゃない」

「そうかも知れないな。でも、それを決める自由は俺達にある。人の目を気にして、楽しめないなら、来た意味が無い」

 常識は必要だが、楽しめないのもどうかと思う。

 理沙が困った顔をしている。俺は額を離して、手首ではなく、手を握った。

「俺達のやり方が気に食わない人が居たとしても、俺達がその人の感覚に合わせる必要は無いんだ。俺達の常識を信じないか?中学生じゃあるまいし、文化財に落書きしたり、危険な真似をして動画サイトに投稿する訳でもないだろう?」

「そんな事、考えもしなかった」

 当たり前だ。

 理沙の言いたい事は全く別だが、あえて言ったのだ。

「私はただ……」

 言い辛そうな理沙の言葉を待つ。

「必要以上のスキンシップは、人前でしたくないだけ」

「しない。約束する」

 俺がそう言うと、理沙が頭を振った。

「違う」

「何が?」

「私が……うっかりしそうで怖いの」

 ん?

「ここは知らない人ばかりだし、私、ユルユルになってる。それを思い知った気がして……」

「俺達、手を繫いだだけだよな?他の事、してないぞ?」

 理沙が真っ赤になってもそもそと言った。

「食事で会った新婚の……女の子の方」

 イチャつきカップルの女の事だな。

「周囲、全然見てなくて、ずっと相手の顔見てるの、もう恋してますって顔で、恥かしいとか、全然考えてないの。……私も、きっと同じになる。手を繫いで歩いてるだけで、そうなりそう」

 俺は男の方が、欲望丸出しでベタベタし過ぎだろう!とか、思っていたのに、理沙は女の方を見て、自分に危機感を覚えたらしい。

 可愛い過ぎる悩みなんですが。俺、どうにかなりそう。

「慶人君……困るよね」

「全然」

 力強くここは否定する。

 理沙が、心配そうに俺を見ている。

「いいじゃないか。俺達お互い好きなんだから、顔くらい見たっておかしくない。もっと見ていいぞ」

「慶人君は、余裕だね。やっぱり経験値の差が出るな」

 理沙が苦笑した。

 余裕がなくなると、理沙が酷い目に遭うのは経験済みだから、必死なだけ。理沙がいくら許してくれると言っても、俺はもう余裕を失って、理性を飛ばす様な真似、したくない。

 経験値って、恋愛経験の事か?

 俺しか知らないとか、凄く萌えるんだが。

「奥さん、今からでも経験値なら積めますよ。俺と一緒にどうですか?そうしたら、ちょっとは、恥ずかしくなくなると思いますが」

 俺がおどけて言うと、ようやく理沙は笑顔になった。

「うん」

 俺の奥さんは可愛いなぁ……。本当は部屋に居たいが、ぐっと堪える。

 理沙は、部屋に籠るのは旅行じゃないと言った。だったら、旅行もちゃんとせねば。

「じゃあ、行こうか」

 俺達は、早速観光に出かけた。


 首里城公園なんて、面白く無いと思っていたのに、慶人君と一緒に行くだけで楽しかった。沖縄は、同じ日本の筈なのに、違う国に来たみたいだと本気で思った。

 それを言うと、慶人君はニコニコして、そうだなって言ってくれて、凄く嬉しかった。

 バスの時間をチェックして、近くのお店でのんびりとお昼を食べた後、波上宮と言う神社に行った。

 お参りをしてから、すぐ近くのビーチに出た。砂浜を慶人君と一緒に歩く。

 空と海と砂浜が、余りに綺麗で言葉を失う。

 黙って眺めている私に、慶人君が言った。

「明日はこの中が見られるぞ。期待していいよ」

「ラッセルの絵みたいなの?」

 ジグソーパズルで何枚か持っていた、クリスチャン・ラッセルの絵を思い出す。

 海とイルカが題材の絵が多いのだ。

「もっと明るい。昼間の浅い海だから。後、イルカは期待するなよ」

 他愛無い話をしながら、凄く綺麗な景色の中に入り込んでいる。現実味が一瞬薄れて、ぽつりと言った。

「天国って、こんな場所なのかなぁ」

「どうだろう」

 慶人君が遠くを見て言った。

「どんなに綺麗な場所でも、俺は行きたいとは思わない」

「どうして?」

 慶人君の視線は、私の方を向く。

「今が一番いいから」

 この人は私と一緒に居るのが嬉しいと、平気で口にする。だから……私はユルユルで、デレデレになってしまうのだが、少しも理解していない。

 今もちょっと抱き着いてしまいたい気分なのを、必死で押えている。

 外で過剰なスキンシップは、良くない。良くない。

 頭の中で唱えながら、一生懸命に自分の気持ちを引き締める。

 何で、言葉が巧く出ないんだろう。言いたい事は沢山あるのに、慶人君みたいに上手く言えない。

 スキンシップで伝えている所は人に見られたくない。だったら言わなくちゃいけないのに。

「慶人君」

「ん?」

「長生きして」

 出来るだけ長く一緒に。そう思う気持ちを伝えたかったのだが、何だか変な言葉になった。

「二つ年上なだけなんだが……老け顔で早く死にそうに見えるか?」

「そうじゃなくて……」

「分かってるよ」

 慶人君が笑う。揶揄われただけだったらしい。

「今日は十分観光したよな?」

 慶人君が言う。

「うん」

「だったら部屋に帰らないか?」

 まだ午後も早い時間だ。何処かもっと他の場所を回ってもいいと思うのだが。

「外じゃ、理沙に触れない」

 耳元で言われて、ゾクっとする。

「ごめんな。健全じゃなくて」

「私も……ちょっとくっつきたいかも」

 バカップルだ。でも……これが新婚旅行なのか。新婚なのか。

 私の言葉に、一瞬信じられないと言う顔をした後、慶人君は物凄く真剣に言った。

「戻るぞ。すぐに」

 タクシーが波上宮の前にたまたま止まっていたので、それに押し込まれる様に乗せられて、あっと言う間にホテルだった。

 引きずられるように部屋に戻ると、そこからは問答無用で、気づけば、とっぷり日が暮れていた。

 昨日の夜、私が距離を置いてしまったから、かなり限界だったのだと、慶人君に後から言われた。

 また精神的なダムを作って、決壊させる所だった。決壊すると、ダメージが大きい上に、慶人君が病んでいく。気を付けなくては。

 私は、そう言う所が欠落しているのだと、改めて思い知る。

 慶人君は、そのせいで、自分ばかりが好きなんだと思い込んでいる。

 そうじゃない。もう、そんな事は無い。けれど、どう言えば良いのか、私は分からない。

 だったら、私から何かしないと、分かってもらえない。きっと受け入れているだけでは、足りない。

 慶人君は、どうしたら分かってくれるんだろう。

 スキューバダイビングは、息を飲む様な綺麗な光景に目を奪われた。慶人君の言う事に間違いは無いのだと思った。

 けれど翌日、普段動かしていない筋肉を酷使した影響か、体中痛かった。

 それで部屋に居ると慶人君が気を遣うので、サーフィンを慶人君がする場所までついて行って、ぼーっと座って景色を眺めていた。

 以前慶人君が来た時にお世話になったと言うショップがあって、昨日のダイビングから帰った後、慶人君はサーフボードを借りに行ったのだ。

 私達は帰ったら、大量のみやげをばらまく作業をしなくてはならない。営業部、経理、実家……。とにかく帰りの方が、大荷物なのは明らかだ。だから、慶人君は、ボードを持参しなかったのだ。

 行く前に聞いたのだ。

「それでいいの?」

 慶人君は、にやっと笑った。

「サーフィンより、理沙と居たい」

 私はそこで恥ずかしくなって、何も言わなかった。

 そこで、嬉しい!私も。とか言えば良かったのに。なんて、今更思う。

 慶人君は家に置いてあるのよりも、短いサーフボードを借りて、それでチョロチョロと波の上を立ったまま進んで、落ちてを繰り返している。

 あ、また落ちた。

 たまにこっちに手を振るので、振り返す。凄く楽しそうだ。顔ははっきり見えないけれど、動きから、楽しいオーラが出ている。

 退屈じゃないか心配されたけれど、綺麗な海と慶人君を眺めているだけで、十分いい気分だ。

 海って凄いな。見ても、潜っても、乗っても人が楽しめる。塩辛い水が、寄せては返すだけの筈なのに。慶人君が教えてくれなければ、こんな風に思わなかっただろう。

 のんびりするのって、幸せだ。何か劇的な事が起こったら忘れられないのだと思っていたけれど、そうじゃない。

 慶人君が居て、綺麗な景色の中に一緒に居られる。その幸せが、この上なく大事だった。

 ただ、どうしたら慶人君にこの事を伝えられるのか。それだけが、悩みと言えば、悩みだ。伝えたら喜んでくれる。分かっているのに、上手く言えない。

 暫くして、慶人君が戻って来た。

「退屈してないか?」

「うん。慶人君が波にもまれて落っこちてる回数、数えて楽しんでた」

 回数は数えていたけれど、正しくは、そうやって何も考えずにぼんやりするのを楽しんでいた。

「ライディングは波次第だから仕方ないんだよ。ショートボードだし、レンタルだから、慣れるのは大変だったんだ」

 呪文だ。何を言ってるか分からない。

「もういいの?」

「風が出て来たし、やめる」

 全然分からない。風がある方が、いいんじゃないの?……私が興味の無い事を知って、慶人君はあまりサーフィンの専門的な話をしない。もっと聞いておくべきだったかも。

 今は長い専門的な説明は聞かない方がいい。慶人君はずぶ濡れだ。風が出て来ているのは確かで、九月ももう終わりだ。沖縄でもこのままでは寒い。

「分かった」

 何でやめるのか分かってないけど、やめるのは分かった。

「着替えて来る。ここに戻って来るから、近くの店で飯にしよう」

 サーフィンと言うのは、朝と夕方が良いそうで、私達は起床と共に、ここに来た。朝ごはんはまだ食べていない。

「待ってる」

 そう言って手を振ると、慶人君は着替えに行った。

 ぴったりとしたスウェットスーツを着ている背中を見て改めて思う。格好いい。

 男の人の体を見て、何かを思う気持ちなんて、ほんの数か月前までは持ち合わせていなかった。

 それが、すっかりこの有様だ。

 慶人君と居ると、どんどん自分が違う生き物になって行く。

 嫌じゃない。もっと怖いものだと思っていたのに、今までカチカチに力の入って居た肩から、力が抜けて行く感じだ。

 お陰で、ユルユルのデレデレになる訳だが。

 そんな事を考えながらぼーっとしていると、慶人君が戻って来た。私服でも格好いいし……。

「何か、ズルい」

 思わず呟くと、慶人君がすまなそうにした。

「ごめん。俺ばっかり楽しんじゃったな。この後は一緒に居るから」

「違う」

 そこじゃない。サーフィンの事じゃない。伝えておかないと、あんなに楽しそうにやっていたのに、サーフィンに行くのをやめてしまうかも知れない。言っておかなくては。

「何を着てても、やってても、格好良く見えて……それがズルいって言ったの」

 顔も真っ赤だし、声もちょっと震えていた気がする。

 慶人君の顔を見るのが怖いので、見なかったら、頭をなでられた。グリグリと。

「い、痛い!」

「本当は、ぎゅーってしたいんだぞ?でもここでやったら、理沙嫌だろう。だから我慢してるんだ」

「慶人君?」

 ボサボサの頭のまま、慶人君の顔を見ると、真っ赤になってそっぽを向いていた。

「これから、飯食って、琉球ガラスの工房に行くんだから、煽るな」

 煽る……。煽るって……。

 私はびっくりして言った。

「まだ、足りないの?」

 昨日の夜も一昨日も、かなりのものだった気がするのだが。満足していないのか?

「足りない」

 逸らしていた目がこちらを向く。何か、野生生物みたいで怖い。

「勘違いするなよ?理沙だからだ。誰でも良い訳じゃないからな」

 そう言われて、恥かしいのに、嬉しいと思う気持ちが、その下で膨らんでくる。

「部屋に、戻りたい?」

 慶人君は複雑な表情をして言った。

「凄く戻りたい。でも、理沙と外で飯食って、ガラス工房に行きたいのも本当」

 きっと、どっちを選んでも、悪い事じゃない筈だ。予定があって無い様な旅行。慶人君はそう言っていた。

「飯食いに行こう」

 慶人君は、私の手を取って言った。

「いいの?」

「いい」

 慶人君は私の腕を引きながら、振り向いて意味深に言った。

「夜まで待つ。俺達は夫婦だから、旅行先で時間を割かなくても、帰ってからも時間がある。だから、ここでしかやれない事を優先する」

 それは旅行から帰ってからも、毎晩って事?また一緒にお風呂入るの?そう言えば、ベッドをくっつけてダブルベッドにするって言ってたけど、本当にやるの?

 聞いたら肯定される。間違いなく。本能がそう告げる。だから口を閉ざす。

 慶人君は、全く恥ずかしくないのだ。ずっと前から、こうしたいと言う確かな願望を持って行動しているから、私は敵わない。

 私の羞恥心を全部、剥ぎ取りにかかっている慶人君に、防戦一方の私が勝てる訳が無いのだ。

 咲の言っていた、慶人君は重たい。という言葉の意味が、ようやく染みて来た気がする。

 それでもいい。

 私は慶人君の手を握り返した。

 私にとって、今みたいな幸せは、起こり得なかった事だから。

 慶人君がこちらに踏み込んでくれなかったら、こんな綺麗な場所で笑ってなどいられなかった。

 もう別の未来なんて、想像できない。もしもなんて考えたくもない。この胸に溢れて来る気持ちを、怖いとは思わない。

「恋の病も、慶人君とかかるなら、大丈夫みたい」

 ちょっと前の私なら、脳がわいていると思うような事を言って、慶人君の腕に腕を絡めた。ちょっと大胆だっただろうか。

 すると慶人君が笑いながら、ぐっと脇をしめた。私の手が抜けない様に。

「それは朗報だ。治そうとしても無駄だからな」

 今の私達は、ホテルで一緒になったカップルと全然変わらない気が……。

 でもいいか。空も青いし、海も綺麗だし。

 新婚なんだし。

 ……それから十年が経って、私達がペアで買った琉球ガラスのグラスは割れてしまった。

 二つとも仲良く破壊された。

 息子二人によって。

「俺が青いのでジュース飲むって言ったのに!」

「俺も青が良かったんだ。お兄ちゃんが赤いのを俺に押し付けるから!」

 ちゃんと隠しておいたのに、家を買って引っ越しをした時の荷物から、目ざとく見つけて使おうとしたのだ。

 慶人君が雷を落とすのは目に見えている。間違いない。しかし、息子達は、全くその未来を予想していない。

 帰宅する前に悟らせておくべきだろうか。

「お母さんとお父さんが、新婚旅行で買った大事なコップなんだけど」

「また買えばいいよ」

「うん。今度は二つとも青にして」

 この無神経さは、昔の自分を思い出す。

 私は慶人君と深くかかわらなければ、本当に子供のままだったのだと、改めて思う。

「それ、お父さんに言ったらどうなると思う?」

 お母さんは怒っても怖くないが、お父さんは怒ると怖い。そのお父さんの大事な物を壊してしまった。

 上の息子は、小学三年生。さすがに分かったらしい。顔を強張らせた。小学一年生の下の息子は、きょとんとしている。

 いや、子供だからと言うよりも、私の鈍いのが遺伝している気がする。ガラスのコップを割ったら、思い出があろうとなかろうと、まずは破壊した事に恐怖すべきなのに、全くそんな所が無い。

 慶人君に見た目は似ているのに、中身は私に似て鈍いのだ。

 子供達はまだいい。今日ガッツリ叱られて、それで終わりだ。……その後の慶人君の扱いに、私は頭を悩ませる。

 ちゃんと、私はペンダントトップも買ってもらっている。あれはさすがに息子達も破壊すまい。……けれど、きっと沖縄に旅行に行こうとか言い出す。家を買ったばかりで、ローンだって一杯あるのに。わざわざコップを買いに行きたいとか、言い出すのだ。

 コップが割れても、私が全く気にしてない事を見抜かれてしまう。……理沙は俺の事、好きじゃなくなったのか?とか言い出すに決まっている。

 物が壊れても、思い出は消えない。その事を教えてくれたのは慶人君自身なのに。だから、私は平気なのに。

 どう伝えるべきか。この気持ちを。

 未だに、伝えなくては心配してしまう夫。ちょっと重たいかも知れないけれど、私は大好きだ。今も変わらず。そしてこれからも。

「片付けるから離れて。危ないよ」

 息子達は、ようやく惨状に気付く。

 次にペアで買うなら、壊れないプラスチックのコップがいいかも……。そうすれば、慶人君が心配する事も無くなるかも知れない。

 これを言って、物凄くがっかりした顔で、

「理沙は理沙だな……」

 なんて言われるのは、数時間後の事だ。

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