序 囚われの身
まだ生まれて幾日しか経っていない赤子の泣き声が聞こえてくる。庭で術の稽古をしていた陽凪の耳に届いた。
未だに陽凪には実感が湧かない。
妹というものを。
山の奥の祠に篭りっきりで滅多に会うことのない母から急に呼び出され、お前の妹だと赤子を見せられたときはどう言っていいかわからなかった。
稽古をつけていた老女は今日はこのあたりにしようと終わりを告げる。陽凪は礼をして海の方へ向かった。
海には陽凪にとって大事な友人がいるから会いに行こうと思ったのだ。
まだ幼さの残る顔であるが陽凪は既に三桁の年を生きている。だがまだ母に比べ未熟な部分が目立ち、大人になりきれていない面があった。
館の中から響く赤子の声を聞ききながら老女はため息をついた。
「白尼僧様にも困ったものだ」
白尼僧というのは陽凪の母で一族の長姫の呼び名である。雪のように白い肌に美しい顔、千年以上生きた鬼として知識が豊富故に鬼や人からそのように呼ばれ敬愛されていた。
そんな彼女は一族から望む椿鬼の男ではなく外からやってきた余所者と契った。それにより生まれたのが陽凪であった。
陽凪が我が跡取りである。
長老衆を祠に呼びつけ白尼僧はそう宣言した。
他所者の血を持つ娘を次代の長姫にするなどとと異を唱えるものもいた。
だがそう言ったものもすぐに白尼僧の宣言に頷くことになった。
一族と同盟を結んでいる御暈一族が陽凪の誕生を祝ったのだ。そして次代の長姫として挨拶をした。
椿鬼一族としては強い力を持つ御暈一族の庇護を受けておきたい。
結界術に優れているとはいえもし結界を通り抜け強大な敵が現れたときは為す術がない。
そして何より長姫である白尼僧の寿命が尽きるときが迫ってきているのだ。
それまでに純潔の椿鬼の姫をと望むが白尼僧は余所者の鬼以外と契る気はない。何度か椿鬼の男に夜這いに行かせたが白尼僧は今までない程に怒り村に張られている結界を解除しようとし長老たちが宥めることとなった。それ以来無理に純潔の子をという者はいない。
それ故皆諦めるように陽凪を次代の長姫として養育することとなった。
しかし、白尼僧は何を思ったか二人目の子を生んだ。長老衆は誰の子かと聞くが白尼僧は応えようとはしなかった。
長老衆は困惑した。そして白尼僧の気まぐれに怒りすら覚えた。
老女は館の中に入り、乳飲み子をあやす乳母を見ては大きくため息をついた。
これが大きな争いの種にならなければいいが。
勿論それを予想して白尼僧は二人目の子を紹介したときも改めて己の跡取りは陽凪であると宣言した。
一族の者たちはこれに頷いたが果たして内面は何を考えているか。
純粋な椿鬼の姫こそ長姫に相応しいと二人目の姫を担ごうと考える者がいるかもしれない。
渦中の陽凪といえばそれを理解しているのかいないのかどこかぼんやりとするところがあった。それも老女にとって悩みのひとつであった。
頼みの綱はやはり御暈一族の棟梁であろう。彼は陽凪を次代の長姫として扱い、白尼僧から直接彼女のことを頼むと言われたそうである。
(せめて二人が夫婦になれば………)
外の鬼であっても御暈一族の棟梁が相手ならば一族は異を唱えないだろう。むしろ椿鬼一族が安泰だと喜ぶ者がでる。
既にその話を進める者もいるとか。
だが老女は知っていた。二人はそんな関係にはならないと。
よくて一時期の恋人にと考えるがやはりそれも無理だと思いため息をついた。
◇ ◇ ◇
陽凪はむくりと起きあがり、今自分がいる場所がどこか考えた。頭上には天井、下には木の床……おそらく建物内だというのはわかるがどうも不安定な場所である。床が大きく揺れ、それとともに外から水の音がする。
(船の中?)
ようやく己がいる場所と認識し、何故船に乗ったかを考えた。
そして自分が土蜘蛛に破れ捕えられたことを思い出す。陽凪は体のあちこちが痛み、特に腹の右上あたりが痛むのを感じしかめた表情をした。
(姫は無事か)
陽凪は自分の傍らに転がる女ものの衣が動くのを見た。
「姫」
あの時、逃がしたはずの千紘がそこに転がっていた。彼女は気分悪そうに項垂れ横になっている。
彼女の傍らではかいがいしくお世話をする小鬼の姿がある。
「あ、陽凪姫。もう大丈夫なのですか?」
小鬼は目覚めた陽凪姫に声をかける。
「ああ。それよりも姫は如何した? 土蜘蛛に捕えられたのか? それに随分と気分が悪そうだ」
小鬼はしゅんと申し訳なさげに項垂れる。
「申し訳ありません。陽凪姫がせっかく逃がしてくれたのに、椋木という鬼に捕まってしまいました」
事のあらましを話す。
あれから千紘は運よく須洛と合流することができたのだが、千紘は須洛がすぐに陽凪を救いに行かせるように説得した。
そして残された千紘は須洛と一緒にいたらしい水面と口論をおこし、その間に傍にやってきた椋木によって捕えられた。水面ははじめからそのつもりだったのか、椋木に囚われる千紘を助けようともしなかったという。
「何と言う。あの愚か者め」
陽凪は妹の愚行を責める。
どういう経緯があったか知らないが、土蜘蛛が沫村に侵入したのは間違いなく彼女が招き入れたからに違いない。そしてこともあろうに須洛の妻である千紘を土蜘蛛に差し出してしまった。
「それにしても姫はずいぶんと気分が悪そうだ。土蜘蛛に何かされたのか?」
「いえ、……」
「船酔いです」
がたりと戸が開きそれと同時に外から光が差し込んでくる。波の音が一層大きく響いた。
「お主!」
中に入ってくる椋木に陽凪は睨みかける。
「おや、思ったよりも元気そうですね」
椋木はそう言いながら、陽凪と千紘の方に近づく。
「姫に何をする!」
陽凪はばっと千紘を抱き上げ、椋木を牽制させる。
「何とは酔い止めの薬を飲ませようと思ったんですよ」
「土蜘蛛の薬などいらぬ! 去れ!!」
「あなたが眠っている間大変でしたよ。何度も吐いたりして、今は少し落ち着いてきていますがそれでも気分が悪いようなので薬を作ったんです」
腕の中の千紘は気持ち悪そうに項垂れている。確かに椋木の言う通り船酔いが酷い様子だ。だが、今の陽凪には酔い止めの薬は持ち合わせていない。
「薬は置いて行け。私が毒見してから飲ませよう」
「ええ。お願いします」
そう言いながら椋木は薬の器を置き、外へ出た。
陽凪は悔しげに薬の器を睨み、手に取る。匂いを嗅ぎ、ひとくち飲みながら変なところがないかを確認する。
「姫、酔い止めだ。一応、何も変なのは混じっていない」
土蜘蛛の薬に頼るなど陽凪にとっては口惜しいが目の前に苦しむ千紘を放っておけない。
千紘はゆっくりと酔い止めの薬を飲む。
「にがい……」
子供らしい言葉に陽凪は苦笑いした。
千紘はじっと陽凪を見つめた。
「怪我は大丈夫なの?」
そう言われ陽凪は微笑んだ。
「ああ、治療をしてくれたのは主であろう。ありがとう」
「いえ。勝手に陽凪姫の持ちモノの薬を使ってしまいました」
小鬼に教えられる通りに陽凪の怪我を治療したが、うまくできたか自信がない。
「いや、十分だ」
陽凪は脇腹にまかれた包帯に触れる。巻き方は不器用であるがそれでも言われたままを素直に一生懸命にしてくれたものなのだ。
それが何とも愛しく感じ陽凪は千紘の額を撫でる。
少し落ち着いたところで情報を整理する。
土蜘蛛と遭遇し、千紘を逃がす為に応戦した陽凪はすぐに土蜘蛛と椋木によって倒されてしまった。その後は須洛と合流できたものの、千紘は須洛に陽凪を救うように出向かせる。そしてその時一緒にいた水面は土蜘蛛と裏で繋がっていて、千紘をあっさりと土蜘蛛に引き渡してしまった。
それから沫村の外へ出てしばらく移動した先の湊町にて船に乗せられ今にいたる。
果たしてどこへ向うのか千紘はわからないと言うが、おそらくは九州に向おうとしているのだろう。
御暈の棟梁の妻である千紘と椿鬼の長姫である陽凪は伊都馬一族にとって利用価値がある。大江山を自らの領域にし、椿鬼を伊都馬の傘下に入れる為の人質にできる。ふたつの一族が二人を見捨てなければの話だが。
須洛なら千紘を見捨てたりはしないだろう。
だが今の状況を果たして須洛は理解してくれているだろうか。
伊都馬の土蜘蛛と繋がっていた水面が何かしでかしそうでそれが陽凪には不安でたまらない。
(全くあの阿呆は……)
陽凪は思い出したように千紘に頭を下げた。千紘は慌てて陽凪にやめさせるように言う。
「いや、姫にはまことに申し訳ないことだ。我が愚妹が土蜘蛛とつるみ、御暈一族への裏切り行為をしてしまい、姫に無礼を働いたことは許しがたきこと。
何が何でも沫村に戻り、水面を引きずり出し全てを明るみにしなければならない。
それは須洛の怒りを買い一族が滅ぼされるかもしれない。
だが、陽凪はこう考えた。
それは長姫の務めを果たさず妹の愚行にも気付けずにいた自分のいたらなさ故である。
いざとなれば自分と妹の命を捧げてでも一族の若き鬼たちだけでも助かるようにしなければならない。
「いいえ」
すまなく思う陽凪に千紘は首を横に振る。
「陽凪姫のせいではありません。私を逃がす為にこのような怪我を負わせてしまい申し訳なく思います」
そして陽凪の努力を無駄にするように土蜘蛛に捕まってしまったことを深く詫びた。
「とにかく沫村へ、須洛の元へ戻ることを考えましょう」
千紘は陽凪の両手をとりそう言う。触れた千紘の手はわずかに震えていたのを陽凪は感じ取る。
恐ろしい土蜘蛛に捕らえられこれからどうなるか不安で仕方ないのだろう。なのに健気に前向きに言うのだ。
陽凪は強く千紘の手を握り返し勇気づけるように言った。
「そうだな。逃げる隙はあるはずだ。安心せよ。私が姫を必ず須洛の元へ連れ戻す」
千紘はにこりと笑った。顔色はだいぶよくなったようである。
気づけば先ほどよりも舟の揺れが小さくなっていた。