5.痛み
山の中彷徨いながら千紘は息をきらす。
「姫さま、このまままっすぐです」
肩に乗った小鬼は後ろから土蜘蛛が迫っていないか心配で急かそうとする。
走っている途中千紘は重ね着していたものを木々の中へ放り出した。夏用の衣いえどこんなに走れば熱いし重さがひしひしと伝わってくる。
多少ためらいつつも土蜘蛛に追いつかれない為にも身を軽くした方がいいと判断した。今の彼女は小袖と張袴のみの姿である。
(急いで須洛と合流して陽凪姫を助けてもらわなければ)
土蜘蛛の注意をひきつける為に残った陽凪のことが心配でならない。だが、自分には何もできることができない。
だから須洛に助けを求めるしかない。
(でも、苦しい……)
ずいぶんと走り汗だくになってしまった。荒れた山道を走り息が来るしい。
少しずつ足が遅れ、ついに立ち止まってしまった。
地面を見つめ、ぼたぼたと汗がしたたりおちるのを見つめる。
(止まってはだめ。こうして止まっている間に陽凪の身にどのような危険が及んでいるか)
そう思いながら少しずつ足を前に出す。
「千紘!」
突然の思いもしない声に千紘ははっと顔をあげた。
須洛の声である。
(どうして、村の外に見回りに行っていたはずなのに)
何故この沫山にいるのだろうか。
でも、よかった。思ったよりも早く彼に出会えた。一刻も早く陽凪を助けてもらおう。
そう思い千紘は須洛の方へと走った。
ぱん。
須洛のすぐ傍に駈けよった瞬間、千紘の頬に痛みが走る。大きな音と共に。
はじめての音と痛みに千紘は目を見開いた。
見れば須洛の右手が千紘の左頬をひっぱたいたのである。
(どうして?)
須洛の方を見ると彼はとても怒っているようであった。
「何故勝手に外を出歩いた!」
突然怒鳴られて千紘はびくりと震えた。今まで須洛に怒鳴られたことがなかったのでどうしていいかわからない。
ただ傍らに控える小鬼をぎゅっと抱きしめる。
「共もつけずに……今この辺りで土蜘蛛が潜んでいるという話を聞いただろう」
彼は共もつけずに一人で出歩いたことに怒っているようである。
これに千紘は困惑した。
共は一応つけて外に出たのに。小鬼は確かに共としては頼りないかもしれないが、一応水面に紹介された椋木を共にした。
その椋木が実は土蜘蛛の鬼だと判明してここまで逃げて来たのだが。
「水面も心配していたぞ。気付いたら勝手に邸からいなくなっていたと」
その言葉を聞き千紘は驚いた。
何故、水面がそのようなことを言ったのだろう。
だって、椋木を共につけてくれたのに。
「いくら遠出ではしゃいでいても、周りに心配をかけるな!」
厳しい声に千紘はじわりとこみあげてくる熱いものを感じた。何か言おうにも喉が震えてうまく声が出ない。
自分はきちんと共をつけて外に出た。
そう言おうと思った。同時に土蜘蛛のことや、陽凪の危険を報せようと思った。
なのに声が出ない。
目から大粒の涙が零れて行った。
「とーりょ、ひどいです!」
千紘の腕の中に収まっていた小鬼はずいっと須洛を非難した。
「姫は何も悪いことをしていません。姫はきちんととーりょの言いつけを守ってます! 姫のことを何も聞かずひっぱたいて怒ってひどいです!!」
「それは、姫を心配してのことで」
「姫の話を聞かずにひどい!」
「待っ、て……」
千紘は責め続ける小鬼を抑える。そして袖で涙を拭い何とか落ち着かせようとした。
「ひ、なぎ姫の……もとへ行っ、て!」
「……陽凪? 陽凪と言ったのか?」
須洛の問いに千紘はこくりと頷く。
「つち、蜘蛛が……ほこらに出て、わたしを逃がす為に戦って。早く助けに行って!」
千紘は必死に須洛の着物を掴み、言わなければならないことを伝える。
左頬が痛む。怒鳴られた声で耳がぴりぴりとする。胸が苦しい。
だが、それよりも今大事なのは陽凪を救うことである。
そしてそれができるのは目の前の須洛なのだ。
千紘は必死に須洛に陽凪を救うように訴えた。
涙ながらに震える少女の求めに須洛はようやく理解したように確認する。
「白尼僧の椿の祠で陽凪が土蜘蛛と戦っている、のだな」
千紘はこくこくと頷く。
何故、結界の中に土蜘蛛がいるのか。何故、旅に出た陽凪がいるのか。
疑問はあるが、千紘の必死の求めに須洛は急を要すると判断した。
「わかった。今から行こう。だが、千紘は」
「私が傍におります」
鈴のような少女の声がする。
壺装束姿の水面である。彼女はにこりとほほ笑んでみせた。
「いざとなれば私の結界術がありますので、須洛様は急ぎ姉の元へ行ってください」
「ああ、わかった」
須洛は頷き、すぐに千紘が走って来た方へ走ってしまった。
残された千紘に後ろからくすくすと笑いながら水面は近づいてくる。
「大丈夫ですか? 心配しました」
千紘はぎゅっと小鬼を抱きしめ、後ろに下がった。まだ涙が止まらないが、目の前の少女に気を許すわけにはいかない。
「どういうことですか?」
ようやく声が落ち着いてきた千紘は厳しい声で水面を非難するように問う。それに水面は首を傾げた。
「はて? 何でしょう?」
「とぼけないで。どうして私が一人邸を出たと嘘をついたの!」
「何を申されます。姫は小鬼一匹つれ一人でいなくなってしまったではありませんか。邸にずっと控えていた藤依殿がたいそう心配しておりました」
邸で言っていたことと全く違う。
彼女は邸には御暈の鬼は全員出払って共にできるものはいないと言い、代わりに椋木をつけてくれたのではないか。
「どうして、土蜘蛛の椋木を私につけたの?」
「椋木? 椋木とは誰のことでしょう。それに土蜘蛛? くすくす。土蜘蛛なんて怖ろしいものが邸内にいるわけないでしょう」
相変わらずとぼけたような返事しかしない。
千紘は額に汗を浮かびながらじっと水面を見つめる。
水面は笑顔で千紘に接してくる。だが、目は全く笑っていない。こちらを見下すかのように冷たい目である。
「水面姫は、私がお嫌い?」
千紘は無意識に別の質問をしてみた。それに水面はすっと笑顔を消した。
「はい。嫌いです」
水面は隠すことなく述べる。
「何故、あなたのような地味で何のとりえもない人の娘が須洛様の妻になったか。全く信じられません」
そう言い千紘の頬を掴む。
「特別美人でもない。体つきも朱音や姉と比べる程もない貧相な肉付き」
じろじろと薄着の千紘の体を見て馬鹿にするように言う。
千紘はどんと水面を押した。突然の力に水面は体を崩し、地に尻をついた。
「いたい。ひどいです」
「ひどい? 失礼なことを言っておいて!」
千紘はじっと水面を見つめ、怒った。
「いいえ。それよりも何故あなたはあんなことをしたの? 土蜘蛛をこの村に招き入れたのはあなたなのでしょう!」
「あら、私が土蜘蛛を? そんな怖ろしいことをしたと申されるの?」
相変わらず馬鹿にするように笑う水面に千紘は苛立った。
「そのせいであなたの姉上が大変な目に遭っているのよ!」
「まぁ、姉を盾に逃げた者に言われる筋合いはありません」
水面はつんとそっぽ向く。その言葉に千紘はぐっと唇を噛む。
確かに自分は陽凪を見捨てて逃げてきた。あのままいても彼女の足を引っ張るだけだと思ったからだ。
「それに別に良いじゃないですか。姉上はほとんど村にはいない放浪女。いなくても一族にとって困ることはありません」
「なっ」
まるで姉がどうなろうと構わないという冷たい言葉に千紘は絶句した。まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「あなたのたった一人の姉でしょう?」
「ええ。でも、いいのです。私には邪魔でしかありません」
この村で本来は椿鬼の頭であるはずの陽凪はいつも村にはいない。時折、結界の状態を確認しに戻ってくる程度である。ほとんど村にいて頭代理として動いているのは水面である。
なのに、一族も村の誰もが自分のことはあくまで代理としてしか見ようとしない。陽凪が戻ってくればみな陽凪を自分より持ちあげる。
それが水面には許せなかった。
いつもいない癖に、頭としての役目を放り出している癖に。
そして何よりも許せないことがある。
「とにかく、土蜘蛛を村に招き入れることなどやめてちょうだい」
「ええ、やめるわ。姉とあなたがいなくなったら」
ひやりとした冷たい言葉とともに千紘は胸に強い圧迫感を覚えた。下を見ると自分は蜘蛛の糸にがんじがらめに縛りつけられているではないか。
「な、なにっ」
動揺して暴れようとしても拘束された体は動くことが敵わない。
「ほら、とっとと連れて行ってしまって」
水面は千紘の後ろにそう命じた。その時、千紘の肩に男の手が乗る。その主を見ると椋木であった。
「ええ。水面姫の協力に感謝します」
「どうして……っ。放して!」
「おや、抵抗しても構いませんが、そうすると陽凪姫の身は保証しませんよ」
そう言われ千紘はぞくっとした。陽凪は今どうなっているのだろうか。
心配する千紘に椋木は上の方を見つめた。
上には大きな蜘蛛の巣が張られその中に陽凪が蝶のように捕まっているではないか。陽凪の体はぼろぼろでもう抵抗する力がないようであった。
そこに巨大な土蜘蛛が陽凪の傍により、鋭い牙を陽凪の首筋にあてる。
「や、やめて!」
千紘は叫んだ。そして何もしようとしない水面に言う。
「あなたの姉でしょう! 助けてあげないの!!」
「さっきも言った通りあんな女いなくて良いわ」
全く動じない水面の言葉に千紘は凍りついた。どうして水面は姉をそのように言うのだろうか。
「あなただっていなくなってくれた方がいいのじゃなくて?」
「どういうこと?」
千紘はそんなこと思ったりなどしていない。
「あら、知らないの? あの女はね、須洛様のかつての恋人でしたのよ」
その瞬間千紘は強い衝撃を覚えた。
「本当に知らないのね。なら、ついでに教えてあげます。須洛様は朱音とも恋人だったのですよ」
また知らなかったことに千紘は動揺を隠せない。
「朱音さんと陽凪姫が須洛と……」
「そう。まぁ、二人とも美人だしあなたに比べればお似合いだと思うけど」
その言葉に千紘の胸はさらに張り裂けそうな程の痛みを覚える。
確かに朱音も陽凪もとても美しい。そして神秘的な魅力を持つ須洛といても本当に絵になる女性たちだ。自分なんかよりもずっとお似合いである。
「そうよ。あなたなんか、須洛様に全く相応しくない」
「水面姫、その辺で」
椋木は息をまいて千紘を追いつめる水面を制止した。
「それで、三の姫はどうします? このまま大人しく私の言う通りにすれば陽凪姫の安全は保証します。ですが、陽凪姫をどうしても構わないというならばどうぞ好きなだけ抵抗してください」
首筋に触れ撫でる男の手に千紘はぞくっとした。そして上の陽凪の様子を見つめる。相変わらず土蜘蛛の鋭い牙が今でも陽凪の首に襲いかからんとしている。
陽凪が須洛と恋人だったということは驚いた。
だが、だからといって目の前で彼女がいなくなって良いとは思わない。
「わかりました。大人しくあなたの指示に従います。ですから、陽凪姫にひどいことをしないで」
そういうと土蜘蛛は牙を引っ込めた。
◇ ◇ ◇
赤い椿の花が美しく咲く祠に辿りついた須洛はあたりの様子を伺う。ところどころ荒れていてここで何か起こったのだというのがわかる。
そして地には錫杖が落ちており、それを確認するとすぐに陽凪のものだとわかった。
千紘の言う通りここに陽凪がいたのだろう。そして、土蜘蛛が現れて一戦交えたということか。
地に落ちた赤い液に触れるとそれは血だと実感する。誰のかと想像するに難くない。
『早く助けに行って!』
左頬を叩かれてその痛みに今にも泣きそうな少女の叫びを思い出す。
須洛はそれに難しい表情を浮かべ溜息をついた。
右手を確認するとまだ熱さが残る。いくら心配していたからといって出会い頭に引っぱたくなどするのではなかった。
一応人の娘だから加減はしたがそれでも千紘にとって痛かったであろう。痛みを堪え、彼女は須洛に陽凪を救うようにお願いをした。
その期待に応えるべく祠へやってきたのだが、既にここには何もない。
今からどうするかを考える。
まずは千紘の元へ戻って、邸に連れ戻そう。それから自分の部下の鬼たちをかき集め、土蜘蛛と陽凪の捜索に出る。椿鬼たちの協力も得る必要がありそうだ。
そういうことを考え立ち上がると、こちらへ急いで近づいてくる者に気付く。
「須洛様!」
水面が慌ててこちらの方へ走って来た。
「水面、何故ここに。千紘はどうした?」
「そ、それが困ったことに。また姫がいなくなってしまったのです。私は止めたのに彼女はそれを振り払い。突然押されたもので尻もちをついてしまい、その間にいなくなってしまいました」
そう言うと確かに水面の衣は先ほどより土と泥で汚れている。
「申し訳ありません。私がもっとしっかりしてお止めすれば」
そう水面はぽろぽろと涙を流した。
須洛はとにかく水面を落ち着かせ、一旦邸に戻るように言う。
「あの、姉は……」
そう心配そうに瞳を潤ませる水面の頭を須洛は撫でた。
「大丈夫だ。何とかしよう」
その後、沫山へ千紘を捜しに行った須洛であったが、千紘の姿を見かけることがなかった。見つけることができたのは千紘が山に放りだした袿のみである。




