4.沫の山
沫村には多くの椿が栽培されている。椿鬼に対する配慮の為だと言われているが、これにより収入を得ている。
材木は工芸品などに使われ、沫村の市場にはそれを土産用に売っているのをみかける。時に都に売りにいくこともあるとか。
椿油は整髪料としても利用できるため朱音もよくこれを愛用しているという。
「いろいろ使い道があるのね」
千紘は思いもしない美しい花の利用法を聞いてしみじみと感じた。
「他にも椿には止血効果があります」
小鬼は前回の海での失態を挽回すべく千紘にあれこれと教えていた。
「今は白い椿が多いのね」
「夏に咲く椿ですし。よく見る赤い椿は春に咲きます」
「そう、残念」
小鬼はまだ何か教えることがあるのか不敵に笑った。
「実を言いますと、沫山には夏でも美しい赤い椿の花が咲いています。その花は一年間ずっと散ることがないのです」
「本当に?」
「現に見ました」
小鬼はのけぞらせて言う。
「見てみたいわ。行ってみましょう」
千紘は小鬼を持ちあげて部屋を出る。
「姫さま、お出かけになるのなら伴の者を」
「そうね」
変に心配をかけてはいけない。手の空いてそうな鬼に声をかけて伴をしてもらおう。
「これは姫様」
鈴のように愛らしい少女の声を聞き千紘は少し作り笑いをした。廊下で水面姫に遭遇したのだ。手には琵琶がある。琵琶も奏でられるのだろうか。
「如何なされました?」
「いえ、沫山に一年中枯れることのない椿があるとお聞きし見てみたいと思いまして」
「まぁ、是非見て下さい。あれはおばあさまの加護を得た椿なのです」
「え、とその為に伴の者を呼ぼうと」
「そうでしたの。須洛様は今は村周辺を見て回っていて、……」
須洛は本来の目的であるこの村周辺に土蜘蛛の手が回っていないかを自らの目で確認しにいったのだ。だが、千紘の為に外出の伴に藤依を置いて言っている。そう今朝言っていたのである。
「あら、今は須洛様配下の鬼はいませんよ」
「え?」
藤依も須洛と伴に出たのであろうか。では、でかけるのはやめた方がいいのかもしれない。
「そうだわ。私の部下の者をつけましょう」
「いえ、そういうわけには。須洛様に」
「遠慮しないでください。確かに御暈の鬼に比べると頼りないですが、いざという時は盾になってくれますよ」
水面姫は声を出して呼ぶ。
「椋木、いらっしゃい」
そういうと傍に直垂姿の男が現れた。その男を見て千紘はあっと声を出した。
浅黒い肌、髪を後ろにまとめ、須洛と同じくらい体躯の良い男。
昨日千紘を救った男である。
「お呼びでしょうか。水面姫」
「こちら、三の姫様が沫山の椿を見たいとのこと。お供をしなさい」
「はい」
男は快く引き受けた。
水面は千紘を部屋に連れて、出かける準備をさせる。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、折角いらしてくださったのよ。姫には楽しんでいただきたいわ」
水面はにこりとほほ笑んだ。本当に美しい姫である。千紘はそう思いながら、自分の衣装を壺装束にしていく。
◇ ◇ ◇
「歩きますが、大丈夫ですか?」
「ええ」
山道の中椋木が千紘に声をかける。
「あの、椋木さん」
「はい」
声をもう一度聞き、やはり昨日千紘が海に攫われた時助けてくれた男が椋木だと考えた。
「昨日は私を救ってくださってありがとうございます」
「いいえ、……無事でよかった」
椋木はにこりと笑った。改めて見ると結構端正な顔立ちである。千紘は少し顔を赤くして動揺してしまう。
(な、何だろう。何だか二人で山を歩くのは悪い気がしてきた)
何だか逢い引きしているような気がして須洛に申し訳ない。
本当は千紘としては須洛と一緒に出かけたいと思っていたのだ。なのに、いつも彼は仕事や大事な話などでなかなか時間が取れない。
昨日の海もはじめて行くのに彼が一緒でないことに少し落胆した。
だが、わがままはよくないと思い須洛抜きで海へ行ったのだ。
同時に水面姫があまりに美しくて少し嫉妬もしてしまい小鬼や藤依に愚痴ってしまったのだが。
少し崩れかけた道を通る際椋木は千紘に手を差し出す。千紘はそれに頷き、支えて登らせてもらった。
その時、馨る匂いに千紘は首を傾げた。
「素敵な香……」
「ええ、水面姫に言われて勉強中なんですよ。まだまだ未熟でお恥ずかしいですが」
一応仕事として京の人を相手するときもあるようで、椋木も歌や香を勉強しているという。彼としては野を馬でかけたり、海で泳ぎ魚を捕った方が好きだという。
「ごらんください」
椋木は千紘に道中見える景色を示した。
「美しい山ですね」
小さな山であるが、ところどころで見られる花や木々や小さな川が綺麗である。
木々の影の為にずいぶんと涼しく感じる。
時折木々が風と共に奏でる音が耳に心地いい。
「気にいっていただけて良かったです。大江山に比べると小さい無名の山ですが、それでもここから見える村の景色はなかなか良いものですよ」
椋木が示した先は村と海が見える。ところどころで栽培されている夏椿の白い花がとても涼やかに村を彩っていた。
「素敵ね」
千紘はほうっと息をつく。椋木が言うにはこの山は大江山に比べると低いのだが、それでもここから見える景色はとても素晴らしいものである。
この景色が見れただけで千紘はとても満足した。
はじめての海、はじめての温泉、……はじめてづくしの旅。
(でも……)
千紘は少し寂しいと感じた。はじめての場にいつも須洛がいないのだから。
「お疲れでしょうか。少し休みますか?」
「い、いえ……大丈夫です」
顔に出ていたのかと千紘はすぐに笑顔に戻す。
「もうすぐ例の椿がありますよ」
椋木はそう言いながら山の奥へと誘おうとした。だが、その時邪魔が入る。
木々から突然白い影が現れてきた。
その瞬間、大きな音が響き、椋木は身を崩した。影が手にと持つ錫杖が見事彼の頭にぶつかったのだ。
「椋木さん!」
千紘は身を崩した彼を心配して駈けよろうとする。だが、その前に白い影がたちはだかって行く路を阻んだ。
「お前、何者だ!」
女の声である。千紘は前の白い影をじっと見てそれが尼僧であるのに気づいた。白い影に見えたのは彼女が白い頭巾をかぶっているからだ。
若い。
千紘は尼僧の若さに驚いた。尼僧というとおばあちゃんのイメージが強すぎたからだ。
目の前の女性は二十代前半程に見える。
そして何よりも美しいと感じた。
白い肌に、鼻梁、小さな赤い唇がほどよく整っている。頭巾から覗く黒い髪は部分的だがとても艶がよく長かったら見事なものになるのではないか。釣り目の瞳が交戦的だが、こういった美人が好きな男性は多いと思う。
(こんな綺麗な方がどうして私たちを攻撃してきたの?)
椋木は腰に佩いていた刀を抜き尼僧に駈けよる。尼僧はそれを瞬時に錫杖で受け取った。
「ほう、なかなか良い太刀筋だ。若いのに結構なことだ」
尼僧は不敵に笑う。
そしてふんばっていた足を上げ、椋木の腰にめがけ一発蹴った。
「っぐ」
見た目によらず尼僧の力は強いらしい。椋木は下がり、蹴られた腰に手をあてた。
「椋木さん!」
「おっと、娘よ。へたに動くな」
尼僧は錫杖で千紘を牽制した。
「姫!」
椋木の叫びに尼僧は閃いたように千紘の手を握った。そして強く引っ張る。
「成程、どうやら大事な姫のようだ。何故、この山に無力な姫を連れて来たかは知らんが、都合が良い。人質としていただこう」
「え」
尼僧の言葉に千紘は口を開けて呆気にとられた。何か言おうとするがその前に尼僧に抱きあげられた。
(何、この人……私を軽々と持ち上げて、すごい力)
尼僧の怪力に内心感心の声をあげてしまう。
「姫を放せ!」
「ふふん、ではこの地に来た理由を明かし、直ちにこの地を去れ。そうすれば還してやろう」
椋木の要請に尼僧は逆に要求をしてきた。さすがに椋木は険悪な表情になり、尼僧に切りかかる。その瞬間、尼僧は地を蹴り高く飛んだ。太い木の枝にかかったと思えばまた強く蹴り飛ぶ。そして彼女は山の奥へと消えてしまった。
◇ ◇ ◇
「ちょ、放してくださいっ!」
千紘は尼僧に声をかけるが尼僧は全く聞こうとしない。
(それにしても)
人一人をこのように軽々しく持ち上げ、木の枝を飛びながら移動する。
この尼僧は一体何者だろうか。
(人、じゃない)
おそらく鬼と呼ばれる者だ。そして椿鬼の椋木に攻撃をしかけ、客人である千紘を誘拐した。
つまり椿鬼にとって敵対する鬼ということだ。
最近の情勢を藤依から聞いた千紘はふと例の一族を思い出す。
九州の土蜘蛛。伊都馬一族。
おそらくその一族、その順じた者なのだろう。
攫われた自分はどうなるのだろうか。
(ああ、彼女の行く先にあの土蜘蛛がいませんように)
無駄だと思っても千紘はそう願わずにはいられなかった。
だが、辿りついた先は小さな祠である。その傍らに椿の木が植えられていた。
目的地に着いたのか尼僧は千紘を放す。
千紘は慌てて逃げ出そうとするが、すぐに手首を掴まれた。
「おっと。姫、逃げていいって言っていない。主にはきちんと話してもらわねばならない」
一体何を話せというのだろうか。
千紘は鬼とは無縁の生まれの者である。そして、鬼の須洛に嫁いでまだ三ヶ月程しか経っていない。外の鬼が欲しがっている情報を自分は持っていないのだ。
「どうしてこの地に来た? 椿鬼にとって大事な場所であるこの地へ」
「そ、それは……一年中枯れることのない椿があるというから見に来たのよ」
千紘は正直に尼僧の問いに応えた。これに尼僧はきょとんとする。
「椿を見に? それだけか?」
「そうよ。水面姫にも許可はいただいているわ」
「何と、水面に会ったのか。一体姫は何者じゃ」
尼僧はじっと千紘を見つめる。そしておやと首を傾げた。そして確認するように千紘の体の隅々を見つめ、周りを回る。
「お主、ひょっとして人か?」
「そうよ」
その時千紘の懐からもぞもぞ動き、中から小鬼が顔を出す。これに尼僧はおおっと驚きの声をあげた。
「お久しぶりです」
「これは小鬼よ。久しいの。一体この姫は何なのじゃ?」
「この方は我がとーりょの奥方にございます。我らは姫、三の姫と呼んでいます」
その応えにますます尼僧は驚く。そして改めて千紘を見つめた。
「なんと、では主があの須洛がわざわざ面倒な方法で得た嫁か」
そして千紘の顔を改めて見つめる。その時いやでも尼僧の綺麗な顔を目の当たりにして複雑な心地がした。
その瞳の色は瑠璃色で、水面姫と全く同じものだったのだ。
「あ、あなたは……」
綺麗な女性と姫、それに比べて自分はといやでも自分の平凡な顔を思い知る。千紘は袖で顔を隠し、尼僧に尋ねた。
「そうであったな。これは失礼なことをした。私は陽凪、椿鬼の長を勤めておる者じゃ」
思いもしない名に千紘は驚く。陽凪姫ということはつまり水面姫の姉ということだ。どうりで先ほど彼女の瞳が水面に似ていると感じたのか。
「確か、今は旅をして不在と聞きましたが」
「ついこの前までは木曽あたりにおったがこっそり戻って来たのじゃ」
一体何故こっそり戻る必要があるのだろうか。
それを尋ねる前に逆に尋ねられた。
「それにしても、おかしいの。先ほど姫は妖かと思った。だが、改めて見ればきちんと人の娘じゃ」
「改めて見なくても人です」
とはいえ、人と見間違える鬼を何人か知っているのでぱっと見で判断することは容易なことではない。だが、陽凪に妖と思われたなど心外である。確かに幼い頃は幽霊だと揶揄されたこともあるが、それは過去のことである。
「いや、すまん。匂いがな……」
「それは私がいたせいでしょうか?」
小鬼は自分が千紘の懐に隠れていたからそのせいではないかと言う。それに陽凪は首を横に振った。
「いや、お前の匂いとは別の、瘴気に近いものが姫の……」
千紘の袖を見てぎゅっと掴む。あまりに強く引っ張られ千紘は眉を顰めた。
「痛い……」
それは左腕であった。昨日、海でおぼれた際どこかにひっかけて怪我をしてしまったものだ。すでに手当をしてある。
「……これか」
陽凪は眉間に皺をよせよろしくないと表情で言っていた。一体何がよくないのだろうか。そう問う前に陽凪は千紘を祠の石段に座るように指示した。
千紘は言われる通りにその上に座る。陽凪はふところから貝の入れ物をいくつか取り出す。そして千紘に左腕を出すように言った。
どうしてだと言いたかったが、陽凪の表情はひどく真面目なものでつい言われるまま左腕を出した。
巻かれた包帯をしゅるりと外す。するとそこにはひどい膿が溜まっていた。
あまりのことに千紘は絶句した。
痛みもそれほどではないし、昨日きちんと手当してもらったのに。
何故このように膿が溜まってしまったのだろうか。
「小鬼よ。そこの木からひとつ、花と葉を摘んで参れ」
そう言われ、小鬼は千紘から放れ、椿の木の方へ走った。
陽凪はまずは水筒で膿を洗う。そして先ほど出した貝の入れ物を開いた。中身は薬のようでつんとした匂いがした。陽凪は慣れた手つきで小鬼の摘んで来た葉で膿をとる。その時、じわりと膿から黒いものが現れて揺れた。同時に千紘の左腕がひどく熱く痛む。
「じっとしておれ。今瘴気を祓う故」
痛みで動こうとする千紘に叱咤する。とはいえ痛いものは痛い。千紘は目尻に涙を浮かべた。
椿の葉によって膿とともに黒い瘴気は揺れては消える。それをひとつずつ丹念に繰り返すと膿を全部削ぎ落した。
そしてもう一度水で洗い清め、その上に別の薬を塗る。陽凪がふところから新しい手拭を取り出しそれを左腕に巻いた。そして椿の花を取り出しそっと口付けし息を吹きこむ。それを放すと椿は千紘の左腕の上に落ち、しゃらんと鈴の音のように涼やかな音を鳴らし消えてしまった。
「え、え?」
「呪いじゃ。しばらく瘴気から身を守る力となるだろう」
そう説明し、陽凪は千紘の左腕を解放した。とても痛かったが、不思議と左腕が軽く感じる。
「どうして?」
「憑き物をとったのだ」
「憑き物? え、でも昨日はただの擦り傷だったのに」
だが、先ほど陽凪によって膿を除去した時に僅かに黒いものがよどんで見えた。おそらくあの黒いのが憑き物と呼ばれるものだったのだろう。
「そもそもその傷はどこで得たのだ」
「う、海でおぼれた時に……岩か何かに擦れたのだと思う」
「ならば、油断はしてはならない。海には怖ろしく厄介なものが潜んでいる故な。幸い一番厄介なのではなかったのが運が良かったというべきか」
「一番厄介なのって」
「一日もしないうちに傷が腐り、それが全身に広がるものだ」
それを聞き千紘はぞっと青ざめる。陽凪はそれを安心させるように言う。
「祓ったときに確認したが、それではなかった。だが、治療が遅ければ腕一本切り落とさなければならなかったかもしれん」
千紘に憑いていたものは微弱なもので変化もゆるやかなものである。だからこそ、ぱっと見では憑いているのか気付けるものは少ない。急な治療は必要なかいが、適切な処置が遅れれば酷いことになっていただろう。
陽凪は安心させるために言うが、同時に脅かしも言う。
「あ、ありがとうございます」
千紘は腕が一本なくなった自分を想像して、そうならなかったことに素直に感謝した。
「しかし、誰が手当したのだ。御暈の鬼はいくら海の憑き物について詳しくなくとも、これでは不十分なものだったぞ」
そう言い先ほどまで千紘が巻いていた包帯をひらひらさせた。
「あ、……」
「うん? 何だ。何か言いたいようだな」
申してみよと言われ、千紘は遠慮がちに言う。何だか告げ口をしているようで申し訳ない気分になるのだが。
「この手当をしてくださったのは御暈の鬼の者ではありません。須洛が海の傷に詳しい者に診せた方がいいと、椿鬼の方に診ていただきました」
「何と。椿鬼にはこのような不十分な手当をする者はおらんはずだ。いたとしても未熟者で大事な客人の手当を任せられない者のはず………。どいつだ」
「え、と……伊山という方に診ていただきました」
昨日、海から戻ったらすぐに須洛が部屋に連れて来た椿鬼一族の者の名を告げる。それにますます陽凪は訝しむ。
「伊山ならば、きちんとできたはずだ。一体どうして……それに」
陽凪は思い出したように千紘に尋ねた。
「今主と共にいたあの男は誰だ」
これに千紘は何と言って良いか悩んだ。
「え、と、……椿鬼の邸にいた方で、私がこの山の椿を見たいと水面姫に言うと共にと紹介してくださったのです」
「邸にいた? 知らんな、あの男。それに嫌なにおいがした」
「嫌なにおい?」
「土蜘蛛の匂い」
その言葉に千紘はぞっとした。同時にまさかと首を振った。
「あの方は昨日私が海でおぼれた際助けてくださったし、……邸にいた方で」
「邸の者で知らぬ者はいない。あの男を私は知らぬ」
「……本当に、その土蜘蛛の」
「ああ、匂い袋で誤魔化しているが、この私の鼻は誤魔化せん。土蜘蛛の匂いが確かにした」
「やはり」
ずっと黙っていた小鬼は千紘の膝に乗りながら陽凪に報告した。
「実は私めも、あの男から嫌なにおいがして姫の袖の中に隠れておりました」
「どうして言わないの」
千紘の責めるような言葉に小鬼は困ったように項垂れた。
「椿鬼の邸にそのようなものはいるはずないと、何かの間違いだと思って……水面姫の手前でしたし言えませんでした」
本当はあの男の傍にいるのは嫌であったが、水面に言われるままあの男とでかけようとする千紘を放っておくわけにはいかずついてきたのだ。
「陽凪姫がいらして本当に助かりました」
小鬼は恭しく陽凪に礼を述べる。
あの椋木が土蜘蛛の者であったら小鬼にはどうすることもできない。だから突然の陽凪の登場を何よりも喜んだ。
「椋木、ねぇ」
陽凪は例の男の名を呟き未だに眉間に皺を寄せ考えていた。
何故、土蜘蛛ですら入ることのできない結界が張られた沫村に入れたのか。
何故、椿鬼の邸にいたのか。
その答えを考えるに嫌なことしか思いつかない。
「まさか、そんな……」
ぶつぶつと呟いていた陽凪はようやく考えるのをやめ、千紘の方へ向く。
「須洛は今どこに?」
「え、と……沫村周辺の視察に」
土蜘蛛の件でやってきたので、周囲にうろつく土蜘蛛を捜しにいったのだと思われる。
「そうか。では、急いで須洛と合流する必要があるな」
陽凪の言葉に千紘は困りながらも頷く。
千紘も陽凪が考え事をしていた間に何も考えなかったわけではない。
椋木という男が土蜘蛛であったならば、本当ならば沫村に入ることは叶わないはずだ。では何故入ることができたか。
招かれたからだ。
誰に?
そう考えると脳裏に浮かぶのは千紘が羨む程の美しい姫君の姿。
(どうして?)
千紘には理解できなかった。
「姫よ。今から村の外を出る為、姫が山に登った方から逆の方へ降りる。ろくな道がなく険しいが、例の土蜘蛛の男と遭遇しない為だ。我慢してくれ」
「構わないわ。……でも、陽凪姫ならお強いから大丈夫なのでは」
それに陽凪は皮肉気に笑った。
「確かに椿鬼にしては私は強い方だと自負している。だが、相手が土蜘蛛となると別だ」
弱気なことについ首を傾げてしまう。先ほど椋木と戦っていたときの彼女はかなりの優勢だったはず。速さ、それに相手を圧倒するだけの力は間違えなく持っている。
「あれはふいをついた攻撃を繰り返しただけにすぎん。それに、あの男が土蜘蛛であるならば弱いふりをしていた可能性もある」
おそらくは千紘に正体がばれないようにあえて力を出さなかったのだと思われる。だが、陽凪に連れ出された千紘はすでに男の正体を知った。その為、力を隠す必要はなくなった。
「あれと対峙するには私では力不足。須洛と合流する他ない」
そう言いながら立ち上がった陽凪は急に鋭い目つきになった。一体どうしたのだと尋ねようとすると目の前の方へ錫杖を構える。そこに敵がいると言っているようであった。
千紘は固唾をのみその方向を見つめた。
かさかさ。
木々、植物をわけて通る音がする。動物か何かであろうか。
いや違う。
「やれやれ、ここまで来るのに苦労しました」
困ったように笑う椋木が姿を現した。そして周囲を見渡す。
「成程、立派な祠です」
はじめて来た祠に感嘆の声をあげる。
「ここは我が一族の聖域。主が来るのは断じて許さん!」
「おや、怖いですね。陽凪姫。私も椿鬼のはしくれ、ここに来ても別にいいではないですか」
「いつまで芝居をしているつもりだ。すでに主の正体は知っている」
「正体、正体とは何でしょう。ねぇ、三の姫?」
そう言いながら椋木は千紘の方へ声をかける。千紘はぐっと袖を握った。
「あ、あなたが土蜘蛛の者だと……」
千紘はおそるおそる言う。それに椋木はにこりと笑った。
「私が土蜘蛛。いくらなんでもひどい冗談だ。もし私が土蜘蛛でしたら昨日、私は姫を助けずにあのまま喰っていましたよ?」
近づこうとする椋木の前に陽凪が立ちふさがる。
「それ以上近づくな」
苦笑いする椋木に一枝の椿を投げつける。
「その花は我が母の大事な木のもの。一年中咲き誇る椿の花だ。それは強力な清めの力を持ち、また土蜘蛛が苦手とするものだ」
古き時代、九州の土蜘蛛は椿の木で作られた槌により退治されたという。
椿鬼一族はそれを元に椿には土蜘蛛が苦手とする力を備えているのではと考え、椿を利用した結界術を編み出した。そしてそれは今もこの沫村を守る結界のひとつとなっている。
「特に母の椿の木は強い清めの力を持つ。自分が土蜘蛛の鬼ではないと証明したければ触れるがいい」
ばき
「っ……」
千紘はじっと椋木を凝視した。椋木は差し出された椿の枝を手に取らずに足で踏みつけてしまったのだ。
「実にくだらない。これが私をどうしろというのです」
椋木はひたりと笑って陽凪を見つめる。その瞳はとてもうす暗く光り、不気味なものであった。
がさがさと大きな音をたて木々が揺れる。何があったのだと千紘は音の方を見つめるとそこからぬっと巨大蜘蛛が現れた。
中央の顔は虎模様に鋭い牙を備えた鬼の顔である。口が開けばそこからもあっと黒い霧が出て揺れる。
間違いなくそれは土蜘蛛だ。
千紘は久々に見た化け物の姿に背筋を凍らせる。
「お主! この祠になんというものを持ちこんだ」
陽凪にとってこの土地は母の眠る地。そこに瘴気を吐く土蜘蛛を連れてくるなど許し難い行為である。
怒る尼僧に椋木は悪びれる様子もせずに軽く失礼とだけ言った。
「一体何が目的だ!」
「簡単なことです。ここで陽凪姫と三の姫を捕えるのです」
そういうと土蜘蛛の口からしゅるりと太い白い糸が出てくる。それが瞬く間に周囲をとりかこむ。
まるで千紘たちを捕える蜘蛛の巣のように土蜘蛛は己の城を築きあげようとしていた。
「っく、母の祠を土蜘蛛の糸で汚されるなど」
陽凪は椋木と土蜘蛛を睨み今の状況を何とか考えまとめてみる。
いくら大事な土地を汚されても怒りで我を失ったわけではない。
今自分が応戦したところで土蜘蛛と椋木に勝てる見込みは低い。先ほどは力を出し切っていなかった為、椋木を圧倒することができたが。
土蜘蛛の鬼としての本性を隠すつもりのない椋木はおそらく陽凪よりも強い。
ここで戦って捕えられ、御暈一族の大事な姫まで巻き込んではいけない。
「姫、あれを見よ」
錫杖で示した先をみるとまだ土蜘蛛の糸の届かぬ場所がある。
「私が奴らの注意を惹きつける故、その間にあそこへ一気に走るのじゃ。そして決して振り返らずただ前を走れ」
「で、ですが……」
「安心せよ。小鬼がおる。小鬼の言う通りに走れば山を降りられる。とにかく土蜘蛛から逃げることだけを考えよ」
「あなたは」
「なぁに、ちょっと時間を稼げればすぐに奴らを撒いて逃げ切ってやる」
そう言い陽凪は安心させるように笑った。
「主は何があろうと守る。須洛がずっと求めていた姫だからな」
きょとんとする少女に陽凪はふふと笑った。
「さぁ、走れ!」
そう言い陽凪は土蜘蛛の方へ走る。
「姫さま、早く。でなければ陽凪姫の行動が無駄になります」
小鬼に急かされ千紘はようやく陽凪に言われた方へと走った。
陽凪のもくろみを予想できた椋木はすぐに千紘の方へ近づこうとした。しかし、瞬時に移動した陽凪の錫杖が襲いかかり阻まれてしまう。