奴隷雑用
1.至高たる魔力の庭
「――跪きなさい、出来損ない。私の靴が、貴様の流した浅ましい汗で汚れてしまうわ」
頭上から降ってきたのは、鈴の音を転がしたような、しかし一切の温度を持たない酷薄な声だった。
大理石の床に両手と両膝をつき、必死に雑巾がけをしていた俺――クロトは、動きを止めてゆっくりと顔を上げた。
視界に映ったのは、一点の曇りもない漆黒の革靴。そして、その靴の持ち主である少女の姿だった。
エレノア・フォン・ヴァイスハイト。
この国の最高権力を有する公爵家の令嬢であり、国内最高峰を誇る『聖ルミナス魔法学院』の頂点に君臨する、当代随一の天才魔導士。
彼女の燃えるような黄金の髪は、陽光を浴びて神聖な輝きを放っており、完璧に整った容姿は神が創り上げた最高傑作のようだった。
しかし、その美しい青い瞳に宿っているのは、人間を人間とも思わない、徹底的な蔑みと冷酷さだけだ。
「……申し訳ありません、エレノア様。すぐに退きます」
俺は感情を完全に殺し、平伏したまま声を絞り出した。
ここで少しでも不遜な態度を取れば、彼女の指先一つで、俺の身体など木端微塵に吹き飛ばされる。それがこの世界の、そしてこの学院の『絶対のルール』だからだ。
ここは、魔力こそがすべてを決める世界。
生まれ持った魔力量の多寡が、そのまま人間の価値、階級、そして生存権すらも決定する。
強力な魔法を操る貴族は神の如く崇められ、魔力の乏しい平民は彼らに奉仕するためだけに生きることを許される。
そして、この聖ルミナス魔法学院は、全国から選りすぐられた超エリートの令嬢や貴族の子弟が集う、まさに「魔力至上主義の結晶」のような場所だった。
「退く? 口が利けるのね、クロト。私に声をかけられただけで、貴様のような寄生虫は身の程を知って卒倒するべきなのに。本当に図々しい」
エレノアは、フリルのついた豪華な制服の裾を優雅に払いながら、ふっと鼻で笑った。
彼女の背後には、同じように高級な魔導ローブをまとった取り巻きの令嬢たちが、扇子で口元を隠しながらクスクスと品性のない笑い声を漏らしている。
「本当ね、エレノア様。こんな無能を同じ空気に触れさせているだけで、学院の格式が下がってしまいますわ」
「ええ、魔力測定で前代未聞の『1』を叩き出した、歴史的な歴史のゴミ。よくもまあ、生きていられるものですこと」
令嬢たちの言葉が、鋭い針のように俺の耳に突き刺さる。
だが、俺は言い返す言葉を持たなかった。彼女たちの言うことは、この世界の基準においては「紛れもない事実」だったからだ。
半年前、15歳になった俺は、義務付けられている国の魔力適性検査を受けた。
通常、平民であっても魔力値は「100」前後、魔法使いとしての才能を持つ貴族であれば「5000」や「10000」を超えるのが当たり前の世界。
そんな中で、水晶に表示された俺の数値は、わずか【1】だった。
測定器のバグではない。何度測っても、結果は同じ。
それは、生物として生きているのが不思議なレベルの、完全なる「魔法不能者」の証明だった。
この国において、魔力を持たない者は人間ではない。ただの労働力、あるいはそれ以下の存在だ。
俺の人生は、その日を境に暗転した。
家を追われ、行き着いた先が、この聖ルミナス魔法学院の最底辺――『奴隷雑用係(奴隷メイド)』としての身分だった。
貴族の少女たちが優雅に魔法の深淵を学ぶこの学び舎で、俺は文字通り、彼女たちの手足を汚さないための「使い捨ての道具」として、朝から晩まで這いつくばることを義務付けられていた。
2.日常的な蹂躙
「ほら、何をしているの? 早くその汚い雑巾を持って消えなさい。エレノア様のご温情で、まだ五体満足でいられることを感謝することね」
取り巻きの一人、緑髪の令嬢が、俺の背中に向けて冷たい視線を浴びせる。
「はい。失礼いたします」
俺は床に這いつくばったまま、一歩ずつ後ろへ下がり、彼女たちの進路を開けた。
エレノアは、俺のことなど最初から視界に入っていなかったかのように、優雅な足取りで通り過ぎていく。
その際、わざとらしく彼女の靴底が、俺の磨き上げたばかりの床を強く踏みつけ、泥の跡を残していった。
「ああ、いけない。少し汚れてしまったわね。……まあいいわ、どうせゴミが掃除するのだから、いくら汚れても関係ないもの」
エレノアの小さく吐き捨てた言葉が、廊下に響く。
彼女たちが角を曲がって見えなくなるまで、俺は頭を上げなかった。
静寂が戻った廊下で、俺はゆっくりと立ち上がる。
膝の関節がミシリと音を立て、酷使された身体が悲鳴を上げていた。
服は薄汚れ、支給された粗末な麻の服は汗と泥で色が変わっている。
「……はは、相変わらず手厳しいな」
自嘲気味な笑いが口から漏れた。
怒りがないわけではない。悔しさで爪が肉に食い込むほど、拳を握りしめる夜もある。
だが、この世界で「魔力なし」が貴族に逆らうことは、即座に死を意味する。
生き延びるためには、プライドなどという上等なものは、とっくの昔にドブに捨てておく必要があった。
俺は再び膝をつき、エレノアがわざと残していった泥の跡を、黙々と雑巾で拭き始めた。
(でも、不思議なんだよな……)
作業を続けながら、俺は自分の手のひらを見つめた。
魔力値「1」。
確かに俺は、火を点けることも、水を出すことも、身体を強化することもできない。
この世界の人間なら誰でも体内に感じているという、温かい「魔力の流れ」というものが、俺には一切感じられなかった。
しかし、その代わりに。
俺の身体の中心には、温かさとは真逆の、冷徹で、底知れない『深淵』のような感覚が、静かに佇んでいた。
それはまるで、あらゆるものを飲み込む暗黒の穴。
本能が告げている。俺の体質は「魔力が少ない」のではない。何かが、根本的に違うのだと。
だが、そんな疑問を解決する術を、一介の奴隷雑用係が持てるはずもなかった。
俺は頭を振り、目の前の汚れを落とすことだけに集中した。
3.エリートたちの遊戯
午後になり、学院の大演習場へと足を運んだ。
今日の俺の仕事は、Aクラス――エレノアたちが所属する、学院最高峰の天才たちが集うクラスの「対人戦闘演習」の後片付けと、演習中に使用されるターゲット(標的)の設置だった。
演習場は、頑丈な結界魔法で覆われた広大な競技場だ。
観客席には、優雅に紅茶を嗜みながら高みの見物を決め込む教師や貴族たちが座っている。
「次、エレノア・フォン・ヴァイスハイト。前へ」
担当教師の厳格な声が響くと、演習場の中央へ、エレノアがゆっくりと歩み出た。
彼女が手にするのは、巨大な純白の魔導杖。その先端には、国宝級とされる巨大な魔力結晶が埋め込まれている。
俺は演習場の端、防護障壁の裏側で、次の雑用の指示を待つために控えていた。
近くにいるだけで、彼女の身体から溢れ出る圧倒的な魔力の波動が、空気の震えとして肌に伝わってくる。そのプレッシャーだけで、普通の平民なら息ができなくなるほどだ。
「エレノア様、本日のメニューは、第五等級の重装魔導ゴーレム三体の同時破壊です。よろしいですか?」
「構いません。あんな木偶人形、私の『極大焔華』の敵ではありませんわ」
不敵な笑みを浮かべるエレノア。
合図とともに、演習場の床から、厚さ数十センチの魔導合金で装甲された、巨大な岩石のゴーレムが三体、地響きを立てて現れた。
並の魔法使いなら、一撃で圧殺される威容だ。
しかし、エレノアは眉一つ動かさない。
彼女が杖を軽く掲げた瞬間、演習場全体の温度が、一瞬で跳ね上がった。
『――集え、焦熱の理。万物を灰燼に帰す、苛烈なる女王の庭をここに』
彼女が紡ぐ呪唱は、洗練されており、一文字一文字が世界の法則を書き換えていく。
彼女の足元に、直径十メートルを超える巨大な真紅の魔法陣が展開された。
そこから溢れ出る熱量が、大気を歪め、防護障壁越しにいる俺の肌を焦がさんばかりに押し寄せる。
「消えなさい。『極大焔華』!!」
エレノアが杖を振り下ろすと同時に、魔法陣から、巨大な炎の薔薇が咲き誇るようにして放たれた。
それはただの炎ではない。超高密度に圧縮された魔力が、文字通り空間ごと標的を焼き尽くす、戦略級の火属性魔法だ。
轟音。
視界が真っ赤な爆炎で埋め尽くされる。
強烈な爆風が防護障壁を激しく叩き、演習場全体が地震のように揺れた。
数秒後、炎が収まったとき、そこには——影も形もなく、完全に融解してドロドロの液体となった魔導ゴーレムの残骸だけが残されていた。
「素晴らしい……! さすがはヴァイスハイト公爵家のご令嬢だ!」
「十五歳にして、すでに宮廷魔導士レベルの術式を完全にコントロールしている!」
観客席から、割れんばかりの拍手と称賛の嵐が巻き起こる。
エレノアは当然の結果だとばかりに、ふん、と鼻を鳴らし、杖を引いた。
「クロト、何を見惚れているの。早くその出来損ないの頭を動かして、残骸を片付けなさい」
教師が、演習場の端にいる俺に向けて冷酷に言い放つ。
「はい、ただいま」
俺は台車を押し、まだ熱気が立ち込める演習場の中央へと歩き出した。
融解したゴーレムの残骸は、超高温の熱を放っている。近づくだけで肌が焼けそうだ。
俺は支給された耐熱手袋(とは名ばかりの、ボロボロの布切れ)をはめ、黙々と作業を開始した。
エレノアは、教師たちからの称賛を受けながら、俺のすぐ横を通り過ぎようとする。
その時、彼女の取り巻きの一人が、俺の足元を見て意地の悪い笑みを浮かべた。
「あら、危ないわよ? そんな無能がもたもたしていると、エレノア様の魔法の『余熱』で、そのまま灰になってしまうんじゃないかしら?」
「本当ね。いっそのこと、その方が世の中のためになるかもしれないわ」
クスクスという不快な笑い声。
エレノア自身は、俺を嘲笑うことすら時間の無駄だと考えているのか、傲慢な足取りを崩さない。
だが、その時。
演習場の空気に、明確な『異変』が生じた。
4.異兆の黒
「……ん? 何かしら、この感覚」
不意に、エレノアがその場に足を止めた。
彼女の美しい眉が、不快そうに歪む。
「エレノア様? いかがなされましたか?」
取り巻きの令嬢たちが、心配そうに顔を覗き込む。
「……いえ、何でもないわ。少し、体内の魔力の循環が滞っているような……そんなはずは、ないのだけれど」
エレノアは自分の右手を見つめた。
いつもなら、彼女の意思一つで無限に湧き出すはずの、あの圧倒的な魔力の奔流。
それが、なぜか今は――深い沼に足をとられたように、重く、鈍くなっている気がした。
気のせいよ、とエレノアは思考を振り切ろうとした。
今日の演習で、少し大がかりな魔法を使いすぎただけ。天才である自分が、魔力のコントロールを誤るはずがない。
しかし、彼女は気づいていなかった。
彼女が歩みを止めたその場所。
彼女のすぐ右側、わずか一メートルの距離で、床に膝をついてゴーレムの破片を拾い集めている少年の存在に。
(……なんだ? これ)
俺――クロトは、自分の身体の異変に、誰よりも早く気づいていた。
先ほどから、俺の胸の奥にある『深淵』――あの冷たくて暗い、魔力値「1」の核が、激しく脈打っている。
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動とは異なるリズムで、何かが激しく主張していた。
そして、信じられないことが起きていた。
先ほどまで、演習場に満ちていたエレノアの魔法の『残滓』。肌を焦がすようなあの凄まじい熱気が――
俺の身体に触れた瞬間、まるで掃除機に吸い込まれるように、俺の皮膚の表面から**『体内へと吸い込まれて消えていく』**のだ。
熱い、とは感じない。
むしろ、どれだけ熱いエネルギーが流れ込んできても、俺の奥底にある『深淵』は、それを一瞬で冷やし、無に帰してしまう。
まるで、燃え盛る業火の中に、絶対零度の氷山を投げ込んだかのように。
(俺が……魔法の熱を、吸い取っている……?)
俺は自分の手のひらを見た。
何の変哲もない、傷だらけの平民の手。
しかし、俺がゴーレムの残骸(まだ赤く熱を持っているはずの金属)に触れても、全く熱さを感じない。それどころか、俺が触れた部分から、金属の赤みが急速に失われ、ただの冷たい鉄くずへと変わっていく。
「おい、クロト! 何をボケっとしている、早くしろ!」
遠くから教師の怒声が聞こえ、俺はハッと我に返った。
「す、すみません!」
俺は慌てて残骸を台車に積み込み、その場を離れた。
俺がエレノアの側から距離を取ると同時に、エレノアは「ふぅ」と小さく息を吐き出した。
「……戻ったわ。やはり、少し疲れていただけのようね」
「さ、流石のエレノア様でも、あれほどの魔法を放てばお疲れになりますわ。さあ、サロンで特製のハーブティーをご用意させますので、休憩いたしましょう」
令嬢たちを引き連れて、エレノアは演習場を後にする。
その背中を、俺は台車を引いたまま、じっと見つめていた。
胸の奥の『深淵』は、まだ静かに拍動している。
そして、ほんのわずかだが――先ほどよりも、その『穴』が、強固に、そして明確に自分の肉体に根づいたような、奇妙な充実感があった。
魔力値『1』。
この世界において、それは絶対的な無能の証明。
だが、もしも――もしもこの数値が、「魔力が存在しない」のではなく、**「周囲のあらゆる魔力を無条件で吸収し、完全に消滅させてしまう体質」**のせいで、測定器がバグを起こした結果だとしたら?
「……まさかな」
俺は自分の突拍子もない思考を、苦笑いと共に打ち消した。
そんな都合のいい話があるはずがない。俺はただの奴隷雑用係だ。明日も朝早くから、彼女たちのために床を磨かなければならない、ただの底辺。
しかし、運命の歯車は、すでにこの時から、音を立てて回り始めていた。
世界唯一の【魔力極小・特異点】。
あらゆる魔法、あらゆる魔力を吸い込み、完全に無力化するブラックホール。
その化物が、今、このエリート学園の最底辺で、静かに牙を研ぎ始めていることを――
まだ、誰も知る由はなかった。




