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19 エルキナの過去




――エルキナ視点――




 私がまだ幼かったころの話。


 私は、アドレーン公爵家のたった一人の嫡子だった。

 妾の子である庶子はたくさんいたけれど、当主だったお父さんとその正妻だったお母さんとの間には、子供は私しかいなかった。


 だから、私は誰の目から見ても、公爵家の次期当主という立場が確定していた。

 それに対する嫉妬だったのだろうか。それとも、単に私の反応が面白かっただけだろうか。

 私は、周囲から虐められていた。


 他の兄弟や、父の側室の女、それらの息のかかった侍女や使用人たち。

 みんな、私を虐めるか、我関せずを貫いていた。

 私の周りには、味方はほとんどいなかった。


 廊下で足を引っかけて転ばせたり、急いでいるときに限って道を塞いできたり。

 そういう小さな嫌がらせから始まり、他の貴族様や大商人の方が訪問してきているときに、私を嵌めて、偉い人の前で恥をかかせるようなこともしてきた。

 そして、彼ら彼女らは、私をうまく嵌めることができたと、陰で嫌な笑みを浮かべていた。


 そんなことが何年も続き、私は精神的に追い込まれていった。

 幼かった私には、なぜ周囲が私ばかりを虐めるのかがわからなくて、私の嫌な事しか起こらなくて、辛かった。

 何度も、泣いた。


 でも、それでも腐らず何とかやっていけたのは、お父さんとお母さんのおかげだった。


 お母さんは、部屋で泣いている私をいつも明るく励ましてくれた。


『大丈夫だよ、悪いのは向こうなんだから』


『ああいう人たちにはね、あとでとんでもなく悪いことが起こるのよ。悪いことをやった分だけ、あとで災いが降りかかるの』


『だから、ああいうふうになっちゃダメよ』


『人に優しくしていたら、その分だけ後できっといいことが起こるんだから』


 私はいつも、お母さんの胸の中で泣いていた。

 それを、優しく受け入れてくれたのはお母さんだけだった。


 お母さんにとって私が一人娘だったというのもあるんだろうけど、私を腐らせてしまえば城内での立場が危ういというのもあったのだろうけど、どんな理由であれ、私には嬉しく感じた。

 いつも変わらず、私の味方だったから。


 それから、お父さん。

 お父さんは、無口で言葉数が少なかったけど、ちゃんと私のことを見てくれたし、私に何が起きているのか、ちゃんとわかっていた。


 私が嫌がらせを受けた後、必ず嫌がらせをさせた側に相応の罰を与えていた。

 小さい頃は、直接嫌がらせを止めてくれなくて嫌いだったけれど、大きくなるにつれて、分かるようになってきた。


 お父さんは、とても忙しかったのだ。街のために、市民のために、その身を尽くして働いていたから。

 城を空ける日も多く、夜になっても帰ってこないこともざらだった。

 だから、私が嫌がらせを受けたことを知るのは、いつも時間が経った後だった。


 いつだったか、お父さんに謝られたことがある。


『ごめんな。いつも、遅れた対応しかできなくて』


 あれだけ忙しいのに、私のことを考えてくれている、それだけで私は嬉しかった。



 なのに、なんで。

 みんなで帰ってきて、盛大にパーティーをやろうって言ってたのに、なんで?

 なんで、帰ってこないの?


 いいや、分かってる。

 もう、両親は帰らぬ人となったということを。


 お父さんは、撤退の時に民を守るため、しんがりを務め、しかし敵に追いつかれ、討ち死にしたということを。

 お母さんは、回復魔法の使い手だったから、敵に執拗に狙われ、心臓を貫かれて亡くなったことを。


 だから、私は戦争が嫌いだ。

 戦争が、戦うことが、怖い。

 私も、両親と同じ運命をたどるんじゃないかって、そう思ってしまう。


 民を鼓舞するために、領主や貴族が演説をすることが多いらしいけど、私には無理だ。

 私が一番弱くて、情けない顔をしているのに、人を励ませるはずがないから。

 それどころか、私は、みんなの足を引っ張ってしまう。


 今の私は、他の誰よりも役立たずだから。

 部屋の隅っこで、蹲っていることしかできない。

 足が震えて、まともに歩くことができない。

 頭が、お腹が痛くて、むやみに動くこともできない。

 思考さえ、ネガティブな感情に支配されてしまっている。


 これは、1年ほど前の出来事。

 もう1年も経ったはずなのに、未だに色あせることなく鮮明に思い出すことができること。

 否、嫌でも思い出してしまう。


 目の前で、お母さんが殺されたことを。

 敵兵に胸を貫かれ、血に塗れ、私を見ていた眼がだんだんと虚ろになっていったところを。

 私に何かを言い残そうと口を開き、血を吐いて、そのまま尽き果ててしまった母の最期を、見てしまったことを。


 あの時の光景が、何度も脳裏をよぎる。

 バラディアから宣戦布告されたと聞いた時から、何度も。

 そして、それを思い出して、何度も胃の中のものが出てきそうになる。


 昨日は、一睡もできていない。

 きっと私の顔はやつれていて、目の下には深いクマが出来ているんだと思う。

 でも、私は何もできなくて、部屋の隅で蹲りながら震えている。


 トントン。


 ドアのノック音がした。

 たぶん、護衛のシグトさんが来たんだろう。

 私を守ってくれる、その打ち合わせに来てくれたんだろう。


 私を、守る?


 敵から、私を守ろうとする――


 その瞬間、私の頭の中で、一つの映像が再生された。


 かつて、ジル・エリヴィスの領地であった、城壁外の街ラトシュ。

 お母さんはそこに集められた傷病者の治療のために働いており、また私も何故だかそこに連れてこられていた。

 お母さんが私から目を離したくなかったのか、みんなを元気づけるために公爵家令嬢として呼ばれたのか、それとも他の理由なのか。

 後になって考えればいくらでも理由は思いつくけれど、そんなことはどうだっていい。


 お母さんとともに傷病者のお世話をしていたとき、突如飛び込んできた兵隊さんが叫んだ。


『敵襲! 戦える者は戦闘用意! 女子供は今すぐ逃げろ!』


 その報告で、一気にラトシュの街は騒がしくなった。

 私はお母さんに連れられて、城郭都市ジル・エリヴィスに逃げ戻ることとなった。


 外に出ると、女性や子供、怪我人などがまとまって、ジル・エリヴィスに向かう集団が出来ていた。

 そこに混じって、お母さんに抱きかかえられながら、ジル・エリヴィスに戻るその途中。

 第一城壁まで、目と鼻の先だったにもかかわらず。


 敵軍に追いつかれた。


 付き添いの兵隊さんたちの抵抗虚しく、一瞬で集団は敵軍に蹂躙され、非戦闘員の女性や子供は逃げまどった。

 お母さんと私も、そのうちの一つだった。


 ただ、周りとひとつだけ違う点があったとすれば。


『回復術師はあいつだ! あいつを狙え!』


 お母さんが、回復魔法の使い手だったことだった。


 押し寄せてくる軍隊。

 逃げ惑うお母さんと、それに抱き留められた私。

 むろん、一人狙いをする敵軍から逃げられるはずもなく。


『エルキナ! あなたは逃げて!』


 お母さんが捕まる間際、私を抱くのをやめ、地面に立たせられた。

 私はとにかく怖くて、必死で走って逃げた。

 死にたくない、という一心で、走り続けた。


 何度も振り返り、お母さんの無事と、敵兵の追っ手を気にしていた。

 そのたびに転びそうになりながら、でも後ろが気になって、時々後ろを向きながら走った。


 だから、見てしまった。

 お母さんが、心臓を貫かれるのを。

 その瞬間、お母さんと目が合ってしまった。

 その目から、だんだんと光が失われ、白目を剥くところを、見てしまった。


「ひぃっ!」


 最期にお母さんは何かを言おうとして、血を吐き、そして力を失ったように地面に横たわった。

 私は怖くなって、目を逸らしてしまった。

 それ以降、私はお母さんの姿を見ることはなかった。


――それが、私を守ろうとした人の、結末。


――私が大好きだったお母さんの、私を守ろうとした結末。




 ああ、また思い出してしまった。

 できることなら、永遠に記憶の奥底に封印しておきたいのに。


 頭が痛い。

 お腹が痛い。

 吐き気が込み上げてくる。


 ただ、それに耐えるために私は。

 部屋の隅で、俯いて小さく蹲ることしかできなかった。



 その時、部屋の扉が動いたような音がした。





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