第1巻:目隠しの少年 第1章:褪せた写真と影を帯びた鉄
第1巻:目隠しの少年
第1章:褪せた写真と影を帯びた鉄
夜の八時。湿り気を含んだ冷気がアスファルトの上に重く立ち込め、頭上でひとつだけ灯る街灯のネオンを鈍く揺らしていた。ひび割れた歩道の上を、十六歳の佐藤ケンジ(Sato Kenji)は力なく歩いていた。擦り減った靴底が、あきらめたようなリズムで舗装路を擦る。
身にまとっているのは、大人の体型に合わせて作られた硬くサイズ違いの事務服だった。華奢な肩から不格好にぶら下がるその服は、望みもしない鎧のように彼の身体を締め付けている。襟元には紺色のネクタイが歪んで解けかけていたが、正しく結び直そうとする気力は、何時間も前に失われていた。伸びっぱなしの黒髪が目元を覆い、同年代の少年が持つべき輝きを完全に失った、疲弊しきった瞳を隠している。
一歩を踏み出すこと自体が、全身の倦怠感に対する小さな勝利だった。太腿が静かに熱を帯び、冷たい夜風が露わになった首筋を刺す。前方には、排気ガスに霞む夜空を背にして、彼が住むアパートの灰色で無機質な影が立ちはだかっていた。20世紀半ばから後半の建築様式を色濃く残したコンクリートの外壁は汚れて風化しており、どこまでも実用性だけを追求した古臭い造りだ。頭上には古い電線が低い網のように交差し、路上には時代遅れのセダンが数台路駐されている。
ケンジが重いガラスのフロントドアを押すと、錆びついた蝶番がギィと悲鳴を上げた。狭いエントランスに入ると、街の喧騒は遠のき、代わりに壁掛け時計の規則正しいチクタクという音だけが響く。
受付の小さな木製デスクの後ろでは、夜間警備員がプラスチックの椅子に深く寄りかかり、顎を胸にうずめて眠りこけていた。口元からはゆっくりとした寝息が漏れている。その少し先、永久点検中の紙が貼られたエレベーターの近くでは、管理人がふかふかの一人用ソファに深く腰掛け、膝の上に畳んだ新聞を乗せたまま熟睡していた。
ケンジは足音を立てないよう二人の脇を通り抜け、階段室へと向かった。コンクリートの階段を上る道のりは、果てしなく長く感じられた。一歩上るごとに、薄いドアの隙間からテレビの笑い声やフライパンのジュージューという音が漏れ聞こえてくる。自分の部屋がある階の廊下の端にたどり着く頃には、ケンジの呼吸は浅く荒くなっていた。
ポケットから真鍮の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回すと、彼はドアを押し開けて中へ入った。
部屋は狭かった――大きめの押入れと大差ない広さだ。壁のスイッチを入れると、天井から吊り下げられた裸電球が一瞬点滅し、散らかった室内に眩しい黄色い光を投げかけた。部屋の隅には段ボール箱と本が不揃いに積み上げられている。反対側には乱れた布団が敷かれており、ペチャンコの枕がひとつ床に転がり、もうひとつはマットレスの端から落ちかけていた。
ケンジは肩から重い鞄を降ろし、床板の上にドスンと落とした。そしてベッドの端に崩れ落ちるように腰掛けると、膝に肘をつき、タコのできた両手で顔を覆った。狭い部屋の静寂が、耳に重くプレッシャーをかけてくる。
長い沈黙の後、彼は顔を上げた。暗い瞳が目的もなく狭い部屋を彷徨い、やがて安っぽい木製のサイドテーブルの上に置かれた『ある物』で止まった。
それは古びた写真立てだった。ケンジは手を伸ばし、細かなひび割れが網目状に入った冷たいガラスの表面に指を触れた。中の白黒写真は、経年劣化で病的な黄色に変色している。彼はそれを持ち上げ、時間の中に凍りついた家族の姿を見つめた。
一番左に立っているのは父親だ。短髪に鋭い顎のライン、そして表情には一切の妥協を許さない厳格で不機嫌な皺が刻まれている。その隣には母親が座っていたが、彼女の顔はレンズから背けられ、手にした一冊の開いた本に没頭していた。空いた片腕で、彼女は毛布に包まれた一歳の赤ん坊を無造作に抱いている。
そして、写真の隅の低い位置に立っていたのは、三歳のケンジだった。他の家族が寸分の乱れもないフォーマルな服を着ている中で、その幼い deja vuのような少年だけが、サイズ違いの褪せたお下がりを着ていた。しかし、ケンジの目を引いたのは自分自身の小さな顔――特に、左頬に残るかすかな暗い痕だった。それは明らかに、強く叩かれて腫れ上がった赤々とした平手打ちの痕だった。
ケンジはその幼い顔を長い間見つめていた。やがて、自嘲気味な笑みが唇の端に浮かぶ。
「……なんで俺は、未だにこんなもん取ってあるんだろ」
誰もいない部屋に、ぽつりと呟きが落ちる。
「あいつらだって、もう俺のことなんて覚えてねぇだろ」
彼は写真立てを伏せて、サイドテーブルの上に戻した。
バキッ。
静かな部屋に、突然木が裂ける乾いた音が響いた。ケンジが反応する間もなく、サイドテーブルが大きく左に傾き、そのまま完全に崩壊した。写真立てが床板の上を滑り落ちていく。
ケンジはベッドの端から身を乗り出し、無表情でその惨状を見下ろした。長年の使用で根元から腐っていたテーブルの脚一本が、綺麗にへし折れていた。彼は首のの後ろを掻きながら、心底呆れたようなため息をつく。
「賞味期限が5年も切れた中古品を頼りにすると、こうなるってことか……」
散らばった木くずも写真立てにも手を触れず、彼はそのまま足をベッドの上に引き上げると、薄い毛布を胸まで引っ張り上げ、シミのついた天井を見つめた。
「片付けは……明日にしよう」
小さく呟き、瞳を閉じると、彼の意識はゆっくりと闇の中へ落ちていった。
◇
数ブロック離れた、区内の工業地帯の奥深く。夜の空気には、湿ったコンクリートと金属の粉塵が混ざった鋭く重い匂いが立ち込めていた。
暗い夜空を背景に、建設途中の高層商業ビルが聳え立っている。むき出しの鉄骨や足場、そして吊り下げられた黄色い安全灯が周囲を囲んでいた。投光器の強烈な光が泥だらけの地面を照らし、深夜の作業員たちが大型発電機と油圧リフトの重低音を響かせながら仕事を続けている。
その時、積み上げられた鉄骨の影が、敷地の端で不自然に揺れた。闇の中からひとりの人影が静かに足を踏み出し、誰にも気づかれることなく警戒線を越えていく。
重機や鉄筋が立ち並ぶ殺伐とした現場には、あまりにも不釣り合いな少女だった。胴体にはぶかぶかの白いクロップトップを纏い、膝まで届くダボダボの黒いショートパンツを穿いている。短く切り揃えられた銀髪が前になびき、目元は長い前髪の影に完全に隠されていた。
彼女は眩しい投光器の光の境界線でピタリと足を止め、微動だにせず立ち尽くす。
汗で汚れた手袋で額を拭いながら、工具箱からレンチを取ろうと振り返った建設作業員のひとりが frozeした。わずか数ヤード先に立つ、その白い人影を目にした瞬間だった。
作業員は目を疑うように擦り、近くの発電機の爆音に負けじと大声を張り上げた。
「おい! 誰だお前は!? こんな時間に、ガキが何の用だ!!」




