第一章 天眼異変編 第一話「異変の始まり」
ここは妖幻郷、沙霧村。
朝靄は淡く、森の木々をやさしく包み込み、川のせせらぎは穏やかに流れている。人と妖が肩を並べて暮らすこの村は、今日もまた静かな一日を迎える――はずだった。
「まただ! まただ!!」
突如として響いた叫びが、その平穏を引き裂いた。
「ヒィィィィィ!!」
村人が悲鳴を上げ、妖たちもざわめき始める。
視線は一斉に空へ向けられた。
そこに――それはあった。
雲の合間に、ギョロリとした巨大な“目”。
瞬きもせず、ただじっと、地上を見下ろしている。
生き物のようでいて、生き物ではない。意思があるようで、何も感じていないかのような、不気味な存在。
「また、また“目”だ!!」
妖怪の一体が震える声で叫ぶ。
誰もが身をすくませ、ただその視線から逃れようとするように、顔を伏せる。
やがて――
すぅ、と。
何事もなかったかのように、“目”は空から消えた。
「き、消えたか……?」
恐る恐る顔を上げる妖怪。
「こ、これはまた報告だ〜!!!」
村人が慌てて駆け出していく。
残された空には、ただ静寂だけが戻っていた。
まるで最初から何もなかったかのように。
――その報せは、ほどなくして屋敷へと届いた。
「……はぁ、またですか」
ため息混じりの声が、静かな一室に落ちる。
報告を受けた少女は、書物から視線を外し、ゆっくりと顔を上げた。
「はい……また、例の“目”が現れたらしく」
控えていた使用人が、深く頭を下げながら続ける。
「今回も、何もしてこなかったようですが……梨花様、どうなさいますか」
源 梨花。
この沙霧村を治める、若き領主である。
「……そろそろ、私が動きましょう」
その言葉は静かでありながら、確かな決意を含んでいた。
「御身自ら!? い、いけませぬ!」
使用人は慌てて顔を上げる。
「十将夜叉も、英雄様達も……梓様とともに出て行かれております。御身お一人では、危険かと……」
その言葉に、梨花は一瞬だけ目を伏せた。
(私は――源 梨花)
胸の奥で、静かに自分の名をなぞる。
(ここ、沙霧村の領主。母様から託された地……)
その重みは、まだ完全に馴染んでいるとは言えない。
(託されたから……守らなきゃいけない。でも……)
ほんのわずかな不安が、胸をよぎる。
(一人で行けるのかな……戦闘術は、ある程度教わったけど……)
けれど――
「いえ、行きますよ」
顔を上げた梨花の瞳には、迷いはなかった。
「これも、この地を統治する者の役目です」
「し、しかし……」
なおも言い募ろうとしたその時――
「では、私がついて行こう」
低く、どこか重みのある声が、室内に響いた。
「おぉ! 貴方様は……!」
使用人が驚きに目を見開く。
そこに立っていたのは、黒き気配を纏う存在。
「……八咫烏」
梨花はわずかに眉を動かす。
「私は一人でもいけます。「血を霊力と妖力に変える力を司るほどの能力」のある私なら」
静かに、しかし確信をもって告げる。
だが、八咫烏は首を横に振った。
「それでも心配なのだ。異論は認めん」
有無を言わせぬ声音。
梨花は一瞬だけ沈黙し――やがて小さく息をついた。
「……はぁ、わかりました。ついてくるといいですよ」
「そうさせてもらう」
満足げに頷く八咫烏。
「して、どこへ向かうのだ?」
その問いに、梨花は窓の外――静かな空を見上げた。
つい先ほどまで、あの“目”があったであろう場所。
「……まずは、“目”の現れた付近を捜索しましょう」
静かに告げる。
「なにか見つかるかも」
穏やかな理想郷に生まれた、わずかな歪み。
それはまだ、小さな“違和感”に過ぎない。
だが確かに――何かが、妖幻郷を見ている。
その正体を知る者は、まだ誰もいなかった。
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