学園編・第十六章
「…起きろ」
うぐっ。
まただ。
同じ天井、同じ結末、同じ…クソみたいな気分。
また負けた。
しかも…
また女に。
最初はレイン。
今度はハリエット。
男の誇りを汚してしまった…。
「…はぁ…」
重いため息をつき、腕を持ち上げて顔を覆った。
光を見たくない。
天井を見たくない。
世界を見たくない。
そして…
世界にこの惨めな姿を見られたくない。
「がっかりしてるみたいね」
…この声。
ハリエットだ。
いつからそこにいた?
気配も音もなかった。
まるで最初から座っていたかのように、ベッドの横で本を読んでいた。
でも…戦闘中のハリエットとは違う。
「私の“もう一人の私”が悪かったわね」
彼女は視線をページから動かさずに言った。
「友達ができて嬉しかったみたい」
…一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。
「…“もう一人の私”?」
彼女は静かにページをめくった。
「そう」
それだけ言って、また黙った。
「…いつからそうなったんだ?」
「知らない」
「…どうやって?」
「知らない」
彼女の声は淡々としていた。
怒りも不満もない。
「…知らないままでいいのか?」
「別にどうでもいい」
「どうでもいいって…?」
「変わった。それだけ」
「…そんなに気になるなら、もう一人の私に聞いてみたら?」
…チッ。
この態度が気に食わない。
二重人格のことを理解できないわけじゃない。
でも…
本人がまったく気にしていないのが、一番腹立つ。
「…お前って本当に面倒くさい」
「知ってる」
またページをめくる。
沈黙。
そして…
それは突然起こった。
劇的な変化ではなかった。
急な動きでもなかった。
ただ、自然に…
彼女は本を閉じた。
ふぅ、と小さく息を吐く。
そして、顔を上げた瞬間――
彼女の目には、まるで最初から勝者だったかのような、自信に満ちた光が宿っていた。
「まだベッドでゴロゴロしてるの? 男のプライドってそんなもの?」
声のトーンが変わった。
軽やかで、どこか遊び心のある調子。
彼女はゆっくりと伸びをし、小さくあくびを漏らした。
「まぁ、女に二回も負けたら、さすがに休みたくなるか」
「…お前、ほんとウザいな」
「知ってる」
肘をつき、顎を手のひらに乗せながら、ニヤリと笑う。
「でも認めるでしょ? 楽しかったんじゃない?」
…くっそ。
この顔。
この態度。
わかってやがる。
何も言わなくても、俺が何を考えているのか察してる。
正直…
今回の戦いは楽しかった。
負けたけど、楽しかった。
ハリエットはそれを知っていた。
ハリエットは、いつも知っている。
俺はため息をついて、顔をそむけた。
「…やっぱりお前は面倒くさい」
彼女は静かに笑った。
「それも知ってる」
そして、背もたれに寄りかかり、満足げに微笑んだ。
さっきまでの静かなハリエットは、もういない。
今ここにいるのは、戦闘中にいたハリエット。
会話の流れを支配し、決して主導権を譲らず…
そして、常に最後の一言を持っていく。
このハリエットは…
さっきのハリエットよりも厄介だ。
俺は黙り込んだ。
思考が堂々巡りする。
そして…
ため息と共に言葉を吐き出した。
「…教えてくれ。どうやったんだ?」
怒りはない。
ただ、純粋な…好奇心だけだった。
ハリエットは横目でこちらを見たが、すぐには答えなかった。
彼女の手は、さっき脇に置いた本の表紙の上に静かに乗せられていた。
開き直すことはなかった。
「レベルって何だ?」
俺の質問が空気に溶けていく。
待った。
何も返ってこない。
俺は唇を引き結んだ。
「どうして今まで知らなかった?」
それは彼女への問いではなかった。
それは俺自身への問いだった。
一瞬の間。
ふと、頭をよぎる考え。
姉さん…
「俺から隠していたのか?」
今まで考えもしなかった。
でも今は…
その可能性を否定できなかった。
ありえる。
これがすべて、俺がこの学園で知るべきことだったとしたら。
俺は顔を手で覆った。
質問が多すぎる。
ハリエットはまだ黙っていた。
まるで俺の独白が終わるのを待っているかのように。
やがて彼女は本の上に置いていた手を動かし、肘を椅子の肘掛けに乗せた。
そして少し前かがみになって、俺を見つめた。
そして、少し微笑んだ。
「終わった?」
俺は横目で彼女を見て、目を回した。
「ああ。」
「よし。」
「じゃあ、四つ目の質問の答えね…」
彼女は一瞬考え込むような間を置いてから、口を開いた。
「誰のことかは知らないけど、レベルっていうのはこの世界じゃ当たり前のものよ。だから、わざわざ本に書かれたりするようなものじゃないの。」
彼女は視線を少し横に逸らしながら、まるで当然のことを言っているような口調で続けた。
「もしかしたら、その人は言う必要がないと思っていたのかもね…誰にも分からないわ。」
軽くため息をつき、肩をすくめる。
「三つ目の質問に関しては…」
今度は、彼女の声にほんの少しだけ茶目っ気が混じった。
「分からないわね。こんな年齢になってまで知らないなんて、ちょっと変よね。」
彼女は目を細めながら、首をかしげた。
「もしかして、過保護に育てられたお坊ちゃまなのかしら? ねえ、アラシ?」
クスクスと笑みを浮かべながら言う。
「お母さんに守られながら育ったの?」
俺は何も言わなかった。
何も言えなかったわけじゃない。
彼女の言葉は、あながち間違っていなかった。
姉さんは、確かに俺をずっと守っていた。
「二つ目の質問に関しては…」
「レベルというのは、俺たちが持つスキルのみに適用されるものよ。魔法、剣術、圧力、錬金術、死霊術、その他すべて。だけど、それは強さや才能、努力の量に左右されるものじゃない。」
彼女はじっと俺の目を見つめながら言った。
「それは…もっと根本的なものなの。」
俺は黙ったまま待った。
説明を求めて。
だが、彼女は続けなかった。
続けられなかった。
言葉にできるものではなかったのかもしれない。
軽く息をつき、再び口を開く。
「みんな、それをただの事実として受け入れているのよ。自分のスキルレベルが相手より低い場合、その相手に勝つことは絶対にできない。それがどんなに強くても、どれだけ魔力や剣の腕があっても…関係ない。ただ、それがルールなの。」
彼女の声には、侮蔑も、説教じみた響きもなかった。
ただ、確信に満ちた事実を述べているだけだった。
「たとえ世界を焼き尽くせるほどの魔法を持っていたとしても…スキルレベルが低ければ、相手に勝つことはできないのよ。」
それは——
まるで絶対の法則のようだった。
「例外はないのか?」
ハリエットは少し考えるように首を傾げた。
「もちろん。違うスキルを使えば別よ。魔法で勝てないなら剣術を試す。他の能力で補うこともできるわ。」
「私の魔法耐性についても同じ。私は自分が知っている魔法しか無効化できない。見たことのない魔法、経験したことのない魔法には、何の抵抗もできないわ。」
「本当に何も?」
彼女は頷いた。
「何も。無効化できないし、軽減もできないし、耐えられもしない。ただの一般人と同じように、普通に影響を受けるわ。」
…その制約は思っていたよりも大きいな。
「じゃあ、もし相手のスキルレベルが自分よりも上だったら?」
ハリエットは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「私の魔法耐性は無意味になるわ。」
その答えは即答だった。
「レベル2の魔法を持つ相手に攻撃されたら、私は何の抵抗もできない。ただの無力な人間になるだけ。」
彼女は肩をすくめた。
「逃げるしかないわね。」
彼女の言葉には誇りもなければ、恥じる様子もなかった。
ただ、世界の仕組みを知り尽くした者の冷静な受け止め方だった。
スキルレベルが低ければ、絶対に勝てない。
見たことのない魔法には耐えられない。
それが、この世界の絶対法則。
厳しく、そして絶対的なルール。
ハリエットは微笑みながら俺を見た。
「それでも、よく頑張ったわよ、アラシ。」
俺は眉をひそめた。
「…は?」
「あなたと戦えて楽しかった。」
彼女は少し前かがみになり、俺をじっと見つめた。
「だから…」
彼女は手を差し出した。
「あなたに名誉を与えてあげる。私の友達になりなさい。」
俺は驚いた。
彼女は本気だった。
しかし、俺が何か言う前に…
彼女の笑みがさらに深くなった。
「ただし… その代わりに、ひとつお願いを聞いてもらうわよ?」
ハリエットを眉をひそめながら見つめた。
「どんな頼みごとだ?」
ハリエットはすぐには答えなかった。
彼女の笑みが少し消えた。
この会話の中で初めて…彼女は迷っているように見えた。
何かを隠しているわけではない。
ただ、彼女自身もその答えを知らないだけだった。
一瞬、視線を逸らし、適切な言葉を探しているようだった。
そして、ほとんど気の抜けたような口調で言った。
「分からない。」
驚いた。
「分からない?」
彼女は首を横に振った。
「この頼みごと…」
再び俺を見つめた。
「もう一人の私が感じているの。」
沈黙。
なぜか、その言葉に不安を感じた。
彼女も俺と同じように、何かを見失っているようだった。
ハリエットは椅子の背もたれに体を預け、しばらく天井を見上げた。
「彼女はいい子よ。」
その言葉に嘲笑はなかった。
どこか、正直な響きがあった。
「すごくて…私と同じくらいか、それ以上かも?」
少し眉をひそめながら、理解しきれない何かを考えているようだった。
「でも、私なのに…」
「何を考えているのか分からない。」
スカートの生地を無意識に指でいじりながら言った。
「彼女と同じ感情を持っているのは確かよ。」
数秒間、静寂。
「でも、考えは分からないの。」
ゆっくりと息を吐いた。
「それが…厄介ね。」
怒りはなかった。
苛立ちもなかった。
ただ、わずかな不快感だけがそこにあった。
ハリエットは手を軽く振った。
「この話はここまでにしましょう。」
彼女の声は軽い調子だったが、その視線の動きが微妙に違った。
俺はそれ以上突っ込まなかった。
ハリエットは腕を組み、微笑んだ。
「さて、最初の質問の答えだけど…」
「簡単よ。私が手に入れたのは、誰かに教わったから。」
俺は沈黙した。
答えが難しいわけじゃなかった。
むしろ、あまりにも単純すぎた。
「誰か…に教わった?」
「そうよ。」
彼女の声には迷いも、間もなかった。
「学園じゃない。本でもない。誰かが、魔法耐性とは何なのかを実際に教えてくれたの。」
微笑みながら、軽く首を傾げた。
「だから、私はそれを持っているの。」
まるで当たり前のことのように話していた。
俺は腕を組んだ。
「それじゃ、説明になってない。」
ハリエットは微かに笑った。
「あなたにとってはね。でも、私にとっては十分な説明よ。」
この会話の中で初めて…
彼女の視線が遠くを見つめた。
この部屋ではなく。
俺ではなく。
もっと遠い何かを。
届かない何かを。
記憶の奥深くを。
そして、彼女は目線を戻さずに静かに言った。
「知りたい?」
今度は、彼女の声は少しだけ小さかった。
ハリエットは数秒間、そのまま沈黙したままだった。
そして、不意に微笑んだ。
いつものハリエットに戻った。
椅子にゆったりともたれかかり、まるで自信に満ちたような口調で話し始めた。
「あなたと私は、すごい魔法使いになれるかもしれないわ。」
横目で俺を見て、イタズラっぽく笑った。
「名コンビになれるかもね。」
一本の指を上げて、空中で優雅に動かす。
「私はすごいの。」
そして、間髪入れずに俺を指差した。
「あなたもすごい…けど、私よりは劣るわ。」
俺は顔をしかめた。
「お前は本当にうざいな。」
「知ってる。」
彼女の笑みがさらに深まった。
「それで…どうする?」
俺は黙っていた。
ハリエットを見た。
伸ばされた彼女の手を見た。
これはチャンスだった。
どこまで行けるか分からない。
これが正しい選択かも分からない。
でも…
やってみよう。
俺は彼女の手をしっかりと握った。
「分かった、やるよ。」
ハリエットの指が、自信を持って俺の手を握り返した。
「賢い選択ね。」
彼女が手を離そうとした瞬間、俺は少しだけそれを引き止めた。
「でもその前に…」
ハリエットは首を傾げた。
俺は深く息を吸った。
「頼む、これでできることを見せてくれ。」
「何のこと?」
「俺が魔法を使うたびに…」
言葉を探しながら、一瞬間を置いた。
「効果が目立ちすぎるんだ。」
ハリエットが瞬きをした。
「あ?」
「マナの光、呪文名。周囲の人間にすぐ気付かれてしまう。」
俺は腕を組んだ。
「それを隠す方法を見つける必要がある。」
彼女は考え込んだ。
「…ふむ。」
目を閉じ、一秒ほど顎に手を当てた。
「魔力の光と詠唱の音を消したいのね…」
片目を開けて、俺を見つめる。
「何のために?」
「お前には関係ない。」
ハリエットは微笑んだ。
「あらあら、誰かさんは秘密があるのね。」
椅子に体を預けたまま、俺から目を離さなかった。
「でも手伝ってあげる。」
「魔力の輝きを消し、発動の音をなくす…」
彼女はまた考え込んだ。
そして、俺を見つめ、笑みを浮かべた。
「思ってるよりずっと難しいわよ。」
「できるのか?」
彼女の笑みがさらに深まった。
「もちろん。でも…」
「私流のやり方で教えてあげる。」
—
こうして、一日中ハリエットと過ごした。
計画していたわけじゃない。ただ、そうなった。
彼女は説明もろくにせず、俺をあちこち連れ回した。まるで、いつも誰かを自分のペースに巻き込んでいるように。
これは訓練ではなかった。肉体を鍛えるわけでも、戦闘の実践をするわけでもない。
彼女が教えてくれたのは、隠密魔法だった。
Veilbound Silence —— 魔法の発動音だけでなく、足音、囁き、動作、不要な音をすべて消す魔法。
Shadowflow Suppression —— 気配や物体、エネルギーの痕跡、空間の変化を目立たなくする魔法。透明化ではないが、それに近いものだった。
隠密魔法は、驚くほど奥が深かった。
ハリエットは「よくやった」とは言わなかった。
ただ、満足げに微笑んだ。まるで最初から結果を知っていたかのように。
……それが、どんな嘲笑よりも腹立たしかった。
—
そして今、俺たちは寮に戻っている。
夜風が心地よく、月の光が小道を照らしていた。
ハリエットは手を頭の後ろで組みながら、気楽に歩いていた。
「楽しい一日だったわ。」
すぐには返事をしなかった。
同意しないわけではない。ただ、今日学んだことをまだ整理できていなかった。
だが、俺が口を開く前に、彼女が続けた。
「もし何か嫌なことを忘れたいなら、私に言ってね?」
足が止まった。
……え?
忘れていた。
地下街のこと。
あの日、土曜日に起こったこと。
俺の表情が変わったのか、ハリエットは横目で俺を見た。
「知ってたのか?」
「いいえ、知らないわ。」
彼女は落ち着いた声で答えた。
「ただ、手伝いたかっただけ… ごめんね、思い出させちゃって。」
俺は一瞬、視線を落とした。
「……いや、大丈夫。」
静寂。
二人とも、何も言わず歩き続けた。
そして――
モアッ。
柔らかい音。
一瞬の感触が頬に触れた。
…
…
……ええええええええええええええええ!?
俺は硬直した。
脳がショートした。
エラー404:アラシ、応答不能。
何……?
今のは何だ……!?
まさか、ハリエットが……!?
首をギクシャクさせながら、ゆっくりと彼女を見る。
……普通に歩いている。
リラックスしている。
何事もなかったかのように。
現実が壊れるレベルのことをしておいて、まるで風が吹いただけみたいに。
「じゃあね、アラシ。」
そう言って、彼女は立ち去った。
何事もなかったかのように。
俺はそこに立ち尽くしていた。
完全にフリーズしていた。
……え?
え?
な、ななななななな何が起こった!?
思考がぐちゃぐちゃになった。
これは……遊びか?
罠か?
賭けか?
呪いか!?
頬に手を当てる。
……感触がまだ残ってる!!
なぜえええええええええええええええ!?
分からない。
理解できない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
今夜は悪夢を見なかった。
ただ、キスの謎に溺れながら眠りについた。
追伸:
また作者です。 これからは毎回の章で「作品が完結した」と書くことになりました。
理由は、両親が勉強に厳しく、もし見つかったら更新できなくなる可能性があるからです。
なので、今後投稿するすべての章は「完結」と表示されます。
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申し訳ありませんが、更新が遅れています。
今は両親を手伝っているので、投稿できるときに投稿します。
ただ、最低でも週に一回は更新する予定です。
時間があれば、新しい章を投稿することもあるかもしれません!




