第1話 ―プロローグ―
東京の六月の末は暑くて重く、そして夜はどこか冷え冷えとして寂しい。
海のにおいの風の代わりに、排気ガスと人間の生活臭がぐつぐつと煮えたスープのように混ざり合う湿気と、その上にしとしとと降り注ぐ生ぬるい汚れを含んだ薄い濁りのある雨は、やはり故郷の同じ季節よりも心に鬱陶しく、ざらりとした金属のような風味を感じさせる。
その梅雨の世界をビルだらけの窓の外に見ながら、藤枝紘輝は膝の間に抱えたストラトキャスターの入ったギグバッグを倒さないように気をつけつつ、中央線の座席から立ち上がると、それを周りの人にぶつけないように身体を縮こまらせて背負う。
晴れ間だった昨日とは違い、古着屋でもののついでに買ったサングラスを掛けていると完全に視界不良に陥る気がして、同じ店で手に入れたストーンズのTシャツの襟元にそれを引っ掛け、デニムのポケットからスマートフォンを出して改札をスムーズに通る準備をする。
やっと東京で暮らす人々の動作のスピードに追いついてきたが、それでもやっぱりどこかぎこちなくて鈍臭い部分は否めず、紘輝は駅に降りるたびに自分が田舎者だということを思い知りながら、精一杯の急ぎ足で歩くのだった。
紘輝が東京にやってきたのは、今年の三月頭の日曜日だった。
もちろんそれまで来たことがなかったわけではないが、腰を据えて暮らすという意味では全くの初めてで、周りに家族も親戚も知り合いもいない土地にこれから最低でも三年はしがみつくのだという決意と、その手を離したら一直線に落ちていくという恐怖の板挟みになりながら、最初の一週間をアルバイト探しに費やした。
四月になったら始まる、専門学校での授業への準備も怠らなかった。
今まで日付が変わるまで起きていられなかった身体を、重いジョッキを運んでキッチンと客席を往復しながら夜中まで酷使し、帰宅してからの身支度や練習を意地になってこなしては、授業の始まる時間に間に合うように起きられるリズムを作って、どうにかこうにか田舎の高校生から東京の若者へと無事にシフトチェンジし、彼は入学式を迎えることが出来たのだった。
プロのギタリストになりたい、という小学生の頃から密かに抱いていた夢を、高校三年の秋になってようやく両親に話すことができ、卒業したら家業である地元の老舗和菓子店を継ぐ、という約束を反故にされることになった父親と激しい親子喧嘩――それを聞いていた妹の祐華が胃痛で数日食事がまともにとれなくなるほどの――を繰り広げた末、母の執り成しによって三年という期限付きの上京期間をもぎ取り、彼はこの街にやってきた。
そのために選んだ専門学校は、自分と同じくギターを嗜む教師や、軽音楽部の顧問に評判を聞いて選んだ、そこそこ長い歴史のある学校だった。
もちろん、学校に行ったからといってプロになれるというわけではない。
ただ単に金と時間を浪費して終わってしまう確率のほうがずっと高いことを、うんざりするほど教師からも両親からも友達からも言われてきた。
そして、それは自分でも毎日言い聞かせている。
言い聞かせるたびに、紘輝は「そうなってたまるか」と心の奥底にふいごで風を送って、長い間じわじわと熾火で燻らせていただけの『情熱』から青い火を吹かせ、そこにあらゆる不安や心配や絶望を焚べてしまうのだった。
駅から歩いて十分ほどの場所にある校舎に近づくと、くすんだ透明のビニール傘の中から、自分と同じ様にギグバッグを背負って傘を差した背中が幾人か見える。
(この中の誰に負けてもいけないんだ。……上手いだけじゃダメだってのはわかってる。でも、上手くなったその先にしか、その言葉は通用しない。だからまずは、この中の誰にも負けないくらい上手くなってみせる)
紘輝は課題曲を挟んだファイルを入れたカバンの持ち手をぎゅっと握り、真っ直ぐに前を向いて、向かいからやってくるスーツ姿の人々を不器用に避けながら、校舎の入口を目指した。




