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第7章 勇者たちの再興。もうひとつの10・19〜⑩〜

 1988年秋、阪急グループは、ブレーブスをオリックスに売却することを発表。球団名は「オリックス・ブレーブス」に変わったが、マスコットはそのまま「ブレービー」が継続使用された。

 ところが二年後の1991年、オリックスは本拠地を西宮から神戸に移し、球団名を「オリックス・ブルーウェーブ」と名称変更することを決定。それにともなって、球団マスコットもギリシャ神話の海神ネプチューンをモデルにした「ネッピー」に一新されることになった。


 幸いなことに、外観や名前が変わっても「中の人」は変わらず、島野修のままだった。

 だが、約10年に渡って過ごした「ブレービー」から変えなければならない点も多かった。


 たとえば背番号。ブレービー時代は「年間100勝を目指して」の願掛けで「100」だったものが、ネッピーは「マスコットNo.1、リーグ1位、日本一」という三つの「1」を掛け合わせた「111」が採用された。


 また、着ぐるみの重さは10キロから12キロに、試合中のパフォーマンスもバイクから四輪バキーに変わった。ブルペンのマウンド傾斜を利用してジャンプするパフォーマンスが人気を呼んだが、視界の悪い着ぐるみのままで決行するバギージャンプは、想像以上の恐怖と体へのダメージを蓄積していった。


 実際、ネッピーとしてパフォーマンスを行った島野は、1993年のオールスターゲームでジャンプに失敗し、肋骨を三本折る大ケガを負う。それでもネッピーと島野は試合を休まなかった。


「僕の代わりは、誰にもできないよ」


 そう言って、公式戦再開後もサポーターで胸を補強した島野は、コルセットで締め付けて強行出場。その他、足を捻挫してもテーピングで固めて、たとえ40度の高熱が出ても、決して試合を休まなかった。過酷な労働環境のため、はじめてブレービーの中に入った時と比べて、10キロ以上も体重が落ちていたという。


 そんな島野の努力と節制の日々が、ある大記録を生み出すことになる。


 満身創痍になりながらも、ブレービー時代から一日も休まず球団主催試合に出続けた島野は、1996年6月15日、マスコットに入った「中の人」として前人未到の1000試合出場を達成した。チームの主催試合である年間65試合出場を16年間続けたことによって成し遂げた大記録だった。


 その日は、オリックス主催の札幌での試合だったため、チームが本拠地のグリーンスタジアム神戸に戻った最初の日曜日に表彰式が行われた。


 1994年のイチローのシーズン200安打達成時など、いつもは球団を代表して「花束を渡す」役だったネッピーと島野。だが、この日だけは「花束をもらう」立場になった。そして、チームを代表してイチローが挨拶をした。


「島野さんをはじめとする、裏方の人たちがいるからこそ、僕たちは一生懸命に野球をすることができます。これからも、ファンの皆さんに野球を楽しんでもらうため、頑張ってください。お願いします」


 球場に詰めかけた観客から大きな拍手が沸き起こった。普段は脇役であり、盛り上げ役であるネッピーが、はじめて「主役」になった日だった。


 それから3カ月後の9月23日――――――。


 グリーンスタジアム神戸は、ふたたび、歓喜に包まれる。


 同じ関西に本拠地を持つライバルであるバファローズで指揮をとっていた仰木彬監督に率いられたチームは、優勝へのマジックナンバーを「1」にして、この日を迎えていた。


 得点の取り合いとなった試合は、ブルーウェーブが1点ビハインドのまま9回2死。だが、代打D・Jが起死回生のホームランが飛び出し同点。

 

 そして、延長10回裏。


 この回の先頭打者、大島公一がライト前ヒットで出塁すると、迎えるバッターはイチロー。初球をファウルとしたあとの二球目――――――。


 アウトコース高めのボールを弾き返した打球は、レフト線への鋭いライナーとなり、あっという間に外野フェンスに到達する。長打でチャンス拡大……と誰もが感じた直後、外野手がクッションボールの処理にもたついている姿が目に入る。


 その瞬間、ブルーウェーブのベンチからは選手たちが飛び跳ねてグラウンドに躍り出た。


 三塁コーチャーは、グルグルと手を回し、一塁走者だった大島が一気に本塁へと生還。劇的なサヨナラ勝ちで優勝を決め、打球を放ったイチローは、二塁ベース付近で飛び跳ねて喜んだ。

 

 このとき、ブルーウェーブの選手たちに先駆け、真っ先に殊勲の天才打者に駆け寄ったのが、ネッピーだった。


 高校を卒業し、お笑い芸人を目指して養成所に通うようになっていた佐藤は、偶然この日のテレビ中継を観戦していた。球場での観戦から足が遠のき、すでに5年以上が経過していたが、選手たちに寄り添うマスコットの姿に、彼は胸が熱くなるのを覚えた。


 かつて贔屓にしていたチームの試合を熱心に観戦しなくなってからも、このシーズンの半ばに島野さんが、「中の人」として、1000試合出場を達成したというニュースは把握していたこともあって、佐藤は優勝決定のシーンを特別な感慨で見守る。


「ブレーブスは無くなっても、その魂は島野さんが受け継いでくれているんやな……」


 そう感じた彼は、この試合を見届けてしばらく経った頃、漫才のネタ作りのために立ち寄った図書館で一冊の書籍と出会う。それは、小学生向けに出版された児童書で、『それゆけネッピー! プロ野球マスコットにかけたゆめ』というタイトルだった。


 図書館の受付のそばに置かれていた書籍を目にした佐藤は、タイトルと表紙に惹かれて、何気なく本を手に取る。そして、パラパラとページをめくると、その内容に釘付けになった。


「ネッピーはプロ野球のチーム、オリックス・ブルーウェーブのマスコット。お客さんと一緒に選手を応援します。ネッピーの中に入っている島野さんは元プロ野球選手。野球場で夢を追い続ける島野さんの姿を描くノンフィクション」


 そんな説明書きがある本書の中盤には、こんな記述があった。それは、島野さんが、ブレービーとして活動を始めた頃のエピソードが書かれている場面だった。

 

 ★  ★  ★  ★  ★  ★

 

 修がマスコットをはじめて、一年がたったころのことです。


《ドラフト一位の島野、いまはピエロ》


 あるしんぶんが、修のことを、こんな記事にしました。ドラフト一位でジャイアンツに入団したのに、せんしゅとしてはかつやくできず、いまでは、すっかり落ちぶれて、ぬいぐるみにはいっている、というのです。

 それからというもの、観客席からとんでくるのは、声えんばかりではなくなりました。


「おーい、島野。そんななさけないこと、よくやってられるな!」

「ドラフト一位が、なくぞ! はずかしくないのか!」


 どんなに修が、がんばっても観客席からは、やじばかりがとんできます。しんぶんの記事をみて、ブレービーにはいっているのが、修であることをしった人たちが、からかっているのです。そんなとき、修は、ぬいぐるみのなかで、ぐっと、いかりをこらえるのでした。


 ある日、しあいがおわって、修は、西宮球場のちかくの食堂で、ばんごはんを食べていました。


 (まい日、まい日、きこえてくるのは、ぼくをからかうやじばかり……。お客さんたちが、みんな、ぼくをばかにしているようにみえるよ。)


 修は、すっかりおちこんでいました。ごはんも、のどをとおりません。


(やっぱり、せんしゅをやめたときに、野球のことは、わすれてしまったほうがよかったんだ。もう、マスコットなんて、やめてしまおう。こんどこそ、きっぱりと、野球とは、えんをきるんだ。)


 修が、そうかんがえていたときです。小学校二、三年生くらいの男の子が、お父さんといっしょに、お店にはいってきました。そして、修の隣の席に座りました。

 男の子が、お父さんにいいました。

 

「お父さん、きょうの野球、おもしろかったね。」

 

 修は、ちらっと、男の子をみました。


「でも、ぼくは、ブレービーが、いちばんおもしろかったよ。あしたも、ブレービーをみにつれてってね。」


 修は、おどろきました。もちろん、その男の子は、となりにいるのが、ブレービーのなかにはいっている人だとは、おもっていません。


「よし、まかせとけ。あしたも、あさっても、ブレービーをみにこような。」


 お父さんが、こたえました。男の子は、とてもうれしそうです。そんな男の子のえがおをみていると、修は、なみだがでてきそうになるくらい、うれしくなりました。


(ぼうや、ありがとう。)


 修は、心のなかで、その男の子におれいをいいました。そして、じぶんにむかって、はなしかけました。


(おい、ブレービー。こうやって、おまえをたのしみにして、野球場にきてくれるお客さんが、いるじゃないか。そんなお客さんの気もちを、うらぎるわけにはいかないぞ。……これからも、がんばろうな。)


 修の心に、ゆうきがわいてきました。


 つぎの日も、野球場では、ブレービーにむかって、修をばかにするようなやじがとんできます。でも、きょうのブレービーは、いつにもまして、元気です。やじをとばした人に、ちかづいていくと、ゆかいなしぐさで、おどけてみせるのです。

 まわりのお客さんたちが、たのしそうにわらいます。やじをとばした人も、さいしょはおどろいていました。けれども、ブレービーの元気なすがたをみているうちに、だんだんと、たのしそうなえがおになりました。


 くもん出版『それゆけネッピー! プロ野球マスコットにかけたゆめ』より


 ★  ★  ★  ★  ★  ★


 館内閲覧席に移動して、児童書を読みふけっていた佐藤青年に、幼い日の記憶が蘇る。


 それは、西宮球場そばの喫茶店「ひさご」での思い出だ。


 「お父ちゃん、今日の野球、おもしろかったな! でも、僕は、ブレービーがいちばん面白かったわ! 明日も、ブレービーを観に連れて来て!」


 父は苦笑いしながら、答えた。


「よっしゃ、まかせとけ! 明日も、明後日も、ブレービーを観にこよう! ―――ただし、お母ちゃんが許してくれたらな」


 あのとき、喫茶店の店内にブレービーの「中の人」がいたかどうかは、定かではない。

 そして、当時、西宮球場を訪れていた子どもたちなら、自分と同じような会話をしていたことだろう。

 

 ただ、自分の記憶がたしかなら、父とその会話を交わしたのは、ブレービーが登場した翌年の頃のことだった……。


(もしかしたら、あのとき、島野さんは――――――)


 そう考えると、佐藤の目からは涙があふれて止まらなくなった。

 図書館の蔵書を汚さないよう、注意深く本を閉じた青年は、鼻をすすり、涙をぬぐいながらこう思った。


(自分も、誰かを笑顔に出来るようにがんばろう)


 佐藤義徳(さとうよしのり)が、真剣にエンターテイメントの仕事に打ち込もうと考えたのは、この時の出来事がきっかけだった。


 閑散としていた西宮スタジアムとはうって代わり、いまや日本有数の集客力を誇るようになった大型ショッピングモールの一角、阪急西宮ギャラリーで、子ども時代、少年時代、そして、青年時代のことを思い返した彼は、島野さんのマスコット人生を描いた児童書に勇気づけられた日の気持ちを思い出しながら、すでに折り返し地点を回ったと感じる人生の先を見据えようと決意した。

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