第14話:勝者の休息、火花の予感(前編)
そして合宿当日の朝。
学園寮のエントランスで荷物を持ちながら、俺は掲示板に貼られたカレンダーを見上げていた。
楓は後から来るということで、俺とニャルだけ一足早く集合場所へ来ていた。
「……今日から5月なんだよな。ほんとにこの世界のカレンダー、きっちり全部30日で止まるんだな」
「はい。こちらの世界では“定型季節調整暦”が採用されています。一年は十二か月、各月三十日。計三百六十日で構成されています」
ニャルの方を振り向く。
ニャルは旅行だというのに、なぜか例の特注の黒制服を着ていた。機能的であれば服装にこだわりはないらしい。
「旅行の日の朝くらい、講義は勘弁してくれよ……」
ニャルの適応支援学習はいまだに毎晩続いている。せめて今日くらいは解放されたい。
しかしニャルは俺の気持ちなどお構いなしで、掲示板の下に貼られた8月のカレンダーを指差した。
「付け加えると、本世界の公転周期は約三百六十二・二五日。暦との差分である二・二五日を“補正日”により処理しています」
「補正日……あー、授業で聞いたような気もするな。なんだっけ、夏の変な日」
「“識域補正日”です。暦の記録範囲外に設けられた二日間――または閏年には三日間。8月のカレンダーを見てください」
8月15日の次の欄を見てみると、日付の入っていない空白のマスが三つ並んでいた。
「ほんとに“存在しない日”なんだな……」
「正確には“論理記録外”です。体感時間としては存在しますが、日付としての識別子が存在しないため、魔法文明では“世界と識域のズレ”を調整する期間と定義されています」
「つまり……ズレた主観を直す日?」
「簡易的に答えるなら、そうです。ちなみに、希望はこの暦構造と地質資源の関係を論じた論文――正式名称『暦構造と公転差異が堆積系鉱層に及ぼす中長期的影響』で、王都の学生表彰を受けております。通称、“暦と鉱層の進化論”です」
「……つまり、どういうことなんだ?」
さっぱりわからない。
「人間未満のあなたでもわかるように、ざっくり言いますと、このわずかな公転周期の短さのせいで植物の死層堆積が間に合わず、深層炭化が困難であったという仮説ですね。ニャルは合理的だと考えます」
「炭化……。つまり石炭が少ないってこと?」
「おお、あなたがそこに行きつくとは。想定外です。ようやくジャワ原人くらいには進化できましたね」
「せめてネアンデルタール人にしてくれよ……」
俺が肩を落としたところで、元気な声が背後から飛んできた。
「おっはようございまーす!」
希望だった。両手いっぱいの荷物を抱えて、スキップ寸前の勢いで近づいてくる。
「……荷物、多くね?」
「旅の身だしなみって大事なんです~。ほら、王族女子は準備も完璧じゃないと!」
その後ろからは、渚と鈴音も姿を現す。
渚は静かに、長い棒状のケースを肩にかけて歩いていた。
……アレ、なんかサイズといいバランスといい、もしかして――
あれ、みそぎちゃんなのか……?
カバー越しでも伝わってくる重量感と威圧感。
だが本人は無言。
こっちを見て、軽く頷いただけだった。
聞けない……怖くて聞けない……。
鈴音は相変わらずで、「おはー」と片手を挙げながら荷物を蹴って転がしてやって来る。
見た目は一番軽装なのに、一番カオスである。
「主、お待たせしました」
最後に現れた楓は、荷物を完璧にまとめ、背筋を伸ばして整然と立っていた。旅館のスタッフがここまで来てくれたかのようだ。
「よし、全員揃ったかな?」
「じゃあ、みなさん!」
希望が勢いよく手を挙げる。
「“親睦と訓練の旅”、いよいよ出発です!」
「強制参加だったくせによく言うよ……」
俺がぼそっと呟くと、希望が小声で近づいてきて、にっこり笑う。
「でも、先輩。ちょっとだけ、楽しみでしょ?」
――それはそのとおりだった。
保養所の周囲には、鮮やかな緑が広がっていた。
清々しい風が木々を揺らし、鳥のさえずりが静けさを際立たせる。
遠くには小さな湖が光を湛えながら横たわり、空はどこまでも澄み渡っている。
「着いたね!」
希望の弾んだ声に、俺たちは足を止めて風景を見渡した。
「おお……ここは……いい場所だな」
楓が目を細めて頷き、渚も「癒されますね」と笑う。
「うーん、風が気持ちいい! 心洗われるよ」
鈴音が両手を広げ、空を仰ぐ。
確かに鈴音は多少心を清められた方がいいかもな。
「何かいいたげだね、ゆーゆー」
ほんと勘鋭いなこいつ。
鈴音はさておき、本当にいい景色だ。
……うーん、なんか旅行って感じしてきた! 来て良かったかも。
「ちょうどよい頃合いですし、昼食にいたしましょう」
楓が一歩前に出ると、魔導保温箱を開いた。中から現れたのは、料亭の懐石を彷彿とさせる弁当の数々だった。
「……いつになくすごいね」
「主と皆様の行動に支障が出ないよう、朝より準備して参りました」
確かに俺が起きた時には、すでに厨房に立っていたな。
「さっすが楓! それじゃ、ありがたくいただきまーす」
いち早く手を合わせた希望に続き、それぞれが箸を取り、楓の弁当――というには豪華すぎる料理を食べ始める。
「ちょっ、これ旅館の夕食じゃん!? 彩り完璧! 香りまで優勝!」
鈴音がはしゃぎ、「……出汁が……完璧……」と渚が無言で手帳に何かを書き込み、希望は「やっぱり先輩につけるのやめて帰ってきてもらおうかなぁ」と真剣に考えていた。
みんなでレジャーシートを広げ、木陰のもとでゆっくりと食事を囲む。
やがて笑顔が増え、ささやかな団らんの空気が生まれていく。
俺は箸を止めて空を見上げた。
……落ち着くなぁ。
しかし、そんな安らぎはあまり長くは続かなかった。
昼食を終え、片付けも一段落した頃。
湖畔から少し離れた、開けた草地に自然と人が集まっていた。
「ねえ先輩」
不意に、希望が俺の前に立った。
両手を背中に回し、いつもの明るい笑顔で首を傾げる。
そのかわいらしい姿が放たれたのは、思いもがけない一言だった。
「せっかくだし、わたしも先輩と戦ってみたーい」




