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戦えない母は赤ちゃん抱いて異世界にいた  作者: くじら


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第2話:この森は私たちを拒まない



柔らかな光に包まれて、少し眩しくて目を覚ました。


木々の隙間から差し込む朝日が、洞の中まで届いている。


思っていたより、ずっと穏やかな朝だった。


「……あ、朝……?」


身体を起こすと、胸の中で遥斗がもぞりと動く。


「ん……」


小さく声を漏らし、ぱちりと目を開けた。


「おはよう、はるくん」


「ん、ばぁ〜キャハ」


その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


生きてる。ちゃんと、あの恐ろしい夜を越えられた。


ほっとして自分の手元を見て、私は首を傾げた。


「……あれ?」


森の中を丸一日歩き回ったはずなのに、服も靴も全く汚れていない。


汗をかいてベタついていたはずの肌はさらりとしていて、髪にも夜露の湿気がない。


不思議に思いながらも、私はマザーズバッグを開き、手早くオムツを替える。


次に、ミルクの準備。


調乳用の水筒を開けると、白い湯気がふわリと立ち上った。


「……まだ、熱い?」


昨日使ったはずなのに、お湯の量がほとんど減っていない気がする。


違和感はある。けれど、今は――


「ハルくん、ミルクだよ〜。上手に飲めてるね、偉い偉い」


遥斗は、何も知らずにゴクゴクと音を立てて飲んでいる。


この“おかしな状況”に助けられているのも事実。


私は心の中で、見えない何かにそっとお礼を言った。


ミルクを飲み終えた遥斗の顔をのぞき込む。


思い出すのは、昨夜のことだ。


あの巨大な影を吹き飛ばした、一瞬の衝撃。


「……金色、だった……よね……?」


一瞬だけ、この子の瞳が月と同じ色に光った気がした。


でも、いま私を見つめているのは、いつものくりくりとした可愛い黒い瞳だ。


「やっぱり見間違いかな……。異世界だし、私にも何か特典チートがあったりして?」


少しだけ、胸が高鳴る。


物語の主人公みたいに、ステータス画面が出たり、魔法が使えたりするのかも。


「カラコン要らずの美少女になってたりして」


思わず小さく笑いながら、マザーズバッグから手鏡を取り出して覗き込む。


「…………」


いつもの自分。寝不足気味の、ちょっとやつれた主婦の顔。


目も、髪も、何一つ変わっていない。


「……発動条件とか、あるのかな。えーっと……ステータス、オープン!」


真面目な顔で虚空に手をかざしてみる。


「……ぶぅ?」


腕の中の遥斗が、「ママ、何やってるの?」と言いたげな、不思議そうな視線を向けてきた。


「……だよね。何も起きないよね。恥ずかしいからそんな目で見ないで、はるくん」


小さくため息をつき、手鏡を仕舞う。


残念ながら、私自身には何の特殊能力もなさそうだ。


――でも。


遥斗のことは、別だ。


あの魔獣は、確かに遥斗が声をあげた瞬間に吹き飛ばされた。


「……はるくん、あなた……」


すやすやと二度寝を始めた顔は、どう見てもただの赤ちゃんなのに。


それでも、この子が私のたった一人の、命に代えても守るべき宝物であることは変わらない。


「……っと、考えてたらお腹空いちゃった」


ぐぅ〜、とお腹が派手に鳴り響く。


どんな異常事態でも、お腹は減るものだ。昨日の焼き魚や果物を、少し残しておけば良かったと後悔する。


けれど、私の考えを読んだかのように、洞の入り口近く――昨日、確かに“なかったはずの場所”に、それはあった。


葉で編まれたような、簡素な器。その中に、澄んだ水と、赤い果物。


「……また? 誰が……」


そっと近づき、覗き込む。


土も枯れ葉も混じっていない、綺麗な水だ。手ですくって飲むと、驚くほど冷たくて体に染み渡る。


次に林檎に似た果物をかじってみる。


「……えっ。これ……桃だ……」


見た目は林檎なのに、口いっぱいに広がったのはジューシーな桃の味だった。


偶然ではない。昨日の食事も、今日の水も。


「……やっぱり、誰か、いるの?」


問いかけるように呟くが、返事はない。


風が葉を揺らす音だけが返ってきた。


「……考えても仕方ないよね。まずはここを出なきゃ」


気持ちを切り替え、遥斗を抱き直して洞を出る。


今度は迷わないよう、洞のすぐ近くの木の幹に、ピンク色のガーゼハンカチの端を固く結びつけた。


「よし、これで大丈夫。まっすぐ、歩こう」


枝を避け、根をまたぎ、太陽の位置を確認しながら、同じ方向に進み続ける。


しばらくして、急に視界が開けた。


「あ……」


足が、ぴたりと止まる。


目の前にあったのは――見覚えのある、大人が一人入れるほどの大きな木の洞。


近づいて幹を見る。


そこには、私が結んだはずのガーゼハンカチが風に揺れていた。


「……なんで? 引き返してないのに……」


ゾク、と背筋が寒くなる。


方向を変えて、今度こそ慎重に、もう一度まっすぐ歩く。


――結果は、同じだった。


何度歩いても、どこへ向かっても、吸い込まれるようにこの木に戻ってきてしまう。


「出られ、ない……?」


完全に、この森に閉じ込められている。


じわりと恐怖が押し寄せてきたその時、遥斗が私の服を、小さな手できゅっと掴んだ。


「あぅ、あー」


怯える私を励ますように、遥斗は頼もしく声をあげる。


「……うん、大丈夫。大丈夫よ」


それは遥斗に向けた言葉であり、自分への言い聞かせだった。


焦って動き回って、遥斗に何かあったら取り返しがつかない。


「……今日は、ここに居るしかないかな。ここは雨風も防げるし、水も、食べ物もあるし……」


根拠はない。


それでも、不思議と昨日のような恐怖はなかった。


洞の前に戻り、腰を下ろした、その時。


ふわり、と。


背中を、柔らかな風が撫ていく。


その風の中に、昨日見たような淡い緑色の光の粒が、キラキラと名残惜しそうに踊っていた。


まるでお母さんの手を引くように、優しく、私を洞の中へと導く風。


見上げると、洞の周囲の草が、ほんの少しだけ手招きするように倒れている。


まるで――『ここにいれば安全だよ』と示しているみたいに。


「……気のせい、よね……」


そう呟きながらも、私の胸の奥には、じんわりと温かい安心感が灯っていた。


遥斗は、私の胸の中で、すでに穏やかな寝息を立てている。


森は、今日も静かだった。


私たちは、まだ何も知らない。


ここがどんな森なのかも、なぜ出られないのかも。


ただひとつ確かなのは――


この森の主は、私たちを拒んではいないということだ。

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