第1話:静かな森に母と子
更新は水曜日と土曜日の21:00です┏○ペコッ
いつもの道を、息子を連れて家に帰っていただけだった。
それは、本当に突然起こった。
商店街のざわめき。
行き交う人々の声。
アスファルトの匂いと、店先から漂う夕飯前の空気。
それらが、一瞬にして消え去った。
……いや。
消えたのは、私たちだった。
⸻
夕焼けの空を見上げ、視線を戻した瞬間。
まぶしさに思わず目をぎゅっと閉じる。
次の瞬間、足元がふっと軽くなった。
そして目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。
「……え?」
先ほどまで歩いていた商店街は、どこにもない。
見たことのない植物。
踏みしめる地面は、アスファルトではなく、整備もされていない土。
森特有の澄んだ空気が漂い、耳を澄ませば、葉が揺れる音だけが聞こえる。
不思議なほど、静かな森だった。
「どういうこと……? え……夢……?」
な、わけがない。
いくら育児で疲れているとはいえ、夕方の商店街で立ったまま眠るなんてありえない。
「まさか……誘拐? いや、一瞬でこんな山奥に連れてこられるわけがないし……。じゃあ、ここはどこ? 日本なの……?」
パニックになりそうな頭を必死に抑える。
ネットの小説でよく見る「異世界転移」なんて言葉が頭をよぎるけれど、そんな非現実的なこと、すぐに受け入れられるはずがない。
「とにかく、早くここを出なきゃ。何があるか分からないこんな森に、遥斗をずっと置いておけない。……早く、森を抜けなきゃ……」
こうして私の長い旅が始まる――
……というわけでもなく。
ただひたすらに、森の中を歩いた。
エコバッグとマザーズバッグを肩にかけ、生後数ヶ月の息子・遥斗を胸に抱いて。
「……母は強し、よね」
そう呟きながら、息を切らせて進む。
「こんな森……すぐ抜けられるはず……」
進めど進めど、景色は変わらない。
こんな状況でなければ、思わず立ち止まってしまうほど、綺麗な森だ。
「……これが、マイナスイオン……?」
呑気に深呼吸している場合じゃない。
「はるくん、大丈夫だからね〜。もうすぐ街に出る……予定だから〜」
少し離れたところから、小川のせせらぎが聞こえてくる。
時間に余裕があれば、耳を傾けていたかもしれない。
でも、空の色はすでに茜色から暗い紫へと移り変わろうとしていた。
私は歩幅を早める。
「……どこまで続くの、この森……」
汗を拭いながら、足を棒にして歩き続ける。
休みたい。でも、夜が迫っていた。
⸻
「……もう無理っ……」
気づけば日は完全に落ち、辺りは暗闇に包まれようとしていた。
幸運にも、大人が一人すっぽり入れるほどの大きな木の洞を見つけ、私はそこに滑り込むように腰を下ろす。
「はぁ……参ったなぁ……」
不安な顔をしたら、遥斗まで不安になってしまう。
私は無理やり笑顔を作った。
「大丈夫だからね。とりあえず、はるくんのミルク作ろうか〜」
暗闇の中、マザーズバッグの手触りを頼りに、手早く哺乳瓶と水筒を取り出してミルクを作る。
遥斗に飲ませながら、自分のエコバッグの中身を思い出して、思わずため息をついた。
……即、食べられるものがない。
今日の晩ご飯にするはずだった、豚肉と、ジャガイモと、人参。
「カレーのルーって……そのままかじって食べれるよね……」
そんな馬鹿なことを考えた瞬間。
ぐぅ、とお腹が切なく鳴った。
ミルクを飲み終えた遥斗が、小さな手を伸ばして私の服を掴む。
愛おしい温もり。でも、私の体力は限界近かった。
「ん〜、どうしたの〜。大丈夫よ、明日はもっと頑張って歩こうね……」
強烈な疲労感に襲われ、私は遥斗を抱いたまま、うとうとと深い微睡みに落ちていった。
⸻
どれくらい時間が経ったのだろう。
かさり、と小さな音。
葉が擦れ合う音とともに、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「……ん……?」
ゆっくり目を開けると、驚くほど体が軽い。
いつものひどい肩こりや先程までの疲労感が、すっきりと消え去っている。
「……なに、この匂い……」
空腹のせいで幻覚でも見ているのか、と思った瞬間。
木の洞のすぐ入り口、月明かりが照らす地面に、何かが置かれていることに気づく。
「……なに、これ……」
そっと触れると、驚くほど温かい。
大きな青い葉に包まれた、二つの包み。
開いてみると、中には林檎に似た赤い果物や木の実。
もう一方には、信じられないほど綺麗に、こんがりと焼けた魚が入っていた。
「……嘘……誰が?」
慌てて周囲を見渡す。
しかし、人の気配はない。
ただ――その温かい包みのすぐ周りだけ、夜なのに色鮮やかな見たこともない花が、まるで包みを守るように一斉に咲き誇っていた。
そして、空中にキラキラとした光の粒が名残惜しそうに漂い、すうっと消えていく。
それはまるで、おとぎ話に出てくる妖精か精霊が、こっそり置いていってくれたかのような、あまりにも幻想的な光景だった。
「……なに、これ。魔法、みたい……」
クゾクとするような、不思議な高揚感が背中を駆け抜ける。不気味だけど、どこか温かい。
でも。
今の私には、この怪しい食べ物を拒否する余裕なんてなかった。背に腹は変えられない。
「……神様か、それとも、親切な妖精さんか分からないけど……いただきます」
果物を口に入れた瞬間、あまりの美味しさに、じわっと涙が出そうになった。
「おいひぃ……!」
「あぅ?」
「はるくんは、まだダメよ?まだ安全か分からないから」
果物を少し潰して食べさせられるか一瞬考えたけれど、すぐに首を振る。
異世界の、しかも誰が置いたか分からない食べ物だ。
安全だと分かるまでは、絶対に遥斗には触れさせられない。
お腹が満たされると、ふと奇妙なことに気づいた。
夜の森なのに、全く寒くないのだ。
むしろ、ぽかぽかと温かいベールに包まれているような安心感がある。
「それにしても……全然、寒くない……」
満腹になった遥斗が、再びうとうとと目を閉じる。
その寝息を聞きながら、私は木の洞から夜空を見上げた。
雲の隙間から、青と紫に輝く、二つの月が並んで浮かんでいる。
「……月が、二つ……」
それを見た瞬間、すとん、と胸に落ちてきた。
現実逃避は終わりだ。
ここは日本じゃない。
「やっぱり……本当に、異世界なんだ……」
そう呟いた、次の瞬間だった。
――ぞわり。
背筋を撫でるような、冷たい感覚。
森の空気が、変わった。
さっきまで静まり返っていた森が、
まるで息を潜めるように、ぴたりと音を止める。
「……?」
そのとき。
闇の奥で、何かが動いた。
どすん。
地面が、微かに揺れる。
「……え……?」
目を凝らす。
暗闇の中、木々の隙間に――
巨大な影。
それは、ゆっくりとこちらを向いた。
ぎらり。
二つの光る瞳。
喉の奥から、低い唸り声が響く。
「……嘘……」
体が動かない。
逃げなきゃ。
でも、足が震える。
遥斗を強く抱きしめる。
「……来ないで……お願い……」
影が、一歩踏み出す。
地面が大きく揺れた。
どくん、と心臓が跳ねた。
私はなりふり構わず、木の洞の隅へ這いつくばり、遥斗の上に覆い被さる。
(嫌。来ないで。私ならどうなってもいい。でも、この子だけは――!)
武器なんてない。
魔法なんて使えない。
私はただの、母親だ。
背中に迫る圧倒的な死の気配に、ぎゅっと目を閉じる。
――その瞬間。
私の腕の中で、すやすやと眠っていたはずの遥斗が、もぞりと身動ぎした。
「あぶぅ〜」
場違いなほど無邪気な声。
驚いて目を開けると、遥斗がぱちりと目を覚まし、私を見てふわりと笑った。
その瞳を見た瞬間、息が止まる。
私に似たはずの、遥斗の瞳。
それが、夜空に浮かぶ二つの月と全く同じ、神秘的な金色に輝いていた。
「え……、はる、くん……?」
大丈夫だよ、と母親の私を安心させるように、遥斗が小さな手を空へ向ける。
次の瞬間、ごうっと森の空気が震えた。
木々が一斉にざわめき、巨大な影が恐怖に縛られたようにぴたりと止まる。
次の瞬間。
――ドンッ!!!と、空気が弾けるような衝撃。
空気が爆発したかのような衝撃波。
巨大な影は咆哮をあげる暇さえなく、一瞬で闇の奥へと吹き飛ばされて消えた。
激しい風が通り過ぎ、再び静寂が戻る。
「……な、に……?今の……」
呆然としながら、恐る恐る腕の中を見る。
「あ、うー?」
そこにいたのは、いつも通りの、くりくりとした黒い瞳で見つめてくる遥斗だった。
金色に光ったような気がしたのは、本当に一瞬のこと。
「……気の、せい……よね?」
夜空に浮かぶ、二つの月の光が反射しただけ。
私が見間違えただけ。
だって、生後数ヶ月の私の赤ちゃんが、あんな化け物を吹き飛ばすなんて、あるわけがない。
遥斗は何事もなかったように、ふにゃあ、とあくびをして、再びすやすやと眠りに落ちてしまった。
――でも。
確かに、あの瞬間、森全体の空気が変わったように見えた。
私の腕の中にいるのは、本当に、私の知っている「はるくん」なのだろうか。
月明かりに照らされる息子の寝顔を見つめながら、私は答えの出ない震えを抱きしめる。
夜空の二つの月が、ゆっくりと瞬いた。
こうして、私たちの異世界生活は、
“静か”では済まないと知ったのだった。
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