第2話:この森は私たちを拒まない
柔らかな光に包まれて、少し眩しくて目を覚ました。
木々の隙間から差し込む朝日が、洞の中まで届いている。
思っていたより、ずっと穏やかな朝だった。
「……あ、朝……?」
身体を起こすと、胸の中で遥斗がもぞりと動く。
「ん……」
小さく声を漏らし、ぱちりと目を開けた。
「おはよう、はるくん」
「ん、ばぁ〜キャハ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
生きてる。
ちゃんと、夜を越えられた。
森の中だというのに、寒さは感じない。
夜露に濡れているはずなのに、服も髪も、しっとりしていなかった。
あれだけ歩いたのに、服も靴も汚れていない。
汗をかいていたはずなのに、肌はさらりとして、不快感もない。
「……不思議……」
思わず、そう呟く。
あたりは静かだった。
昨日と同じくらい――いや、それ以上に、静かすぎる。
鳥の声は聞こえる。
けれど、どこか遠く、輪郭の曖昧な鳴き声だった。
私はマザーズバッグを開き、手早くオムツを替える。
次に、ミルクの準備。
湯は――まだ、温かい。
「……良かった……」
ほっとした直後、ふと気づく。
「……あれ?」
減っていない。
昨日使ったはずなのに、ほとんど変わっていない。
「……まあ、今はいいか」
違和感は確かにある。
けれど、今は――
「ハルくん、ミルクだよ〜。上手に飲めてるね、偉い偉い」
遥斗は、何も知らずに、ごくごくと飲んでいる。
不思議なことばかりだ。
でも、この“おかしな状況”に助けられているのも事実で、私は心の中で、そっとお礼を言った。
思い出すのは、昨夜のこと。
焼き魚。
果物。
誰が置いたのか分からない食事。
夢だったのだろうか、と一瞬思う。
けれど、その考えはすぐに否定された。
洞の入り口近く。
昨日、確かに“なかったはずの場所”に――それはあった。
葉で編まれたような、簡素な器。
その中に、澄んだ水が満たされている。
「……水……?」
そっと近づき、覗き込む。
土も、枯れ葉も混じっていない。
信じられないほど、綺麗な水だった。
思わず手ですくい、口に含む。
「……冷た……」
そして、ちゃんと、美味しい。
偶然、ではない。
昨日の食事も。
今日の水も。
「……やっぱり、誰か……いる……?」
問いかけるように呟く。
返事はない。
風が、葉を揺らす音だけが返ってきた。
私は首を振り、気持ちを切り替える。
「……考えても仕方ないよね」
まずは、森を抜ける。
それが最優先だ。
遥斗を抱き直し、洞を出る。
朝の森は、やっぱり綺麗だった。
光に照らされた木々は瑞々しく、深呼吸したくなるほど空気が澄んでいる。
「……行こう」
今度は、目印をつけた。
洞の近くの木の幹に、ガーゼハンカチの端を結ぶ。
「これで……大丈夫」
そうして、まっすぐ歩く。
枝を避け、根を跨ぎ、同じ方向に進み続ける。
しばらくして、視界が開けた。
「あ……」
そこにあったのは――
見覚えのある、大きな木。
洞のある、あの木だった。
「……え……?」
足が止まる。
近づいて、幹を見る。
結ばれたままの、ガーゼハンカチ。
「……なんで……?」
引き返した覚えはない。
道を曲がったつもりもない。
それなのに。
「……もう一回……」
方向を変える。
今度こそ。
――結果は、同じだった。
何度歩いても、戻ってくる。
どこへ向かっても、この場所に。
「……出られ、ない……?」
胸の奥が、じわりと冷える。
その時、遥斗が私の服を、きゅっと掴んだ。
「……大丈夫」
それは、遥斗に向けた言葉で。
同時に、自分自身への言い聞かせだった。
焦っても、どうにもならない。
無理に動いて、遥斗に何かあったら――それだけは、絶対に駄目だ。
「……今日は、ここにいよう」
洞は、雨も風も防げる。
水もある。
……食べ物も、きっと。
根拠はない。
それでも、不思議と怖くなかった。
洞の前に戻り、腰を下ろした、その時。
ふわり、と。
背中を、柔らかな風が撫でた。
押されるような、導かれるような感覚。
見上げると、洞の周囲の草が、ほんの少しだけ倒れている。
まるで――
「ここにいればいい」と示すみたいに。
「……気のせい、よね……」
そう呟きながらも、胸の奥に、小さな安心が灯った。
遥斗は、すでに眠っている。
穏やかな寝息。
森は、今日も静かだった。
私たちは、まだ何も知らない。
ここが、どんな森なのかも。
なぜ、出られないのかも。
ただひとつ確かなのは――
この森は、私たちを拒んではいない。




