第1話:静かな森に母と子
いつもの道を、息子を連れて家に帰っていただけだった。
それは、本当に突然起こった。
商店街のざわめき。
行き交う人々の声。
アスファルトの匂いと、店先から漂う夕飯前の空気。
それらが、一瞬にして消え去った。
……いや。
消えたのは、私たちだった。
⸻
夕焼けの空を見上げ、視線を戻した瞬間。
まぶしさに思わず目をぎゅっと閉じる。
次の瞬間、足元がふっと軽くなった。
そして目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。
「……え?」
先ほどまで歩いていた商店街は、どこにもない。
見たことのない植物。
踏みしめる地面は、アスファルトではなく、整備もされていない土。
森特有の澄んだ空気が漂い、耳を澄ませば、葉が揺れる音だけが聞こえる。
不思議なほど、静かな森だった。
「どういうこと……? え……夢……?」
な、わけがない。
いくら育児で疲れているとはいえ、夕方の商店街で立ったまま眠るなんてありえない。
私は一つの結論に行き着く。
「……これ、異世界転移?」
そう口にして、背筋がぞっとした。
慌てたところで、どうにもならない。
「とりあえず……森を抜けなきゃ……」
こうして私の長い旅が始まる――
……というわけでもなく。
ただひたすらに、森の中を歩いた。
エコバッグとマザーズバッグを肩にかけ、生後三ヶ月の息子・遥斗を胸に抱いて。
「……母は強し、よね」
そう呟きながら、息を切らせて進む。
「こんな森……すぐ抜けられるはず……」
進めど進めど、景色は変わらない。
こんな状況でなければ、思わず立ち止まってしまうほど、綺麗な森だ。
「……これが、マイナスイオン……?」
おっと、呑気に深呼吸している場合じゃない。
「はるくん、大丈夫だからね〜。もうすぐ街に出る……予定だから〜」
少し離れたところから、小川のせせらぎが聞こえてくる。
時間に余裕があれば、耳を傾けていたかもしれない。
でも、空の色はすでに茜色だった。
私は歩幅を早める。
「……どこまで続くの、この森……」
汗を拭いながら、足を棒にして歩き続ける。
休みたい。
でも、時間は待ってくれなかった。
⸻
「……もう無理っ……」
気づけば日は落ち、夜になろうとしていた。
幸運にも、大きな木の洞を見つけ、私はそこに腰を下ろす。
「はぁ……参ったなぁ……」
不安な顔をしたら、遥斗まで不安になってしまう。
私は無理やり笑顔を作った。
「大丈夫だからね。とりあえず、はるくんのミルク作ろうか〜」
マザーズバッグに手を伸ばし、手早くミルクを作る。
遥斗に飲ませながら、エコバッグの中身を思い出して、思わずため息をついた。
……即、食べられるものがない。
まさか、こんなことになるなんて。
「カレーのルーって……そのまま食べられるのかな……」
そんな馬鹿なことを考えた瞬間。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
ミルクを飲み終えた遥斗が、小さな手を伸ばしてくる。
「ん〜、どうしたの〜。大丈夫よ」
明日は、もう少し頑張って歩こう。
そう心に決め、遥斗を抱いたまま、私はうとうととまどろみに落ちていった。
静かすぎる森。
不安がないと言えば、嘘になる。
それでも、ここまで来て、生き物の気配は一切なかった。
あるのは、土と草と木だけ。
澄み切った空気。
……それにしても、疲れた。
お風呂、入りたいな……。
そう思いながら、目を閉じる。
⸻
どれくらい時間が経ったのだろう。
かさり、と小さな音。
葉が擦れ合う音とともに、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「……ん……?」
ゆっくり目を開け、体を伸ばす。
「……なに、この匂い……」
空腹のせいで幻覚でも見ているのか、と思った瞬間。
足元に置かれたものに気づく。
「……なに、これ……」
そっと触れると、温かい。
葉に包まれた二つの包み。
開いてみると、中には林檎に似た果物や木の実。
もう一方には、こんがり焼けた魚が入っていた。
「……嘘……」
誰が?
どうして?
一瞬考えたけれど、ここは異世界だ。
神様でもいるのだろうか、なんて思う。
……もしそうなら、ここに連れてきたのは、ずいぶん意地悪な神様だ。
でも。
空腹には、勝てなかった。
「……ま、いっか」
私は手を合わせる。
「いただきます」
口に入れた瞬間、思わず声が出た。
「おいひぃ……!」
「はるくんは、まだダメよ?」
果物を潰して食べさせられるか、一瞬考えて、すぐに首を振る。
異世界の食べ物だ。
安全だと分かるまでは、慎重にならないと。
「それにしても……全然、寒くない……」
異世界だから?
それとも……。
満腹になった遥斗が、再びうとうとと目を閉じる。
その寝息を聞きながら、私は夜空を見上げた。
星々の間に、二つの月。
「……月が、二つ……」
やっぱり、ここは異世界なんだ。
それなのに、不思議と危険は感じなかった。
ふわりと温かな空気に包まれながら――
こうして、私たち親子の異世界生活一日目は、静かに幕を開けた。
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