40章 暴虐の姫君
梶樹の声も虚しく、咲は繭愛に向かって手のひらを返すようにして空を薙いだ。
刹那。繭愛の手前寸前の地面が、まるで巨人に踏み抜かれたように大きく陥没した。コンクリートの鉄橋を破壊するだけの威力が、咲にはある。
「……兄様」
「咲っ……!今、繭になにしようとした……!?」
繭愛に今のが直撃しなかったのは、梶樹がギリギリのところで咲の手を抑えたからだった。近づいているだけなのに、身体に妙な圧迫感が押し寄せてくる。
「だったら、なんですの?今の兄様は彼女に毒されておいでです。私がその幻を打ち砕き、正気に戻して差し上げますわ」
「……っ、いい加減、目を覚ませよ咲!俺は毒されてなんかない!繭がそんなことするわけ……
「ああ、また。兄様のそれが毒されているというのですよ」
咲は梶樹の手を振り払い、スカートを払うと今度は梶樹に手のひらを向けた。
「!!?」
急に、唐突な圧迫感が梶樹の身体を襲った。誰かに抑えつけられているような感覚が、五臓六腑を巡回する。
息が苦しいと感じたのは早かった。肺が強制的に圧迫され、呼吸がひどく辛いものになっている。しまいには立ち続けることすら叶わず、うつ伏せになって倒れてしまった。
「おにぃ!」
「ま、ゆ……!来るな……」
繭愛が近寄ろうとするのを、梶樹は絶え絶えの息から止めるように声を絞り出した。発音することすら億劫に感じる不可視の力、見えない枷。
(これが……咲の能力……!)
身動きさえ取れなくさせる強力な力。鉄橋が陥没したのも、この力のせいだと考えれば辻褄があう。しかも、梶樹に対しては陥没させない程度の力で抑えつけている。
つまり、陥没させるほどの圧力はこれの比ではない破壊力がある。捕まったらあの世行きは避けられないだろう。
「ご容赦くださいませ、兄様。駆除が終わるまでの辛抱ですので」
まったく悪びれのない、穏やかな表情で、咲は笑った。躊躇いなど毛の先ほどもない、純粋な微笑み。それが、今は逆に恐ろしかった。
「まてっ……咲……!こんなことして……なんになるんだ」
「兄様を正気に戻す。それだけですわ」
さっと一瞥をくれると、もう一度繭愛に向かって、腕を上げる咲。繭愛のほうも警戒しているのか、光の帯がまた再熱している。周囲を囲い込むそれが鉄橋の柵にあたる度に、鮮やかな火花がちろちろと覗いていた。
「……おにぃを……離して!」
「それではご機嫌よう、そしてさようなら」
咲の金の髪から極小に砕かれた粒子が地面に墜落し、繭愛の銀の髪から何本もの光の帯が、青白い火花を散らす。
二人の視線が拮抗し、衝突ーー一瞬で弾けた。……かに思えた。
「姫ぇ〜!ここにいたんですか、姫えー!」
突如として現れた乱入者に、三人の注意が集中する。丸々とした、恰幅のいい、中年半ばの男性。それは、覚羅と魅緒から逃れてきた豚男だった。
「誰だ……?」
梶樹は疑問に思って、その男の動向を見据えた。見知らぬ相手ということは敵側のチーム、つまりは咲のチームメイトということになるが……
(どう見てもおっさんなんだよな……)
もしかすると、比較的同年代でチームを組めた自分たちは、実はかなりの幸運だったのではないかと思った。どう考えても咲と豚男の年齢は、下手をすると親と子ほども離れているかもしれない。
なおかつ繭愛と同じチームに集まったとすると、それはもう広大な砂漠から一粒のピーナッツを拾いあげるほど至難の技だろう。
(ひょっとすると、ゲームマスターの仕業かもな)
あり得る。口調は固いが、実際は楽しみを最優先する少年のような人柄なあの人なら、やりかねない。
そんなことを考えていると、ふいに咲が豚男に話しかけた。とても、嫌そうな顔で。
「岩永さん……私は別行動だと申したはずですが、いったいなんの御用でしょうか?」
イワナガ、と呼ばれた豚男ーー本名岩永満は、縋るような勢いで咲に懇願した。
「姫っ、おらたちが見つけた相手がそれはもう強くって……姫に潰してもらいにお願いしにきた次第だよ」
その発言に、梶樹と繭愛は即座に反応した。
(十束、か……?)
そうとしか考えられない。この男は、覚羅にやられそうになったところを助けを求めにやってきた。こんなところだろう。だとすると、少なからず魅緒も同伴しているはずだった。
(まずい……!咲を行かせたら、二人が……)
戦況は分からないが、咲がついていってしまったら、覚羅も魅緒も無事にはいられないだろう。能力の相性からいって、悪すぎる。
近接戦では無類の強さを誇る覚羅の弱点は、遠距離からでも行使できる念力系の能力。拳が振るえない相手には、勝ち負け以前にまともな勝負にならない。
しかし、咲は豚男の懇願を振り払うようにそっぽを向くと、もう一度繭愛に向かい直った。
「興が削がれましたわね、では覚悟なさいませ、繭愛さん」
「ひ、姫っ!?」
豚男は慌てふためいて咲の前に踊り出る。両の手を合わせ、再度懇願をするその姿は、神にお告げを求める信者そのものだった。
「どうして……チームのピンチなんだよ?どうして助けに来てくれないだよ……」
すると、咲は舌打ちをして豚男の身体を踏みつけた。ひっ、という怯えた声の下、容赦ない蹴りが豚男に叩きこまれる。
「私は、貴方たちとは馴れ合わないとはっきり申したはずですが?それでも助けを求めるなんて、貴方にはプライドという矜持がないのですか?」
「ぶっ!い、いや……おらは姫の騎士で……」
「私の騎士はここにいる兄様だけですわ!貴方如きが自惚れないでくださいまし!」
なおも容赦ない連打を浴びせる咲。だがそれとは対照的に、豚男の表情はみるみるうちに惚けたものになっていく。
「ぶっ、ぶへ……ごめんなさい、姫ぇ……おらが間違ってましたぁ……。ああぁ、いい……もっと、もっとおらにお仕置きしてくださいぃーー!」
蹴られながら嬉々とした表情を見せる豚男に、その場の全員が顔をひきつらせた。
ーー気持ち悪い、という感情が先んじたのだろう。ドMな豚男の恍惚したその様に嫌悪を抱いたからこそ、梶樹も繭愛も、まさかこうなるとは思ってもみなかった。
「……本当に意地汚いお人ですわね……。いいですわ、いっそのこと、とっておきのお仕置きを差し上げますわ」
そういうと、咲はほサンドバッグと化していた豚男への蹴撃を止め、その手を振りかざした。
次の、瞬間。
「ぐびぃいいぃぃ!?」
豚男の周囲に、とてつもない圧力がかかる。梶樹に使った力とは比較にならないほどの圧倒的な圧力に、豚男はなす術なく地に倒れ伏した。
豚男の関節から、口から、目から、ぶしゅぶしゅと耳障りな音を立てて血が吹き荒れる。
「さ、き……!やめろ、そんなことをしたら……!」
梶樹が続きをいう暇もなく、咲が豚男に最後の言葉を告げた。
豚男の周りの地面が陥没し、大きな穴を作る。
「ご機嫌よう。今度はもっと良い人に生まれ変わってくださいまし」
「あっ……ぶっ……ぶふうぱぁぁああー!」
ぶちゅん。
聞くに耐えない断末魔をあげたあと、豚男の身体が床に落とした陶器のようにぐちゃりとひしゃげーー潰れた。破裂した水風船のように、大量の赤い血潮が吹き上がり、爆散する。
しかし、吹き出した赤い命の体液は、不思議と広がることはなく、豚男の周りにびちゃびちゃと還っていく。
僅か数分。たったそれだけの時間で、豚男はこの世からあっけなく消え去ってしまった。
「さ…………き……?」
梶樹の視界が暗転し、暗黒に染まった。




