39章 嫉妬
「どういう意味だ、それ……!」
咲が出した不幸という言葉は、繭愛にとってはナイフで身を切るような痛みを催す、呪いの言葉だった。決して触れてはいけない忌むべきタブーに咲は触れた。梶樹が咲にこの感情を向けたのも、無理はない。
怒りが声に滲む梶樹を言い聞かせるような物言いで咲は続けた。
「頼られる、それは兄様にとってはこの上ない自信に繋がるかもしれません。しかし、それは兄様のためにも、彼女のためにもなり得ませんよ?」
繭愛を示し、続ける。
「繭愛さんが本当に兄様を兄として見ているのなら、あんな行為は致しません。私ならば、節度をもって接します。あのような行いは尻軽な女と捉えられかねませんので」
さらに続ける。
「正妻たる私を前にして兄様が他の女と抱き合うなど、言語道断!自らの感情を満たしたいがために兄様に近づく害虫を見逃すほど、私は甘くありませんことよ」
「繭はそんなこと思ってない!俺だって……繭がいるから今日までを生きてこれたんだ。父さんと母さんが交通事故で亡くなって……絶望してた俺を助けてくれたのは、繭なんだよ!」
梶樹の言い分に心を突かれたか、それともショックを受けたのか、咲は僅かだが動揺の色を見せた。しかしその波もすぐに掻き消えてしまう。
「……それについては同情致します。ですが兄様、傷つき弱った心に入り込むのは売女のすること。私には遠く及びませんわ」
「…………っ!!」
……どうして。どうして咲はここまで繭愛を毛嫌いするのだろう。梶樹にはその意図が全く読み取れない。咲の中での繭愛は、自分が知らないうちに兄様の心を掴んだ外敵ーー。それが言葉の節々に色濃く反映されている。
「ちがう……っ!おにぃは……おにぃはわたしの側にいてくれるっていってくれたもん……!たとえ不幸になるとしても、一緒にいてくれるって……!」
繭愛を取り巻く雷光のオーラは、もう目に見えるほどに巨大化していた。行き場を失った青白い光の帯は、天へと昇ってますますその存在感を際立たせている。
「いうでしょうね、兄様は優しいですから。……私も、その優しさに救われました。何もなかった私に、光を与えてくださいました……」
「咲……だったらどうして……」
「ですが!いい改めるつもりはございません。貴女はそんな兄様の優しさに付け入り、妹という立場を私から奪い去った。私があれほど切に願っていた兄様とくっついていた貴女を……許せるわけがありませんわ!」
感情の爆発。咲のいうそれはつまり、私がいない間になに彼氏に近づいてんの!私の彼氏なんだから触らないで!という、独占欲。
しかも、厄介なことに恋慕というのは自身の非を顧みることができない。かのフランスの小説家、スタンダールは語る。恋は熱病のようなものであると。いわく、人の生きる意味は幸せになることにある。そして幸せになることとは、誰かを身を焼かれるほど恋し慕うことであると。
いうなれば今の咲もそれに同じ。口ではなんだかんだといっていても、結局のところは"愛"という優しさを都合よく解釈するエゴイズムだ。
咲の態度はあまりにも傲慢すぎた。
「あなたに……なにがわかるの」
ゆらり。繭愛の華奢な体躯が陽炎のように小さく揺れる。胸がきつく締め上げられる感覚に、繭愛は必死に耐えた。耐えて耐えて……けれど、もうそれも限界だった。
「わたしと、おにぃを……わかったようにいわないで!!」
繭愛の叫びとほぼ同時、周囲の大気が膨れあがり、強風を呼び起こした。轟々と吹き付ける見えない力ーー風力は、繭愛の周りを旋回し流れを生み出す。
それでも咲は一歩もひかず、再び嘲ったような笑みを作り上げた。口の端が吊り上がり、不敵に笑うその様は大衆から見れば絵になることだろう。だが梶樹にとっても繭愛にとっても、それは歪んだ微笑みだった。
「聞き分けのない子ですわね……貴女が兄様に縋れば縋るほど、兄様は傷つき身を滅ぼすといっているのですわ。真に兄様を想うのであれば、ここは身を引くのが正しい道ではないのでしょうか?」
その言い方に、梶樹は妙な違和感を覚えた。咲のいっていることはとにかくメチャクチャなのに、本当に謎だがどこか説得力がある。おおよそ推察で出せるものではない。
「……縋るっていうなら、お前はどうなんだ咲。俺を必要としているのは繭と変わらないだろう!」
「いいえ兄様、私は縋るだけの惰弱な女などではございません。共に力を合わせてこそ真なる愛は育まれるもの。ならば私は兄様の側にいるだけでなく、尽くす限りの助力をするのが正当でございます。それにそれだけの力を、私は持っているのですから」
「……っ!」
助けあうのが、真の慈しみ。一方的な愛情だけでは成立しないーー。それは確かに正しいことなのだろう。片方だけの恋慕ならば片想いなのだから。しかし、それはーー。
「……咲。お前も、なんだろう?」
「……どういうことですの?」
「お前が俺を好きっていうなら、俺は今のお前には何も感じない。……本当に、変わったんだな」
「なっ……嘘をおっしゃらないでください!あの夏、確かに私に約束してくれたではありませんか!私は貴方のもの。それは裏を返せば、貴方は私のものということでーー
「俺の大事な妹を傷つけるようなお前を、俺が選ぶわけないだろ」
「そ、それは……!」
「……悪いが、咲。今のお前は傲慢すぎる。それに、俺は他の人を無意味に傷つける奴と仲良くなんかできない。もちろんそれが繭愛でなかったとしてもだ」
「………………………………」
梶樹は心から咲を拒絶した。繭愛のためでも、自分を守るためでもなく。咲を、救うために。別れてからの六年間、何があったのかは知らないが……今の彼女は過去に縛られているようにみえる。
現に繭愛に対するブーメランがまさにそれだ。相応しくないといいつつ、梶樹に対する異常なほどの片想い。そこから生じる他者を焼き尽くす灼熱の猛火。月明かりのように優しく照らす繭愛とは正反対の、見るもの全てを魅了し、破壊する太陽の光。
咲の中では、梶樹は出会った六年前から変わっていない。だが人は必ず時の中で、良くも悪くも変化する。咲の想いはあまりに一方的な勘違いだ。
「おにぃ……!」
繭愛の周りを漂っている電撃の帯が、するすると紐解けていく。吹き荒ぶ嵐の前のような強風も、爽やかなそよ風へと戻っていった。
だが、嵐は別の場所で起きていた。
「……あ、は……あははははは。そういうことでしたか……もうすでに兄様は堕とされていたのですね。…………こんな泥棒猫に!!」
咲の金の髪が、揺らめく。次の瞬間には、足元の周囲一帯の鉄橋の一部が陥没した。パラパラと砕かれた鉄橋の破片が宙に舞い上がり、粉微塵に爆散する。
「咲……?何を……」
「可哀想な兄様……あんな娘に堕とされるなんて。……はじめからこうすればよかったのですね」
緑色に光る咲の双眼が、繭愛を見据える。獣の王のような圧倒的威圧感に、梶樹は無意識に恐怖を覚えた。
咲の腕がゆっくりと上がり、手のひらが繭愛に向けられる。
「……咲っ!」




