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グリム機関の赤頭巾  作者: 兎月竜之介
切り裂きジャック
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 グリム機関東京支部の地下には表向きでない施設が揃っている。

 戦闘班の訓練施設もその一つだ。


 シューティングレンジでは東京支部で採用されている銃器の射撃訓練ができる。スナイパーライフルの照準合わせもできるように、かなり大きめに作られていた。森斗が愛用している拳銃の弾丸も常備されている。


 屋内戦闘の訓練、突入訓練のためのキルハウスも存在する。森斗も狩人候補生だった頃、ここのキルハウスで訓練を受けた。人質役をペイント弾で誤射しては、先輩たちから怒られたことを森斗はよく覚えている。


 他にもクライミングとラペリングを練習できる施設、水中訓練を行える大型プール、高所でのミッションに備えた低酸素ルームなど、あらゆる訓練に向けた施設が目白押しだ。運動が好きな人なら丸一日飽きないだろう。


 森斗が今回利用するのは畳敷きの武道場だ。

 グリム機関の戦闘班では、本部に定められたCQC――すなわち近接格闘術が採用されている。ただ、日本という土地柄もあって、戦闘班所属の班員の中には柔道や空手を学んでいるものが多い。そのため、東京支部には武道場が完備されているのだ。


 森斗はロッカールームで胴着に着替えてから、一礼して武道場に入室した。

 まずは基本の構えのおさらいをしていく。多くの武術がそうであるように、狩屋流古武術も基本に始まって基本に終わると言っていい。基本ができていなければ何もできない一方、それを完全に極めることは難しい。


 復帰戦でグールと戦ったとき、森斗はグールの攻撃をたたき落とした。森斗に与えられるはずの衝撃は、巧みな重心移動によって足下の地面に受け流されたのである。だが、これはまだ狩屋流としては半人前の技だ。


 基本の構えを極めることができれば、グール程度の攻撃なら正面から受け止めることなど簡単だ。たたき落として回避しなくても、全ての衝撃をやり過ごすことができるからである。とはいえ、そのレベルには父・狩屋深山ですら達しているか分からない。


 森斗は構えからの重心移動を繰り返した。

 これだけで全身から汗が噴き出してくるが、ここまでは準備運動のようなものだ。


 今度は実戦的に連携技を練習していく。

 狩屋流の神髄は一撃必殺にある。その多くが相手の攻撃を無効化してからのカウンター攻撃だ。ダメージを回避した瞬間、相手には必ず隙が発生する。そして、そこに伝導率一〇〇パーセントの攻撃を叩き込めばいい。


 森斗が拳を振るうたびに空気の弾ける音が鳴った。彼の体に残るはずだった反動も含めて、衝撃のほとんどが拳から空気中に上手く抜けているのだ。この拳が命中すれば、グール程度であればひとたまりもない。


 だが、森斗が目指しているのはその先だ。

 伝導率九十九パーセントを超えた一〇〇パーセントの世界へ。

 空気が震えて、額の汗が弾け飛ぶ。


「はぁっ、はぁっ……はぁ……」


 連携技の確認を終えて、森斗は膝に両手をついた。

 腕は落ちていない。だが、上達しているようにも思えない。父・狩屋深山から学ぶべきことは残っているが、彼もグリム機関の狩人として海外で活動している。教えを請うとしたら、彼の帰国を待つしかない。


 自分だけでもできることはもっとないのだろうか?

 森斗が息を整えていると、


「――今のは悪くない突きだった」


 出入り口の方から男性の声が聞こえてきた。

 そこに立っていたのはスーツ姿の男である。


 年齢は三十代前半から半ばといったところか。時代錯誤な長髪の持ち主で、鼻筋は通っているけれども目つきが異様に悪い。身長は森斗と同じくらいで、体型もちょうど似通っている。両手には薄手の白手袋を填めていた。


「ありがとうございます。でも、まだ未熟で……」

 森斗は褒められたことを素直に喜ぶ。


 だが、同時に疑問にも思った。

 地下の訓練施設を訪れている彼は一体誰なのだろう?


 戦闘班の人間は出払っているはずだ。一人で格闘訓練に来られるような暇はない。それとも外部からやってきた人間だろうか? 地方の支部から来た応援というのは、美希や理緒のような内勤組もいるはずだ。

 森斗がそんなことを考えていると、男がこちらの方に近づいてきた。


「きみ、軽く運動に付き合ってくれないか?」


 そう言いながら、彼はすでにスーツのジャケットを脱いでいる。

 ジャケットを畳に投げ捨てると、緩めたネクタイをその上に放った。

 男は準備運動がてらに軽く体を動かし始める。


「運動とはどういうことですか?」


 森斗が尋ねると、男は不敵に笑った。


「組み手だよ、組み手。きみから仕掛けてくれ」


 男が武道場の中心で構えを取る。

 腰を深く落として、やや前傾――相手が東洋系武術の使い手であることは森斗にも判断できた。どことなく、吸血鬼にして武術の使い手だったインペリアルと印象が重なる。相当な使い手であることは間違いないだろう。


「――行きます!」


 森斗は一歩踏み出して、左の突きを放った。男は状態を逸らしてこれを回避する。続けて右のローキック、止まらずに腹部狙いの右足刀蹴りとつなげていった。だが、男は紙一重で連携技を回避し続ける。


 かすりはしているのだ。

 拳の尖端、蹴りのつま先が男のシャツに触れた感触はある。だが、それはつまり間合いを完璧に読まれているということだ。あくまで練習だからと気後れしすぎたか? もっと伸びのある攻撃をしなくては!


「きみ、もっと本気でやってくれ」

「……わ、分かりました!」


 右の突きを放った森斗。

 そのとき、男が初めて大きく前に出る。低姿勢で突きをかわしながら、おもむろに森斗の腰――ちょうど骨盤の辺りを手のひらで押した。途端、森斗の体がワイヤーアクションのように回転しながら空中に浮き上がる。


「なっ――」


 森斗の体は落っこちたあと、何回か畳の上を転がって、武道場の壁に激突したところでようやく止まった。床の間に飾られている『見敵必殺』と書かれた掛け軸が衝撃で落ちる。頭をぶつけてしまったのでかなり痛い。


 ともかく立ち上がる森斗。

 一瞬の出来事で何が起こったのか分からなかった。

 ――という考えが顔に出ていたのだろうか、


「原理は単純だ」


 男は森斗の疑問に答えてくれた。


「誰でも攻撃を仕掛けるときは、重心を前に移動させると同時に体をひねる。その瞬間を狙って、体をひねる方向をずらしてやればいい。それだけで相手はバランスを崩して、自らの勢いで転倒する」

「……転倒するって程度ではなかったような」


 狩屋流古武術を学んでいるものとして、重心移動には多少なりとも自信があった。だが、攻撃に移行している最中は誰にだって隙が生まれる。これは流派云々ではなく、森斗自身の単純な実力不足だった。


「こちらから行こう!」


 男が森斗に接近してくる。

 最初に飛んできたのは鋭い後方回し蹴りだった。威力は高いかもしれないが、いきなり放つには動作が大きすぎる。森斗は受け止めてからのカウンターを狙って、あえて壁を背にしたまま動かない。


 ……が、これがフェイント。

 男が蹴り足を引っ込める。受け止めるつもり満々だったので森斗は驚かされた。そして、男はもう一方の足で蹴りを放ってくる。狙うのは森斗の首筋だ。つま先を森斗の首に引っかけると、そのまま畳に向かって引っ張り倒す!


 前方からの攻撃にばかり備えていたせいで、森斗はあっけないほど簡単にうつぶせに倒されてしまう。実戦であれば首の骨を折られていたところだ。とっさに前転して受け身を取ると、すぐさま立ち上がって振り返る。


 男の姿がない。

 そう思った矢先、背後から首筋に腕を絡められた。


 遅れて聞こえてくる着地音。

 森斗が転がされている間に、男は彼の真上に跳躍していたのだ。


 構えを取れていれば、相手が首を絞めにきたところで逆に投げ返せるかもしれない。だが、起きあがりざまをすぐに狙われたのが駄目だった。体がのけぞってしまい、もはや抵抗の余地はなかった。


 男の腕をタップする。

 拘束から解放されて、森斗はその場に膝をついた。

 全身が熱くなっている。


 実力不足を痛感するばかりだが、訓練としてはかなり面白い……というのが森斗の正直な感想だった。実戦では殺されてお終いだが、訓練ならば好きなだけ失敗できる。自分のどこに隙があるのかを知れば、それだけ実戦でのミスが減らせるというものだ。

 息を整えるのもそこそこにして、森斗は再び立ち上がる。


「もう一回、お願いします!」


 男は武道場に飾られている時計を見上げた。


「次の会議までは時間がある。もう少しやろうか」

「はいっ!」


 それから、森斗は男と組み手を何回か繰り返した。

 攻撃しようとすると、隙を突かれて技を返される。カウンターを狙っていると、立体的な動きに惑わされる。打撃技を寸止めされるか、絞め技を掛けられたところで組み手は終了――結局、森斗は一度も攻撃を当てられなかった。


 一時間ほどで力尽きる。

 男も流石に疲れたのか、ハンカチで汗を拭っていた。


「最初に言った通りに攻撃は悪くない。当てることができれば、グール程度ならば問題なく倒せる。身体強化に特化したもの除けば、異端者も十分に相手できるだろう。だが、それも当たらなければ意味がない……問題点は分かるか?」


 大の字になっていた森斗。

 どうにか上体を起こして答える。


「フェイントに引っかかってしまうところですか?」

「それは表面的な話だ。問題はもっと根本的なところにある」


 男の目つきは相変わらず悪い。

 言葉遣いも辛辣だが、態度はあくまで紳士的だ。

 森斗は今になって尋ねた。


「……あなたも狩人ですか?」

「狩人だった、が正確だ。一度くらいは顔を合わせていたと思ったが……」


 男は面識があることを匂わせる。

 森斗が記憶を掘り返していると、


「もしかして――」


 一つだけ思い当たる節があった。

 父と暮らしていた地元を離れて、グリム機関の東京支部に所属を決めたとき――このビルで行われた新年度の集会で、確かに一度だけ顔を見たことがあった。当時、森斗はまだ中学時代の生意気だった盛りから抜け出していなくて、真面目に話なんて聞いていなかったが……あの男は確かに壇上に立っていた。


「やっと思い出したか」


 男がネクタイを拾って締め直す。


「私は二階堂玲司にかいどう れいじ――グリム機関東京支部の支部長をしている」


 東京支部の支部長。

 グリム機関の日本エリアを統括する人間。


 想像を裏切られた。歴史ある組織だけあって、もっと年配の人間が支部長なのだと森斗は思い込んでいた。狩人出身という経歴も意外だ。異端者と戦って現場を生き抜いた――まさに叩き上げという表現が合っている。


 だが、何よりも重要なのは彼が支部長であるという事実そのものだ。

 森斗だけではなく、シルフィだって、マリアだって、美希だって……いつも上の命令に従ってきた。それは的確な指示であることがほとんどだが、ときには理不尽で従いがたいものだってあった。


「シルフィがインペリアルに攫われたとき、彼女の救出に上は消極的だった……いや、消極的どころか見殺しにしようとした。それがグリム機関の方針かもしれないけれど、僕はそれがとても許せなかった」


 森斗は今でもハッキリと思い出せる。

 インペリアルとの戦いは厳しいものだった。マリアが駆けつけてくれなかったら、自分もシルフィも殺されていたはずだ。けれど、最初から残された戦力を集中させていれば、あれほどシルフィを追いつめることはなかった。

 男が――二階堂玲司がなぜか感心したように唸る。


「許されないではなく、許さないときみは言うのか」


 森斗は同じようなことをインペリアルにも言われたこと思い出した。

 自分の言葉を相手がどう感じているのか、彼にはその辺がちっとも分からない。


「……シルフィはたくさんのことを恐れている。人狼であることが仲間に知られて、影で後ろ指を指されているのではないか。次の人狼化に失敗したら、今度こそ狩人としての生命を絶たれるのではないか。だけど、最初の時点で機関が彼女を優しく迎えていれば、少しは違っていたはずなんだ」


 気持ちがふくれあがって収まらない。

 森斗は相手の地位も、強さも忘れて言い続けた。


「グリム機関の方針は分かってる。そうじゃないと多くの人たちを守ることはできない。だけど、そうだとしても、僕は上の判断を受け入れたくはなかった。いいや、上だなんて曖昧な言葉は必要じゃない。二階堂玲司、あんたのことだ!」


 見方に敵意を向けている場合じゃない。

 けれど、これだけはどうしても言っておきたかった。

 自分が未熟であることは理解しても、どうしても伝えたかったのだ。


「……私を許さないのはきみの勝手だ」


 玲司は上着を拾い上げて袖を通した。


「我々は異端者を殺すものであって、正義の味方ではないからだ。だから、きみの意見はグリム機関だと決して通用しない。状況を変化させるのは熱い正義感でも、ましてや正しい倫理観でもない。ただ一つ、強いか否か……それだけだ」


 彼の言葉が森斗に重くのしかかった。

 反論できないどころか、ぐうの音も出ないほどに理解できる。


 活動期間はまだ短いが、森斗だってグリム機関の狩人だ。異端者との戦いで死にかけたことも一回や二回ではない。強いか否か。現場での生死だけではなく、大局を左右する判断だって強さ弱さに影響される。


 大神煌のときだって、インペリアルのときだって、森斗が強ければシルフィが傷つけられる前に救えていた。

 それはシルフィにも言えることだ。人狼化をするまでもなく異端者を倒せるなら問題なかった。あるいは問題が起こってしまう前に、自分が人狼のハイブリッドであると告白できていたなら……。


 玲司が森斗に向かって手をさしのべた。


「きみには実戦経験が足らない。だが、足らないものがあるとすればそれだけだ。グリム機関のルールを破りたいのなら、ただひたすらに強くなれ。多くの異端者を倒せ。私も時折この場所を利用する。時間が合えば、また組み手をしよう」


 森斗は彼の手を握る。

 引っ張ってもらって、ようやく立ち上がることができた。


「……僕の方からも、よろしくお願いします」

「そうか。では、私は次の会議に出席してくる」


 玲司はスーツのボタンを止め直して、激しい組み手などなかったかのように去っていく。

 彼が武道場から出て行ったところで、森斗はその場にぺたんと座り込んだ。


 こっちは大汗をかいて疲労困憊である。汗で濡れた畳を綺麗にして、ロッカールームでシャワーを浴びて、地下通路でダミーのビルまで移動して、最寄りの駅から電車に揺られてマンションまで帰らなくてはいけない。


 本当ならうんざりするところだが、それでも森斗は悪くない気持ちだった。

 これからは上だなんて不明瞭なものと戦わなくていい。

 二階堂玲司という男と組み手をすればいいのだ。

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