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放課後、森斗は意を決してグリム機関の東京支部を訪れることにした。
ジャックに特定されていないとはいえ、用心するのに越したことはない。森斗は東京支部のビルには直接向かわないで、少し離れたところにある小さな商社ビルに入った。その商社ビルもグリム機関の持ち物で、東京支部のビルと地下で繋がっているのだ。
エレベーターで地上一階のエントランスに出る。
東京支部のエントランスでは、今日も忙しそうに多くの人々が行き交っている。彼らが担当しているのは切り裂きジャックの事件だけではない。事件がいくつも重なることは、大都会ならば珍しいことではないのだ。
前もって連絡を入れていたので、上司の美希が待ってくれていた。
彼女は談話スペースで煙草を吹かしている。
森斗に気がつくと、美希はこちらに駆け寄ってきた。
「外の連中から報告があったけど、あとをつけられてはいなさそうね」
美希が煙草の煙を吐いた。
森斗は深々と頭を下げる。
「面倒をおかけして、すみませんでした」
「別に構わないわ。あなただって、このままだと息が詰まっちゃうでしょう? まだ学生の身分であるとはいえ、狩人であることには変わらないものね。ただ、残念だけどシルフィさんとマリアさんの二人は来ていないわ」
「……若干期待していました」
見栄を張っても仕方ないので、森斗は正直な気持ちを吐露した。
ジャックがインペリアルを追っていた以上、インペリアルが狙っていた獲物――シルフィについても知っているはずだ。シルフィの交友関係にもチェックを入れているだろう。東京支部のビル内でもなければ、顔を合わせて話すことはできない。
美希が難しい顔をする。
「二人は切り裂きジャックの出没に備えて都内を巡回中よ。東京支部の多くの狩人がジャックの事件を担当しているわ。地方からも応援が来ている。そろそろ、一度でいいから接触しておかないとヤバいわね」
「被害者も増えました」
森斗はニュースを思い返した。
テレビでは連日連夜、ジャック・ジョーズによる連続殺人事件が報道されている。新宿の女殺しから一週間で、新たに二人の死者が出ていた。おおよそ三日おきに一人ずつ殺しているというペースである。
死体の状態は口に出すのも躊躇われる状態だった。ジャックの手に掛かれば、時間を割かなくても人間の体を八つ裂きにできる。新しく発見された二つの遺体は、所持品が盗まれていたら身元の特定に時間が掛かったろう。
「ジャックは情報を得るまで、慎重に行動するつもりだわ」
美希の読みは当たっていた。
ジャックは自力で森斗を特定する気なのだ。確実な情報を得られるまで、殺人はグリム機関を焦らせる程度に抑える。ただ、それでも被害者が出ていることに変わりはない。死者に多いも少ないもないのだ。
「森斗くん、あなたに不自由な思いをさせているわ。ごめんなさいね」
「そんなっ……美希さんが謝ることではないですよ」
美希を気遣った森斗。
グリム機関は大きな危険を回避するためならば、多少の犠牲を厭わない組織だ。千人を救えるのなら、人質の一人くらいは容赦なく見捨てる。残酷であるのは間違いないが、グリム機関はこの冷徹な行動方針で世界の平和を守ってきた。
冷徹さは構成員たちにも向けられる。グリム機関では上からの命令は絶対だ。命令違反をしたものには厳しい罰則が与えられ、内部監査班に監視されるようになる。裏切り行為であると判断されたら、確実に刺客を仕向けてくる。
だから、美希に異論を唱えるのはお門違いだ。
講義をするなら上に直接するしかない。
けれども、相手は取り合ってくれるだろうか?
まさか、そんなわけがない。シルフィがインペリアルに掴まったときですら、抗議の機会は与えられなかった。インペリアルが好戦的ではなく、人的被害の少ない異端者だからと、グリム機関はシルフィを見捨てたのだ。
二人の間に沈黙が流れる。
そのとき、二階に繋がっているエスカレーターを不知火理緒が駆け下りてきた。
彼女は相変わらず資料の束を抱えている。
「会議の時間ですよ、美希さん!」
「……そうだったわね、失念していたわ」
美希が煙草の吸い殻を携帯灰皿に捨てた。
理緒は森斗に気づいて会釈する。
「こんにちは、森斗さん。お二人なら巡回中ですよ?」
「それなら美希さんからも聞きました」
自分の心中はグリム機関の人たちにバレバレであるらしい。
森斗は思わず苦笑いした。
「……体がなまってしまいそうなので格闘訓練に来ました」
「それなら私がお相手しましょうか? こう見えても、実は空手黒帯なんですよ!」
理緒が「押忍!」と構えを取る。
空手を習っていたのは嘘じゃないらしく、構え自体はなかなか様になっている。
「なーんて、私くらいだと狩人さんの相手にはなりませんよね」
自嘲気味に構えを解いた理緒。
美希が「はいはい」と彼女の肩を叩いた。
「さっさと会議に行くわよ」
「あれ? 美希さんを呼びに来たはずなのに、私が待たせてるみたいになってる?」
「それじゃあ、森斗くん。帰るときにはまた連絡してね」
理緒の書類を半分受け取って、美希は森斗の元から離れていく。
彼女に置いていかれまいと、理緒が小走りで追いかけていった。
森斗的には理緒の提案は魅力的だった。戦闘班の多くが出払っているので、訓練に付き合ってくれる相手は誰もいないだろう。狩人ならなおさらだ。模擬戦をしなくても、人間相手に技のかけ方を確認できるだけでも十分にありがたい。
……いや、今は広い場所で訓練できるだけでも良しとするべきだ。
森斗はエントランスを行き交う人たちに背を向ける。
背後から呼び止められたのはそのときだった。
「森斗くん?」
振り返ってみると、そこにいたのは森斗たちの担当医である結月輝夜だった。
彼女は右手に書類ホルダーを抱えて、左手には紙コップを持っている。仕事が終わったあとなのか、いつもの白衣ではなく無地のシンプルなセーターを着ていた。
「体の方はあれから問題ない?」
シルフィだけではなく、彼女は多くの狩人たちを担当している。大神煌やインペリアルと戦ったあと、森斗も輝夜の世話になっていた。彼女が治療してくれなかったら、これほど早い内に復帰できていなかっただろう。
「大丈夫です、輝夜さん」
森斗はそう答えるが、精神面で参っているのは自覚済みだ。
「……出動禁止は残念だったわね」
輝夜が談話スペースの長椅子に腰を下ろした。
森斗は彼女の隣に座る。
すると、ホットコーヒーの淡い香りが漂ってきた。
「本当なら今頃、あなたにやってほしい仕事があったの」
「医療班から狩人に仕事ですか?」
「狩人ではなくて、森斗くん……あなたにしかできないことよ」
輝夜が体を近づけて、じぃっと瞳を覗き込んでくる。
今になって気づいたが、医療スペース以外で彼女と顔を合わせるのは初めてだ。普段と格好が違うだけで、随分と雰囲気が違ってくる。治療や検査のために顔を近づけられたり、体を触られたりすることは散々あったはずなのだが……。
「シルフィさんは人狼化を恐れていたわ」
輝夜が森斗だけに聞こえるような小声で言った。
「彼女は猶予期間を与えられているに過ぎない。人狼化を自由にコントロールできるようにならないと、シルフィさんは遠くないうちに狩人の資格を奪われるわ。それどころか、異端者として扱われて命を狙われるかもしれない」
「そ、そんなっ――」
森斗は大声を出しそうになるが堪える。
インペリアルを倒したあと、シルフィは自力で人狼化を解除した。大神煌のときとは異なって、誰も傷つけずに戻ってこられたのだ。けれども、グリム機関が求めているコントロールとはその程度ではないらしい。
「意図的に人狼化して、解除もできる。実物の人狼と遭遇しても惑わされない。これがグリム機関の提示する最低条件よ。シルフィさんもいきなり実戦で試せなかったみたい。だから、私は人狼化の訓練を提案したの」
輝夜が紙コップを長椅子に置いた。
「あなたとマリアさんがそばにいてくれたら、シルフィさんも人狼化した状態から戻りやすくなるはずだわ。何よりも、きっと勇気づけられる。狩人でも一人の女の子だもの。過去に成功したことがあっても、人狼化することは怖いに決まっているわ」
「シルフィはそんなこと、一言も……」
彼女はずっと思い悩んでいたのだ。
復帰戦でグールを倒したときも、美術室で話し合っているときも、三人で秋葉原に遊びに行ったときも、シルフィは悩んでいるような素振りを見せなかった。美希から命令を伝えられてからは、学内で挨拶することすら頑なに拒んだ。
森斗は自分を情けなく思った。
シルフィが本当はどんなことを考えているのかは分からない。だけど、もしも自分が頼りになる相手だと思われていたら、彼女だって悩みを打ち明けてくれていたはずだ。森斗はいつだってシルフィの力になりたいのに……。
じわりと嫌な汗が額に滲む。
「……ごめんなさい。このタイミングで言うべきことではなかったわ」
輝夜がそっと身を離した。
森斗は首を横に振る。
「いいえ、シルフィの悩みを知ることができて良かったです」
自分たちはコミュニケーションを禁じられている。だから、すぐに話すことはできない。彼女の悩みを知ることができても、森斗にできることは何もないかもしれない。それでも、シルフィの悩みを共有できるだけでも嬉しかった。
ダメージを受けている場合ではない。
森斗はすくっと立ち上がる。
「教えてくて、ありがとうございました」
「用事があったのよね。森斗くんを引き止めてしまったわ」
輝夜が空になった紙コップをゴミ箱に捨てた。
そのとき、ちょうど地下専用のエレベーターが到着する。
そこから出てきたのは完全武装をした戦闘班の面々だ。最新式のアサルトライフル、タクティカルベストとボディアーマー、流石にフルフェイスのマスクは外している。仕事を後退して戻ってきたのだろう。
彼らの表情は芳しくない。切り裂きジャック事件の進展はなさそうだ。
だが、それで腐ってばかりもいられない。
森斗はボタンを押して、地下行きのエレベーターに乗り込んだ。




