前編
幼い頃に母を亡くした私にとって、父と二歳年上の兄ルシアンはかけがえのない家族であり、そのかけがえのない家族を同時に失った時、私は悲しみの沼に沈み込み、泣き暮らすより他はありませんでした。
そんな私に寄り添ってくれたのが、兄の友人だったアレックス・ローガンです。彼は根気強く私を励まし、深い沼の底で動けなくなっていた私に手を差し伸べてくれました。
だから私は、彼の求婚を受け入れることにしたのです。
イングマール伯爵家当主である父と、跡継ぎである兄。
視察のために領地に赴いていたふたりは、その道中で馬車の事故により命を落としました。
この国では、女は爵位を継ぐことはできません。
私には幼少期からの婚約者がおりましたが、相手が病を患ったことが原因で婚約が解消されたばかりでした。
父の弟である叔父が爵位を継ぐことが決まり、家族の思い出が詰まったイングマール邸には叔父一家が引っ越してきました。
アレックスが求婚してくれたのは、その一ヶ月後のことです。
卒業後、兄の口添えで王立騎士団への入団が叶い、従騎士として働いていたアレックスですが、身分は平民です。
父が健在ならば決して許されなかったであろう結婚ですが、父と兄が亡くなった今、反対する者はおりませんでした。
そうして三ヶ月後、学園を卒業した私はアレックスと結婚し、マルセリア・イングマールからマルセリア・ローガンとなったのです。
◇◇◇
アレックスは、王都の外れにある小さな町にふたりで暮らすための家を用意してくれました。
竈門がある土間とダイニング、寝室は屋根裏部屋です。
イングマール邸の娯楽室よりも小さな家でしたが、私は可愛らしい出窓がある赤い三角屋根の家がとても気に入りました。私達はそこで、慎ましくも穏やかな生活を始めたのです。
アレックスに求婚されてから屋敷を出るまでの三ヶ月間、私は使用人達に頼み込み家事を教えてもらいました。
着替えすら使用人の手を借りていた私です。大変な苦労をしましたが、何かに打ち込んでいれば父と兄を失った悲しみを忘れることができたので、夢中になって家事を覚えていきました。その結果、私はその小さな家で、妻としての役割を十分に果たすことができたのです。
◇◇◇
国境付近での隣国との衝突が激化し、夫が所属する王立騎士団が国境へ向かうことになったのは、私達の結婚から僅か一年後のことでした。
「旦那様、どうかご無事で」
「ああ。母さんを頼んだよ」
「お義母様と一緒に、あなたの帰りを待っているわ」
夫の父親が亡くなり、一人では心細いと言う義母を田舎から呼び寄せようとしていた矢先でしたので、アレックスは後ろ髪を引かれるように旅立って行きました。
私は考えました。
寝室は屋根裏の一室だけですが、ベッドを二台置くスペースはありません。そもそも、私と寝室を共有しては義母も気が休まらないでしょう。
それに、アレックスが帰ってきた後に三人で暮らすには余りに手狭です。
そこで私は、義母が気兼ねなく暮らせるよう新しい家を用意しました。
将来子供が生まれた時のことも考え、キッチンやダイニング、リビングの他に、個室が四つあるやや大きめな石造りの家です。
義母が到着する前に家具や内装を整え、身一つでやって来た義母との生活が始まりました。
義母は気難しい方でしたが、良好な関係を築けていたと思います。
風向きが変わったのは、離婚したという義理の姉ソフィアが、義母を頼り、二人の子供を連れて来訪した時です。
行く宛がないという義姉と子供達を受け入れ、生活を共にし始めると、義母は態度を一変させました。
人の心というのは、徒党を組むことで尊大さを増していくものです。絶対的な味方の存在が、義母の心を変えてしまったのでしょう。
ふたりは私に家事や子守りを押し付け、小遣いをせびり、遊び暮らすようになりました。
「家族を失い、叔父一家に追い出され、行く宛がないお前をアレックスが救ってやったんだ」
「今の暮らしがあるのは、戦地で戦っているアレックスのおかげ。それならば、アレックスの身内である私達に尽くすのは当然のことでしょう?」
というのが、義母と義姉の言い分です。
私はそんなふたりに従いました。
夫の大切な家族に、不自由な思いはさせられない。夫が不在の今、それが妻である私の務めだと思ったのです。
◇◇◇
アレックスが戦地に赴いてから半年が過ぎた頃のことです。新聞の一面にこんな見出しが躍りました。
『英雄アレックス・ローガン、セントルイス軍を撃ち祓い、我が国に勝利をもたらす』
アレックス・ローガンという名の騎士が前線で指揮を取り、その見事な知略で敵国セントルイスの兵士達を壊滅させ、国境を守り抜いたという記事でした。
『アレックス・ローガンこそ、我が国を守った英雄である』
記者はアレックス・ローガンを絶賛し、その名はまたたく間に国中に知れ渡っていきました。
義母と義姉は更に傲慢になり、私を見下すようになりました。
自分達は英雄を生んだ母と姉である。町の人々にそう触れ周り、羨望の眼差しに酔いしれ、英雄の家族として相応しい生活をするべきだと更に散財を始めたのです。
◇◇◇
アレックスが戦地から戻ったのは、それから三ヶ月後のことでした。
夫の無事の帰還を喜んだのも束の間、その傍らから一人の女性が姿を現しました。
「彼女はエミリー。スチュアート子爵家のご令嬢だ。国のために出来ることはないかと、自ら志願し、戦地で兵士達の身の回りの世話をしてくれたんだ。こうして無事に帰ってこられたのも彼女のおかげだ。王都まではまだ距離があり、彼女は長旅で疲れている。ぜひ礼をさせてほしいと、我が家に寄ってもらったんだ」
柔らかそうなストロベリーブロンドの髪をした可愛らしい女性は、夫の腕に自分の腕を絡ませてにっこり笑いました。
「貴族として、国に尽くすのは当然のこと。父と母も快く送り出してくれましたの。戦地では寝る間もなく働いていましたから、帰還の途中で疲れが出てしまって……。そんな時、彼が自宅で静養してから王都へ戻るよう勧めてくれました。そういうわけですので、しばらくの間世話になりますわ」
義母と義姉は手放しに彼女を褒め称えました。
「何て立派なご令嬢でしょう!」
それからふたりは、目を三角にして私を睨みつけました。
「誰かさんとは大違い。身寄りも後ろ盾もないくせにお高くとまっているんだから」
「本当よ。夫の稼ぎに頼るしかない役立たずのくせに」
こうして、エミリー・スチュアートの滞在が決まったのです。
自分はアレックスの客人であるのだから、もてなすのが妻の務めだと、エミリーはあれやこれやと要求を始めました。
あれが食べたい、あれが欲しい。
彼女は夫がお世話になった方です。無事に帰ってこられたのは彼女のおかげだという夫の言葉が事実なら、夫の命の恩人でもあります。
私は彼女の要求に従いました。
五人の家族と客人の世話。そのすべてが、私一人のすべきことでした。私の一日は目まぐるしく、あっという間に終わっていったのです。
◇◇◇
英雄を一目見ようと、町の人々が入れ替わり立ちかわりやってきました。
義母と義姉の態度はますます傲慢になり、自分達は敬われるべき特別な人間だと口にするようになりました。
そんなある日のことです。
エミリーの肩を抱いた夫が、こう告げました。
「俺はエミリーを愛してしまったんだ」




