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第20話 Venus

 ヴァルの飛行は順調であった。

 前回ならば、『陸』からも光学兵器による光線が飛んできていたが、今回はそれも無い。

 実のところ、『陸』ではヴァルとシータシアの侵入を許したあの日から対空実弾兵器を実装してもいたのだが、それが使われることもなく。ヴァルの飛行を妨げる者は無かったのである。

「……前回は、『空』に触れた瞬間、ふっ飛ばされた」

 ヴァルは目前に迫る『空』を睨むように見据えて、まるで独り言のように言う。

「でも君は知ってるんだろ、ふっ飛ばされない方法」

 ヴァルは少女が確かに頷くのを目の端に捉えた。予想通りの返答に、ヴァルはどこか安堵するような心地で、しかし深淵に脚を踏み入れている事を自覚して……言葉を続けた。

「君は、『空』の事をよく知ってるけれど。古代人って、皆そうだったのか?」

 少女は、首を横に振った。

「だよな」

 ヴァルは少女について、出会ってからずっと考えてきた。

 海の底で眠っていた少女。古代のメカニカの知識を有し、『空』について、果ては『海』の成り立ちについても知っている。

 この少女が一体何者なのか。その答えは待っていてもすぐに出るだろう。『空』は目前である。

 だが、ヴァルは待つことをしなかった。


「君、『空』に居たんじゃないか?」

 少女は、頷いた。




 第20話~Venus~




『空』は神のおわす場所であると、半ば伝説のようにヴァルは聞いてきた。

 そして事実、現在のメカニカの能力ではおよそあり得ないことに、『空』は宙に浮くメカニカ仕掛けの浮島として空に存在し、しかし、存在しはするものの、それ以上の情報を何も『海』にもたらさず、只々そこに在るだけでもあった。

 だから『空』に何かがあるのだと、信じたかった。夢を託す対象として、もしかしたら一種の信仰の対象として、『空』を見てすらいた。

 だからこそ『空』は遠く、そこに誰かが居ると考える反面、誰も居ないような気もしていたのだ。

 なのに少女はここにいる。

『空』の一片がここにある。

 現実味の無い事実を、しかしヴァルは、何なく受け止めた。

 それほどまでに少女の存在自体に現実味が無かったのだ。少女は、夢にでも神話にでも溶け込める存在だった。


 だが、ヴァルにとってどうしても、伝説に溶け込めないものがここにあった。

「なあ」

 ヴァルは問う。

「なんで君は俺を『空』へ連れていこうとするんだ」

 ヴァルにとって、ヴァル自身は、『空』および伝説の全てから遠い存在だった。




 少女は目を瞬き、それからヴァルを見る。

 しかしその目がヴァルの目と合うことはない。ヴァルはただ、前方の『空』だけを見つめていた。

『おまえがそう望むから』

 少女もまた、『空』へと視線を戻し、それだけ答えた。

「『望むから』、か」

 ヴァルは言葉を反芻する。ずっと少女はそう言ってきた。

 まるで、少女自身が『望みを叶える』為に居るかのように。


「……突入するぞ。いいんだな?」

 だが、これ以上考える時間も無い。

 いよいよ迫った『空』に、ヴァルは気を引き締める。

『かまわない』

 少女は何か準備するでもなく、落ち着いたいつもの様子で答える。

 古代のメカニカは金色に光の尾を引きながら、『空』へと肉薄した。




 瞬間、音のような、衝撃のような何かが古代のメカニカを襲った。

 だが、体勢は崩さない。この程度の衝撃でどうにかなる古代のメカニカではなかった。

 そして、悠々と『空』を前に静止する古代のメカニカ、その中のヴァルの耳へと声が届く。

『こちらVenus。帰還しました』

 それは少女の声であった。

 そして、つづけて、ブツリ、と、ノイズが走る。

「Venus、帰還を歓迎します。報告を行ってください。Venus、帰還を歓迎します。報告を行ってください。ゲートを解放します。侵入を許可します。ゲートを解放します。侵入を許可します」

 続いて機械的に告げられた内容をヴァルが理解するより先に、『空』が動いた。

 重い音をたてて、外殻の一部が動く。

 やがてそこにぽっかりと開いた暗闇の先は何も見えない。

 息を呑む。

『行こう』

 少女の声が静かにヴァルの背を押す。

 ヴァルは黙って、操縦桿を引いた。




 進んだ先は暗闇だったが、古代のメカニカが放つ淡い金色の光に照らされ、ある程度は視界が利いた。ただし、見えるものはただ長く続く通路のみであり、周囲の壁面全体がメカニカらしきものでできているということしか分からない。

 飛行し続けても、通路の様子はまるで変わらなかった。時折、緩やかなカーブと直線が混じるが、それすらも変化が無かったら、ヴァルは自分が静止しているかのように感じたかもしれない。

 圧迫感と焦燥と不安とに押しつぶされそうになりながら、ヴァルはそれらを払いのけるように、努めて明るい声を出した。

「そういえば君の名前。ヴィーナスって言うんだな」

 Venus、という言葉の意味を、ヴァルは知らない。かの、暁の空に眩く輝く星の名を知らないのと同じように。

 だが、そんなことは関係無かった。以前、聞いても教えてもらえなかった少女の名前を知れた、ということが、ささやかながら決して小さくない喜びとして、ヴァルの内に熱を灯す。

『名前ではない』

 だが、答える少女の声はいっそ無機的ですらあった。

『私に名前は無い。『Venus』は私を識別するために与えられた名称で、名前ではない』

 ヴァルは少女の言葉の意味を理解できなかった。

 ヴァルにとって名前とは、『個人を識別するために与えられた名称』である。

「それを名前、って言うんじゃ、ないのか?」

『私は』

 少女はヴァルの言葉に反応し、しかし、言葉はそこで途切れる。

 少女は悩むような素振りを見せ、それから声を発した。

『おまえにとっての『鯨』のようなものかもしれない』

 紡がれた言葉に、ヴァルはきょとんとし、それから噴き出した。

「そういや俺、君に名前を呼ばれたこと、なかったな。まさか『鯨』を先に言われるとは思ってなかった」

 ヴァルの反応に、少女もまた、きょとん、とする。

「……ああ、ごめん。笑うつもりじゃなくて。ただなんか、新鮮だったんだ。うん、それだけ。……じゃあ、君にとって『Venus』は称号みたいなもの、なのか」

 一頻り笑ってからヴァルが確認すると、少女は目を瞬かせ、首を傾げ、それから自らを納得させるかのように頷いた。

『私の外側にある名前。称号、とも呼べるかもしれない』

 どこかずれたような返答に、ヴァルはすっかり緊張も不安も忘れて笑った。

「そうか。じゃあ君、俺にとっての『ヴァル』みたいな名前は無いんだな」

『無い』

 ヴァルは少しばかり、口に出すのを躊躇ったが、結局は言うことにした。どのみち、死んだらそれまでなのだから。

「なら、俺がつけてもいいか。君の名前」

 ヴァルは改めて、少女を見た。

 ターコイズブルーの瞳が瞬き、驚いたような様子にも見えた。

 だが、ふと、少女の目が微かに細められ、唇が僅かに弧を描いた。

『構わない』

 この返答に、ヴァルは却って困惑しさえした。少女がこのように返答すると期待していたはずなのに、予想はしていなかった。ましてや、斯様に微笑むなど。

「そ、そっか。……え、いいのか?俺がつけて本当にいいのか?」

『構わない』

 揺るがない少女の返答に、ヴァルも腹を括った。

 ……このように提案したのだ。何も考えていなかった訳ではない。

「……ナギサ」

 渚。

 ヴァルがいつも、海を見、空を見ていた場所の風景だ。白砂の上に波が文様を描き煌めく、その風景を『渚』と呼ぶことくらいは、ヴァルも知っていた。

「って、いうのは、どう……だ?」

 自信無さげに、許しを請うようにヴァルは言う。

 良い名前ではないかもしれない。自分より広い世界を知っているであろう少女に対して、ヴァルは自らの名づけに自身など持てる訳もなかった。

 だが、ヴァルにとって『渚』は、最も美しい物だった。

 狭い世界で、それでも自分が知る限りの最も美しい名前を、少女に捧げたかった。

『ナギサ』

 少女は呟くように声を発する。

『ナギサ』

 確かめるように、大切なものをそっと拾い上げるように。少女は数度、その言葉を発した。

 そして。

『私は、ナギサ』

 ふと、そう言葉を発すると、少女は目を閉じた。

『ありがとう』

 再び少女の目が開かれた時、その瞳に映っていたのはヴァルだった。

『ヴァル』

 もうじき通路を抜けるのだろう。前方から光が差し込み、少女の微笑みを彩った。




 周囲が一気に明るくなる。

 瞬間、目が眩んだヴァルだったが、薄く目を開けて、辺りを見渡す。


 そこにあったのは、楽園。

 草花が咲き乱れ、美しく水が流れ、白大理石の石畳が回廊を作る庭園。物語の中の物語、伝説の時代にあった伝説のような光景であった。

 そして、そこに居たのは『神々』。それぞれが用意された椅子に座っている。

「Venus、帰還を歓迎します」

 その内の1人、金色の髪、金色の瞳を持つ青年が声を発した。

 そして、その手が動き……1つ、残っていた空席を示した。

「着席なさい」


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