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神様のお使い  作者: 泡沫にゃんこ
第二部
38/52

放浪の王子

六月某日土曜……ビリーは王都外をランニング中。時刻はちょうど3時おやつの時間である。


しかし……いつもなら甘味を欲して床を転げ回っているはずの拓也は………ヴァロア家の浴室前の廊下で立ち尽くしたまま思考に浸っていた。


表情は深刻そのもの。冷や汗もジワリと浮かんでいる。



彼の鋭い眼光が見据える先には……一枚の真っ白な神秘の布切れ。



「………コレは…………俺が製作したものではない……となると……」



彼は目の前の床に舞い落ちた一枚のパンツを凝視していた。


そしてすぐにそれが自分が作ったものではないことに気が付き、さらに深く思考を巡らせる。



ー……ミシェルが落としていった?……いや、そんなことがあるのか?


リディアの持ち物……これはないな。ここ数日の調査で奴はお子様パンツしかはかないことが判明している。


しかし……ミシェルが下着を廊下に落としていったなんてことは前例が無い……ということは……-




「罠……?」



ー……いや……決め付けるのはまだ早い……-



拓也はどこからとも無く自身の魔武器の銀の片眼鏡を取り出すと、辺りを周辺を見回し、情報を急速に頭の中へ取り込む。


そしてその情報から導き出された結果に安堵の息を吐くと共に、片眼鏡を外してもう一度パンツを睨みつけた。



ー……周辺の物質構成は普段と同じ……魔法によるトラップの反応も無い……


しかし罠の可能性はまだ拭いきれないか……-



彼がそう考えるのも無理は無い。この家には……リディアという神が住んでいる。


いくらそこまで力の強い神でないといえども、もしかしたら拓也の目を欺くことのできる技術を持っているかもしれない。


拓也はじっとりと顔に滲む汗を手の甲で拭うと……



「ッふ…」



意味深に軽く笑って見せた。



そしてあろうことかパンツに背を向け、玄関へと歩き出す。



この場にセラフィムがいたのならば戦慄したことだろう。



紳士ともあろう者が獲物を目の前にして引き下がるなど……ありえないのだ。




そして彼は歩を進め、フローリングが敷かれているギリギリの所でジーンズのポケットに手を突っ込みながらその動きを止めた。


しばしの沈黙が流る……その刹那、彼の脹脛と太ももが、ほんの一瞬だけジーンズの生地を下から押し上げる。



「ッ!!」



刹那…一瞬ブレる拓也の姿。


音すら置き去りにし、視認すらままならない彼の動き……形容するならば……まさに閃光。



「ミッション……コンプリート」



人間業とは思えない動作で玄関前の彼が姿を消した0,1秒後……脱衣所へ繋がるドアに向かって跪く一つの影。


彼の手には……勝者の証がしかと握られていた。



ー…この速度で通過すれば罠には捕らえられないと踏んだが……どうやら本当に罠はなかったのか……-



そんなことを考えながら拓也は手にした布を天へ掲げる。全体が湿っている辺り、恐らくコレは洗濯物だったのだろう。


いや、しかし今はそんなことどうでも良い。彼は不気味な笑みを浮かべると、完全勝利に酔いながら壁に背を預けた。



ー…さて、どう有効活用しようか……やはりデトックスウォーター……いや、コレは洗濯済みだから洗剤の味しかしないか………ならば……ー



そして彼はある一つの結論に辿りつく。



「とりあえず被っとくか」



思い立ったらすぐ行動……彼は天へ捧げる様にミシェルのパンツを掲げ、指を巧みに使い内側を広げそれを頭上にもって目を瞑ると自身も天を仰ぐように見上げ……



「フンッ!!」





神器その一…………装着完了。



女性のパンツ……それは超紳士にとっての三種の神器の一つ。




彼はこうしてまた伝説に近づいた。



「さて……残る神器は2つ。ハハ!久々に血が騒……ぐ…………」



高らかに笑い声を上げながら立ち上がり、自分の部屋へ向かおうとした拓也の目に映るのは……



最早人間に向ける目をしておらず……汚い者を見てしまったからか綺麗なサファイア色の瞳を濁らせるミシェルの姿。



騒ぎかけた血は一瞬にして氷ように冷たくなり、全身からサーっと引いていく。



「洗った下着が一枚足りないと思って探しに来て見れば………」



「ぁ……ぁ………」



拓也の顔色はカブトガニの血液のように鮮やかな青色に変色していた。






杖を呼び出すミシェル。更に青ざめる拓也。


一歩踏み出すミシェル。一歩後ずさる拓也。



最早言葉を交わす気すらないのか……ミシェルは両手で杖を強く握り締めている。



何とかこの状況を打開する方法は無いか……目を限界まで見開き彼女の一挙一動を見逃さぬように凝視しながら思考を巡らす。


しかし……恐怖から眼球が小刻みに動き、揺れる視界。



「や、やだなぁミシェル。これ湯葉だって!」



更に一歩踏み出すミシェル。今の発言から分かったのは、どうやらこんなジョークを言っている場合ではないということだけだ。


それにしてもとっさの言い訳が湯葉とは……彼の頭の中には豆腐か何かが詰まっているのではと思うミシェル。


しかしそんなことを考えていることはおくびにも出さずまた一歩踏み出す。



拓也も彼女の前進に伴って後ずさったが……



「ッそ、そんな!!」



逃げ場は無限ではなく、脱衣所へ繋がるドアに背が当たってしまった。



ー…考えろ!考えろッ考えろッ!!!……恐らくこのドアを開ければ一瞬で距離を詰められて仕留められる……


かといってミシェルの脇を抜けるのは…ダメだ危険すぎるッ!!


仮に抜け出たとしても背後から魔法が飛ぶ!!



上か下……コレもダメ…家を傷つけるのは論外だ………-




思考を巡らせども巡らせども良い案は浮かばない。



最早これまでか……彼がそう思ったその刹那……彼の知恵の泉から最高にイカしたアイデアが飛び出す。


思い立ったらすぐ行動……拓也は装着した神器を顔から外すと……



「ほら、だから湯葉だって言ってんじゃん!頂きます!」



あろうことか………口の中へ放り込んだ。



それはイカしたアイデアなどではなく……完全にイカれたアイデアだったのだ。



そんなイカれたアイデアを出したり、最後の最後まで大人しく返して謝罪するという選択肢が出てこない辺り彼の知恵の泉はきっと太古の昔に干上がっているか、それとも汚水に塗れているかのどちらかに違いない。



そして彼がこの後どうなったかなど……最早、言うまでもないだろう。



・・・・・



「えっと……まず野菜と果物を買って……



あぁ……下着も一着買っておかないと……」



拓也を形容するのも恐ろしいなにかに変化させた後、ミシェルは何も言わずに家を出た。


別に彼に嫌気が差して愛想が尽きたとかではない。ただの夕食の買い物の為である。



若干くらい表情を浮かべてそう呟くミシェルの手には、買い物リストと思われる一枚の紙。そこそこ混雑している通りを歩きながら彼女は溜息を吐いた。



「まったく……食べるなんて頭おかしいんじゃないですか?」



ご尤も。その通り、彼の頭はおかしいのである。



しかし……あんなことをされても彼を嫌えないのもまた事実。それだけに彼女は彼が大好きなのだから。



「それにしても……なんであんなに下着が好きなんですかね……」



まぁ……止めて欲しいのも事実だが……。



そんなことを考えている間にいつも利用している八百屋に到着した。


いつ来ても新鮮な野菜や果物が並んでいる店先。主婦と思われる人たちも野菜が積まれた籠の前で屈んで吟味している。


ミシェルは店先の主婦たちの間を縫って店の中に入ると、真っ赤に熟れたトマトが並べられている売り場の前に立った。


売り場を眺めて今晩のメニューを考える彼女。そんな彼女に店の奥から声が掛かる。



「おっ!ミシェルちゃんじゃないの、毎度ありがとねぇ!



今日は彼氏さんは一緒じゃないのかい?まさか喧嘩したとか!?」



「…違いますよ」



この店の店主である。


頻繁にこの八百屋を利用している為、気が付けば既に知り合いになっていた。


小奇麗な見た目とそこそこ整った顔立ちに反して豪快に笑う店主は、ミシェルに歩み寄って彼女の肩を叩きながらまた盛大に笑い声を上げる。


彼女の息に混ざったアルコールの匂いに、ミシェルは苦笑いを浮かべた。



「また飲んでたんですか……まだ3時半ですよ?」



「いーのいーの!酒は百薬の長なんだから!それに酒は私と主人の生きがいでもあるのさ!!」



そんな大量に薬を飲んでいたら副作用とかで大変なことになるだろう……と言いたかったミシェルだったが、店主があまりにも愉快に笑っているので何も言わずに適当に笑っておいた。





「あ、そうそう買い物に来たんだったよね!何が要るんだい!?おばちゃんがこの目で最高の品を選んであげるよ!」



「今日は…トマトが3つとキュウリが6本にレタスとキャベツが1玉。


セロリとネギが1本づつ…それからレモンが5個です」



「あいよ!」



ミシェルが読み上げた商品を手早く…且つ丁寧に選び、紙袋に詰めていく店主。


あっという間に詰め終わると、それをレジの置いてあるテーブルに置いた。



「銅貨1枚ね!」



それにしてもこれだけ買って銅貨1枚とは……やはりいつ来てもお買い得である。


ミシェルはポーチから財布を取り出して銅貨を1枚店主に手渡した。



「まいどあり~!…ぉ」



店主は受け取った銅貨をレジの中へ雑に放り込むと、売り場に目をやってなにかを思いついたような表情を浮かべると、踵を返したミシェルの肩をちょんちょんと突いて引き止める。


呼び止められたことで振り向くミシェル。



すると、振り向いた彼女の持つ紙袋の中に、赤い果実が3つ程放り込まれた。



「出来の良いリンゴが沢山入ったんだ!おまけだよ、持ってきな!」



「わぁ…ありがとうございます」



「今後ともごひいきにね~アッハハハ~!」




店主に軽快な笑い声を背に受けながら、ミシェルはまた人ごみの中へ戻って行った。


次に近い店はどこだろうか…などと考えながらとりあえず波に身を任せて歩を進める。



そしてしばらく歩いて今後の大よその動き方を決めたときだっただろうか……ふと顔を上げた彼女は偶然見つけてしまう……。



「……」



それを見つけた彼女……閉口。


そしてそれを見つけられたのはミシェルただ一人だった。



それでは何故他の通行人は彼を見つけられないのだろうか?




簡単、薄いのだ。




薄いといっても影や髪ではない……物理的に薄いのである。



いたって簡潔に説明するならば……透けているのだ……そう、まるで幽霊のように。



そんな幽霊のような金髪のサラサラなロン毛の男が、裏路地から少し入った辺りで体育座りをしながら暗い表情を浮かべているのだ……。


ミシェルが思わず足を止めて閉口した理由も別になんらおかしくはないだろう。





「生まれてこの方霊的なものが見えたことは一切ないですが……」



彼女は流れる人の中で呆然と立ち尽くしたままそんなちょっとした冗談を呟いた。


そして考える。どうするべきだ……と。



思考を巡らし、この場合での最適の判断は何かと自分に問いかける。



どこかの超紳士とは違ってしっかりさまざまなアイデアが出てくるミシェル。


無視をする、指を指して騒ぎ立てて周りを巻き込む、衛兵を呼ぶetc……


しかしその中で、彼女の中で突然彼の顔が浮かんだ。



そしてしばらくの沈黙の後、その選択肢が一番最初に出てこなかった自分を自嘲的に笑うと、意を決したように表情を引き締め、一歩を踏み出す。



「……拓也さんなら……絶対に放っておきませんよね」



片手に紙袋を抱えながら人ごみを掻き分け人の流れから抜け出ると、もうそれはすぐ目の前に居た。


距離にしておよそ3メートルほどだろうか……先程は暗い表情を浮かべているように見えたのだが、よく見れば……涙を流している。


一瞬、関わってはいけないタイプかと思ったミシェルだったが……彼女の決心は固かった。



「あ、あの……どうかされたんですか?」



ゆっくり……ゆっくりと首を持ち上げるその男。


透けているためなんだか不思議な感じだが、彼はミシェルの呼びかけに反応している。


つまり言葉が理解できていると考えても良いだろう。



そして彼は頬に掛かる髪の間から、髪と同じゴールドの瞳で若干警戒の色を含んだミシェルの顔を見上げる。


しかしそのまま黙りこくっている彼。ミシェルはゴクリと喉を鳴らし、もう一度静かに尋ねた。



「あの……大丈夫ですか?」



かなり整った顔立ち……まるでおとぎ話に出てくる王子様のようなイケメン。


そんな彼は……ミシェルを見上げたまま驚いたような表情を浮かべた。



そして次の瞬間……



「うぅ……」



「な、何で泣くんですか!?」



突然瞳からボロボロと涙を落とし、肩を揺らして嗚咽を漏らしながら号泣し始めるのだった……。



まるで迷子だったところを発見された子供の如く泣きじゃくる大人に焦りまくるミシェル……そんな時…


『グギュルルルル……』と、彼の腹の虫が盛大に大絶叫。



その音がミシェルに冷静さを取り戻させた。



ミシェルは先程の八百屋で購入した商品の入った紙袋に手を突っ込むと、一番上にあった果実を一つ掴みとって彼の前に差し出した。


すると…彼は泣きながらだが、その視線を彼女の差し出したリンゴに送っている。



ミシェルは柔らかく彼に笑い掛けた。



「……今はコレしか持っていませんが……良かったら食べますか?」



「あ……あ、あ……あ、あり……ありがとう……」



彼女に差し出されたリンゴを、そっと受け取る半透明の彼。


ミシェルは何故だか……既に彼から悪意を感じなくなっていた。


半透明の彼は、夢中になってリンゴに噛り付いている。よほどお腹が空いていたのだろう。


あっという間にリンゴを芯まで完食した彼は、一つ大きく息を吐くと、膝に手を置きながらすっくと立ち上がる。



「ありがとう……おかげで助かった」



「あ、はい……どういたしまして。



つかぬ事を伺いますが………どうして半透明なんですか?生きてますよね?」



「ん、あぁすまない。コレはこういう魔法なんだ。解けば……ほら、ちゃんと人間だよ。


どう?凄いでしょ!この魔法は…」



そう言いながら笑う彼に、次の瞬間明白な色が戻った。



かなり高等なテクニックを有する光の屈折を用いた魔法。ミシェルは思わず目を見張る。


誇らしげにこの魔法について語りだしている彼だが……この国に完全な光学迷彩を操る者がいることは多分伏せておいてあげるのが優しさというものだろう。


しかし彼のこの様子では日が暮れるまで喋り続けそうな勢いだ。それを危惧したミシェルは、ちょうど話が切れたタイミングで彼に尋ねた。



「どうして……その……ここで座っていたんですか?」



「あぁ、そのことなんだけど……どうやら道に迷っちゃったみたいなんだ。


家に帰りたいんだけど、久しぶりの帰郷で道を忘れちゃったみたいで……ここ3日くらい王都の中を彷徨い続けてたんだ…


君に見つけてもらえなかったら……多分あのまま…」



「はぁ……さ、災難でしたね」



衛兵でも捕まえて道を聞けば良いのでは……そう思ったミシェルだったが、なんとなくそう答えておく。




「じゃあ……とりあえず衛兵さんの駐屯地まで行きましょう。


住所とかは大丈夫ですか?」



「あ、あぁ、うん!大丈夫!僕の家は目立つ建物だから」



「目立つ?……まぁ…とりあえず行きましょうか」



ミシェルの後についていくように裏路地をでる半透明の男……もとい金髪のサラサラヘアーイケメン。


人の流れに戻ったミシェル。


野菜とおまけのリンゴが入った大きな紙袋……リンゴは一つ減ったが、やはりまだ少し重い。


歩く度にズレる紙袋の位置にミシェルは少し眉を顰め、何度も抱え直す。


すると彼女のそんな煩わしそうにする様子に気が付いた隣の金髪は……彼女の手の中から、ヒョイと紙袋を奪い取った。


ちょっと驚いたような表情のミシェル。


身長差が結構ある為、下から見上げる形になってしまう。


金髪の彼は見上げてくる彼女の蒼く美しい瞳を持つ彼女に爽やかな微笑みを向けると、この程度軽々と持てるというアピールをしながら軽快な口調で喋りかけた。



「一食の恩だ。重そうだから僕が持つよ!」



「い、いえそんな!悪いですよ!」



「なに、こうして駐屯地へ案内までしてもらっているんだ!このくらい任せておいてくれ!」



「は、はぁ……では、お言葉に甘えます」



結局ミシェルが折れた。



それにしても……拓也以外の男性と肩を並べて街中を歩くなど、ミシェルにとっては初めての体験。


そう考えると、彼に対して申し訳ないという罪悪感が込み上げて来る。


しかし……これも人助け。きっと彼も納得してくれるだろう。



ミシェルは自分の中でそう結論付けると、家にある残った食材と、今日買った食材を頭の中に並べ、今晩のメニューをどうしようか?などと考え始めていた。



ついでに、先程の件で平謝りしてくる彼の姿も想像してしまって……なんだかそれがちょっとだけおかしくて。


彼女は少しだけ頬を染め、手で口元を隠しながら小さく笑うのだった。




すると他愛もない会話の中、彼が凄く嬉しそうな表情を浮かべ、片手の人差し指で頬を掻きながらミシェルに語り出す。



「僕が帰郷した目的は色々あるんだけど……その内の一つは、とある女性との結婚を許してもらう為なんだ!」



「へぇ~結婚ですか。めでたいですね」



「それで先に家の方で帰ったと報告してからサプライズ的な感じで彼女を紹介しようと思って、宿屋に置いて来たんだ。


荷物も全部そこにおいてきちゃって、宿屋へ帰る道も忘れちゃって……ハハハ、君に見つけられなかったら危なかったなぁ!」



結婚……ミシェルは幸せそうな様子の彼に微笑みかけると共に、少し自分と拓也の関係にもいつかそんな方向へ変化が訪れるのだろうか……と考えてみる。


自分たちももう18。学園を卒業すれば……お互い仕事に就くことになるだろう。


そうなるときっと結婚も視野に入れていくことになる。



「(いつか……拓也さんとそうなれたらいいな……)」



ミシェルは内心でそっとそう呟くと、クールな表情を少しだけ綻ばせて微笑んだ。


隣の彼は彼女のそんな変化に気がついてはいない。しかしミシェルはそんなことを考えていてなんだか気恥ずかしくなってきたのか、頬を朱に染めたまま突如として話題を切り替えるため、少し大きめに声を張って隣の彼に喋りかける。



「そ、そういえばまだ名乗ってませんでしたね!私はミシェル=ヴァロアと言います」



「へぇ、ミシェルさんって言うんだ。素敵な名前だね。



あ、そういえば僕もまだ名乗っていなかったよ」



うっかりしていた。と、彼は軽快に笑うと歩む足を止めてミシェルに片手を差し出し、微笑みながら名乗った。



「僕は『ヘイメルスラーシュラルム=エム=エルサイド』



長いし呼びづらいから、気軽にヘイムって呼んでね」




彼が名乗ったファミリーネームは、この国の名前にもなっている。


ミシェルはなんだか少し納得してしまった。



メルは存在感が薄い。国王は髪が薄い。


そして彼は……半透明。物理的に薄い。



遺伝とは恐ろしいものである。



「じゃあ……メルさんのお兄さんですか?」



「ハイムのこと?」



「はい。友人の間ではそう呼ばれています」



「友達?ハイムに友達なんてできたの!?」



そしてこの兄……妹に対してかなり失礼なのは気のせいではない


ミシェルは凄い剣幕で迫ってくるヘイムに少したじろぎながらも、首を縦に振って肯定の意を示した


すると彼は目頭を押さえ、妹に友達がいるということに感動したのか、震える声で呟いた。



「アイツにも友達……出来たか」



しかし彼が王族だと分かれば、目的地は簡単。


むしろこの王都のど真ん中に位置する王城へ向かおうとしてどうやったら迷うのかが不思議なくらいである。



「王城なら私もよく行くので案内できますよ」



「あぁ、よろしく頼むよ!」



それにしてもこんな街中で王子に会えるなんてことはきっと他の国ではありえないだろう。


基本的にエルサイド王国の王族は皆、どこかおかしい。


敷地内の使用人にお菓子を配って歩く国王然り。使用人の掃除の手伝いをして水バケツをひっくり返して頭からびしょ濡れになる王妃然り。弁当を忘れた日、生徒の波に流されながらパンを購入するメル然り。


無用心といえば無用心。だが同時に彼らの王族らしからぬ部分が優秀な人材を引き付ける魅力であるのもまた事実だろう。


ミシェル自身も、自分の国の王都内で遭難し、飢えて裏路地でしゃがみこんでいる王子など始めて見た。


彼女は先程の彼の様子を思い出しながら、それが可笑しかったのかまた少し声を上げて笑う。


その声でミシェルの方を注視したヘイムが彼女の髪に何かを見つけスッと顔を近づけた。ミシェルは彼が顔を近づけてきたことに驚きながら少し後ずさる。


すると彼はミシェルが後ずさった分半歩進むと、そっと彼女の銀の絹糸へ手を伸ばした。



「いや、ほらクモの巣付いてたからさ」



「…どうも」



指に絡ませた粘着質な糸の塊を見せながら微笑むヘイム。


ミシェルは小さく礼を述べる。



そして……その光景を暗い闇から見つめる一人の影があることに二人は全く気が付けていなかった。



・・・・・



「ただいま」



ヘイムを王城の前まで送り届けた後、買い物を終えて家に戻ってきたミシェル。


庭ではビリーが巻き藁を相手に稽古をしている。拓也の姿が見えない辺り、彼も自室で何かしているに違いない。


ふと壁に掛けてある時計に目をやれば、針が示す現在の時刻は既に午後5時前だった。



「晩御飯の準備しないと……」



あの後の買い物で更に増えた紙袋をダイニングテーブルの上に置き、エプロンを身に纏う。


それにしても……厚意は嬉しいのだが、行く店行く店でおまけをしてもらうというのも荷物が増えすぎてしまって困ってしまう。


ミシェルはそんな重労働を終えたばかりの体をほぐすように大きく伸びをすると、早速夕食の準備に取り掛かった。



「まずサラダ……それにミンチを沢山買ったからハンバーグですね。


おまけで貰ったリンゴは食後にカットして出しましょう」



パパッと大体の献立を決め、手際良く作業を進めること数十分。


ミシェルはここに来て少し違和感を感じ始めていた。



「拓也さん……姿を見せませんね」



いつもならば頼んでいなくても頻繁にはちょっかいをかけに来る彼が、帰宅してから全く姿を見せないのだ。



「……貰った人形でトレーニングでしょうか?」



そうこうしている内にサラダと簡単なスープは完成し、後はハンバーグを焼くだけになった頃……掃き出し窓が軽くノックされて開かれ、その向こうからビリーが現れた。



「暗くなってきたし僕はそろそろ帰るね、拓也君によろしく」



「あぁ……はい、お疲れ様でした」



なんとなくそう返し……俯き、思考に浸るミシェル。


色々と考える中で、弟子のビリーなら彼のことを知っているのでは?と考え、キッチン越しに彼に話しかける。



「あの……拓也さん見てませんか?」



「え、拓也君かい?……一度街に行くって言ってたんだけど、4時頃に帰ってきて…うん、そうだ!


なんか凄く深刻そうな表情で僕に今後の修行の内容が書いた紙をくれたんだよ、そこからは僕も姿を見ないんだ!」



「そう…ですか……。



分かりました。多分その内帰って来るでしょう、ビリーさんも気をつけて帰ってくださいね」



「あ、うん。また明日」



どこと無く感じる嫌な予感。


ミシェルは沸き起こる胸騒ぎを無理やり抑え付け、静かにまな板に視線を落とした。




・・・・・



時刻は午後10時。


すっかり街は静まり返り、街道をぼんやりと照らす規則的に並んだ街灯。


その明かりを頼りに歩く者もいれば、その明かりを避けるように闇に紛れる者もいる。


しかし……銀色の美しい髪を揺らしながら駆ける彼女はそのどちらでもない。


時に街道、時に屋根の上を飛び回りながら、頻りに辺りを見回すように首を動かしていた。



そしてある場所で足を止める。



そこは、エルサイド王国王都内の一角に存在するギルド『漆黒の終焉』。


ドアを蹴破るように開け放って中の人物たちの注目を浴びながら室内へ入った彼女は、カウンターで眠そうに欠伸をしている長い茶髪をポニーテールにした幼い女性の下へ駆け寄った。


すると向こうも銀髪の彼女に気が付き、その剣幕に目を見開きながら口を開く。



「ど、どうしたのミシェルちゃん!こんな遅くに……」



「拓也さん!拓也さんは来てませんか!?」



「ちょ、ちょっと落ち着いて!一体何があったの!?」



肩で息をしながらも、怖い表情で詰め寄ってくるミシェルを宥めるように手で制しながらとりあえずコップに入れた水を差し出すリリー。


しかしミシェルは差し出されたコップに目もくれず、ただ彼女が答えるのを、鋭く睨みつけるように見つめながら待っている。



「拓也のヤツなら今日は来てないぜ~!1日中ここに居る俺が言うんだから間違いない!」



ミシェルの問い掛けに答えたのは、いつも朝っぱらから酒を浴びるように飲んでいる男たちの1人。


いつものミシェルなら、口にはしなくても『いや働けよ』的な考えがまず頭に浮かぶのだが、今の彼女にはそんな余裕は無かった。


瞳の奥に悲しげな色を覗かせて浅く溜息を吐くと、すぐに踵を返して歩き出す。



「……そうですか、お騒がせしました」



すると……ギルドの奥からスーツを着た長身の男性が現れる。


彼は裏で会話を聞いていたのか、真剣な顔つきで彼女を小走りで追って、ギルドの出口辺りで彼女の肩を掴んだ。



「待ちたまえミシェル君。拓也君を探しているようだけど……何があったんだい?」



ミシェルはロイドのその問い掛けに思わず歯を食いしばり、今にも泣き出しそうに表情を歪めて目を伏せると、震えた声でそっと呟く。



「拓也さんが……いないんです」





酒飲みたちの騒ぎ声で掻き消されそうになったその言葉だったが、ロイドとリリーの耳には、彼女のその声がちゃんと届いていた。


それによく見れば……小刻みに震えている。



「部屋にも……どこにもいなくて……リディアさんに聞いても知らないって……。



……どうしよう………もし……もし拓也さんに何かあったら………」



震える声でそう言葉を必死で紡いでいるうちに……蒼く大きな瞳から、透明の雫がポツリ…ポツリと落ち始めた。


嗚咽混じりのその言葉は男たちの騒ぎ声の中に掻き消え、落ちる涙は次々と床に染みを作る。



「……ミシェルちゃん………大丈夫?」



リリーはゆっくり歩み寄ると、背にそっと手を回し、摩りながら心配するように眉を顰めてそう声を掛け、静かに泣き続けるいつもとは比べ物にならないほど弱々しいミシェルに、長年の付き合いのリリーも驚きを隠せなかった。


いつだって凛としていて気丈に振舞うミシェル。


長い間彼女を見ているリリー。しかしそんな彼女でも、ミシェルががここまで感情を露にするようになったのを見るようになったのは、ここ数年……拓也と出会ってから。



「もし……拓也さんに何かあったら……私……」



男勝りの実力と行動力を持って仕事をこなすミシェルを知るリリーは、こんな恋人のことで涙を流して心配する彼女を前にして、彼女には悪いがなんだか女らしくなったなぁ……と思うのだった。



拭っても拭ってもあふれ出てくる涙を、顔を覆うことで何とか抑えようとするミシェルだが、一向に収まってくれない。


それどころか時間が経てば経つほど悪いイメージが頭の中に浮かび、より勢いを増してしまうだけ。



すると……リリーは泣きじゃくるミシェルの肩をパン!と軽く叩くと、そんなアクションを起こした自分を見つめてくるミシェルに向かって明るく笑い掛け、何もない寂しい自信の胸板を元気よく叩いて見せた。



「大丈夫よ、あのバカのことだからきっと無事。皆で探せばきっと見つかるわ、もちろん私も手伝う」



「でも……どうしよう……もしかしたら殺されちゃったんじゃ………」



「いや、その可能性は薄いね」



すると彼女のその言葉を否定するような返答をしながら、裏に下がっていたロイドがまた顔を出す。



「もし神の襲撃で拓也君が行動不能なら、間違いなく敵はミシェル君の前に現れているはず。



でも妙だ……果たして拓也君が何も言わずにミシェル君の前から姿を消すだろうか……?」



「マスターもそう思いますか……私も同意見です。


それにもし神の襲撃だったとして、アイツが今、ソレと交戦しているなら……多分、ミシェルちゃんの家に出入りしてる天使の人たちがそれを知らせてくれるんじゃない?」



「でも戦闘が起こっている可能性も少ないと僕は思う。


まず相手の狙いはミシェル君。ならばこの王都周辺に敵は現れる。


拓也君が迎撃に向かったとすると、それほど時間が掛かるとは思えない。


しかし拓也君はミシェル君の前から数時間姿を消している。となると、彼を相手にしてもそこまで戦えるのは……今のところオーディンしかいない。


もし……オーディンが拓也君との戦闘が目的だった場合も、彼は王都周辺に現れるはず。そして知っての通り、彼らの戦闘は凄まじい。


それならば……爆風や地揺れなどの戦いの余波がここまで届かないとおかしいんだ」



冷静に分析するロイド。


ミシェルも涙を流しながらだが、話の内容だけは何とか頭の中に入れることが出来た。



「とにかく連絡用の水晶を使って王城へは連絡を入れた。



現在、剣帝捜索の為”帝”に招集が掛けられたらしい……とりあえず今は王都内をくまなく探そう。僕も出る。


リリー君も頼んだよ」



「は、はい!」



ロイドは真剣な表情を浮かべてそう言葉を締め括ると、スーツのジャケットに手を掛けて脱いでハンガーラックに掛け、ミシェルを追い越し、ドアに手を掛ける。


長い脚を包む黒いスラックスに清潔感溢れる白いシャツ。それらを引き締めるようなグレーのベストを着用した男は、夜の闇の中へ消えていった。



「ミシェルちゃん!私たちも行こう!」



「……ごめんなさい……巻き込んでしまって……」



「いいのいいの!長い付き合いなんだからそういうの気にしない!」



ロイドの背を追うように、ミシェルとリリーも闇の中へ駆けて行く。




・・・・・


翌日早朝……王城のとある一室に集まる色とりどりのローブの集団。


すると扉を乱暴に開け放ちながら新たに白色のローブの男が入室した。


室内の全員が彼に注目する中、彼はフードを暑苦しそうに脱ぎ、汗ばんだ顔を覗かせると、落胆の表情を浮かべながら報告した。



「ダメだ、王都周辺…100km圏内のどこにも見当たらない。


それどころか戦闘の痕跡すらない始末だった」



「光帝と炎帝と雷帝と風帝の広域担当も全滅か……闇帝、王都内でもまだ何も分からないかい?」



「ダメ……影も形も掴めない……」



水帝のその問い掛けに、両手からドロリと濃い闇を垂れ流す闇帝はそう返した。


彼らのその報告をじっと椅子に腰掛けながら聞いていた国王……ローデウスは、目を閉じ様々な推測を脳内で立てると、その中でも一番有力だと思った説を口にした。



「となると、やはりロイド君の言う通り戦闘は起きていない可能性が高いね。


襲撃ではないとすると……彼が姿を消した理由はなんだろう……。



ロイド君はどう思う?」



「……弟子のビリー=ラミルス君が、最後に彼と会ったときに様子がおかしかったと証言しています。


僅かな情報ですが……他に手掛かりもないですからそこから推測するしかないでしょう」



唸りながら黙り込む国王。


圧倒的に情報が不足している。



それにしても、どれだけ探ってもまず彼の意図が突き止められない。



彼のことだ。何か危険なことをするならば、予備策として何かを残しているはず。


しかしそれだと思われるものが見られないとなると、一体何が起こっているのかはまったく分からない。



「でもさ~、剣帝が意図的に姿を隠してるなら私たちじゃ絶対に見つけられないよ?


それこそ神や天使ってのを呼んでこないと」



いつもなら会議中でも甘味を食べている地帝も、今回ばかりは真剣な様子で案を出す。


確かに彼女の言うことは正しい。


しかし、神や天使でも相当上位のものを呼んでこなければ、姿を消した彼を探し出すなんてことは到底出来はしないだろう。



それが分かっている国王は、頭を抱えて机に突っ伏した。






するとそんな時、ロイドが何か良い案を思いついたのか、突然手を打ち合わせた。


彼のそんな様子に気が付いた一同は、一堂に視線をロイドに会し、彼の発言を待つ。


全員の注目が完全にロイドに集まる中……彼は分かりやすく説明をする為ゆっくりとした口調で語り出した。



「ミシェル君の使い魔は、拓也君と親しい天使であると聞きます。


彼を呼び出して、拓也君の行き先に心当たりがないかを聞いて見るというのはどうでしょうか?


行き先までは分からないにしても、親しい彼なら拓也君の行動パターンから精度の高い推測が期待できるかもしれません」



「あぁ!あのすっげぇ燃えてた天使のことか!!」



「なんか枝振り回すヤツだよね!」



「炎帝に地帝……アンタらはちょっと黙ってな」



水帝にそう言われおとなしく口を噤む二人。さすがは水帝の姉御である。


それはそうとロイドのその提案に国王は賛成のようだ。何度も頷くと椅子を引いて席から立ち上がると、そのまま歩を進めてドアノブに手を掛けた。



「ロイド君……ミシェルさんは今どこにいるんだっけ?」



「王女殿下の部屋で待機しています。私の部下もそちらにいますので、ご一緒いたします」



「そうか、では行こう」




・・・・・



「み、ミシェルさん……大丈夫です、きっと無事ですわ。


だってあんなに強いんですもの、そう簡単にやられるわけがありません」



椅子に浅く腰掛け、前のテーブルに両肘を着いて銀髪のカーテンを顔に掛ける彼女を気遣うように背を摩りながらそう口にする金髪の巨乳少女メル。


しかしうな垂れたまま動かないミシェルからは、小さく適当な返事が返ってくるだけ。


彼が突如として姿を消して、精神的に相当参っているのだろう。



すると、部屋のドアが数回ノックされた。



「やぁ、おはよう。失礼するよ」



ドアの向こうから現れたのは、国王、ロイド……そして帝。



「な、何か分かったんですか!?」



その面子に、ミシェルは勢いよく立ち上がる。


蹴り倒されるように後ろに倒れた椅子は、重く乾いた音を上げた。



彼女の問いに国王は静かに首を横に振る。


……期待に僅かな光を取り戻していた彼女の瞳は、また静かに暗い色に戻って行った。



「そう……ですか……」



ミシェルは目を伏せながら小さくそう呟いた。





明らかに暗い様子の彼女にたじろぐ国王。


それを見かねたロイドが、彼の代わりに切り出した。



「ミシェル君、使い魔の天使を呼び出してもらえないかな?


彼は拓也君と親しいようだから、何か手掛かりになるような証言が得られるかもしれないんだ」



ミシェルは虚ろな目をしながらロイドのその言葉に耳を傾けると、静かに頷いて呼ぶ為に小さく空気を肺に取り込んだ



「呼んだか?」



その次の瞬間、まさに今呼び出そうとしていた人物の声が部屋に響く。


発生源は部屋の隅。


どうしていつも呼び出してもいないのに勝手に現れるのか……ミシェルはそんなことを思ったが、最早ツッコむ気力など残ってなどいない。



一堂が彼に注目する。いつもなら拓也同様ニヘラ笑いが浮かんでいるはずのその顔には真剣な色。


どうやら既に事態は把握しているようだ。



勝手に現れた彼……セラフィムは、皆の注目が自身に集まる中……残念そうにお手上げのポーズを取ると、小さく溜息を吐く。



「俺も探してみたが……案の定見つからないな」



僅かに見えた希望の光が消え去り、ミシェルは暗かった表情を更に暗い闇色に染める。


案を出したロイド……同時に国王も渋い表情を浮かべて眉を顰めた。



すると……セラフィムは彼らのそんな負の反応を眺めると、口角を僅かに吊り上げ、挑発するような笑みを浮かべると、今の残念な知らせを覆すほどの朗報を投下した。




「だが安心して良い、現在神の襲撃は確認されていない。




つまり……拓也は死んでねぇよ」



「そ、それは本当ですかッ!!?」



真っ先に食いついたのはミシェル。


その知らせに安堵し固まる一堂の中で一際大きく声を張ってセラフィムに詰め寄ると、彼の服を破かんばかりに掴みながらそう問い正す。


彼女のあまりの剣幕に固まる周囲。セラフィムも先程の挑発するような表情は最早影も無く、冷や汗を流して瞼をパチパチと開閉させながら何度も何度も小刻みに頷くのだった。









「……よかった…………」



拓也が一先ず無事だということを知り、安堵から緊張の糸が切れ、力なく脚を崩してその場にへたり込むミシェル。


他の面々の表情にも、ホッとしたような笑みが浮かぶ。



「まぁ……姿を消した理由はまで分からん。



ミシェルちゃん、何か心当たりはないか?」



座り込んだミシェルにそう尋ねるが、彼女はしばらく考え込んで見たが結局首を横に振った。


セラフィムは小さく、そうか…と呟くと、近くの椅子を引いて腰掛けながら額に手を添えて何か深く考え込むような仕草をする。



そしてそのままじっとして思考を巡らせた彼は、行き着いた結論を絞り出すような声で目を瞑ったまま放つ。



「正直言って、即効で拓也に大きな影響を与えられる人物はミシェルちゃんしか思いつかない。


俺の読みだと必ずミシェルちゃんが関わってるはずなんだがな……」



そうは言われても……ミシェルには思い当たる節がなかった。



彼がパンツを被るのは日常。それに自分が制裁を加えるのもまた日常。


彼がパンツを捕食しようとしたのは流石に初めてだが、多分これもこれから先は日常となるだろう。


自分でそんなことを考えながら、ミシェルが軽く欝になりそうになったのは言うまでもない。



「……分かりません」



しかし……こうして思い出すと、あんなふざけた日常がどれだけ大切だったか……身に染みる。


こみ上げる感情はあっという間に涙に変わって彼女の視界をぼやけさせた。



やっとの思いでなんとか瞳に溜まる透明の雫を落とすのは堪えたが、日常が失われた消失感が引き起こす胸の痛みは以前強さを増すばかり。



大好きな彼と過ごす日常を失うくらいならば……まだパンツを食べられる方がずっとマシだ。


一体これからどうなるのだろう……



彼はもう帰ってこないのだろうか?



そんな不安と日常の思い出が交互に頭の中を過ぎり、グチャグチャになる思考。


しかし……彼女が『もう彼との日常は戻ってこないかもしれない』という一つの考えに至った時……とうとう雫を留めていたダムは決壊した。







嗚咽も漏らさず、ただ瞳から涙だけが溢れる。


音も無く溢れる涙は、ポツリポツリと絨毯の上に零れ落ち、小さな円形の染みを連ねていった。



そんな彼女に掛ける言葉も見当たらず、三者三様の反応を見せる周りの一同。


重苦しい沈黙だけが流れる空間となったメルの部屋。



「おはようハイム!カッコいいお兄ちゃんがモーニングコールを……




………え……な、何この状況……」



そこへ突如としてドアを勢いよく開け放ちながら登場をしてくれたのは……エルサイド王国王子……ヘイメルスラーシュラルム。通称ヘイム。


しかし颯爽と登場した彼だったが、眼下に広がる光景に萎縮したように目を見開き入室の勢いを殺すと、部屋の一角に立ち尽くすメルを見つけて、彼女に小さくそう問い掛ける。


ちなみに現在は早朝……6時前。


朝から凄まじいテンションである。



だが肝心のメルは、彼の凄まじき間の悪さに額に手をやりながら、内心で『カッコよくない』とツッコみながらも視線で、黙っていろと彼を脅した。



妹からのそんな視線を受けながら部屋の中を見回すヘイム。


メルと同じゴールドの瞳に映るのは、有名なギルドのマスターとその受付嬢。この集団だけで一国を落せると謳われる王国の最高戦力の帝と、国王。


そして背に羽を生やす謎のイケメン。



中々に珍妙な顔ぶれが揃ったものである。



「お、テメェ戻ってたのか!いつ帰ってきたんだよ!!」



「ハッハッハ、王都に到着したのは4日前だけど城に到着したのは昨日さ!!」



「炎帝、ヘイム……黙ってな」



「相変わらずだね~ヘイム!というかよく王都まで戻ってこられたね!」



「地帝、アンタも空気読みな」



「じゃあ今日は宴会だな!!」



「やったー!!甘いものは大量にね!!」



咎めるような口調で彼らにそう言う水帝だがまるで効果なし。


仕方ないので三者の頭部に拳を投下し、無理やり黙らせることになった。






「ックゥゥ!!やっぱルミ……水帝の拳は痛いね!!」



危うく本名を口走りかけたヘイム。


しかし水帝はすかさずフードの下から恐ろしいまでの眼光で、ギロッと彼を睨み付けて威圧し、事なきを得た。


彼らがそんなやり取りをしているうちに、ミシェルは素早く涙を手の甲で拭ってすっくと立ち上がり、平然を装っている。


が、しかし……目元が真っ赤になっているせいで、泣いていたなんてことはバレバレだ。



すると、ヘイムはそんな彼女の存在にようやく気が付く。



「君は……昨日のリンゴさん!



そういえばハイムの友達だったよね。また会えて嬉しいよ!」



明らかに彼女の様子が平常ではないのにも関わらず、彼は満面のスマイルでミシェルにそう話しかけた。



次の瞬間、驚愕の表情を浮かべたメルが、兄のヘイムを指差しながら声を荒げてミシェルに問い掛ける。



「み、ミシェルさんコレと知り合いでしたの!?」



「ハッハー!裏路地で行き倒れかけているところにリンゴを恵んでもらったのさ!!」



仮にも王族が胸を張って言うことではないだろうと満場一致で皆が思ったのは言うまでもない。



そして……妹に”コレ”とモノ扱いされても全く意に介さないその器量。まさに王子である。



「それに城まで案内もしてもらったんだよ、いや~本当に助かっちゃったな!」



「紙袋を抱えた銀髪の美少女ってミシェルさんのことでしたのね………」



高らかに笑うヘイムの傍ら、頭痛に襲われるメル。


ミシェルは彼のテンションに付いて行けずにたじろいでいる。




しかし……そんな彼の言葉から何を読み取ったのか……虚空を見つめながら小さくブツブツと呟いて思考を巡らす人物が一人。



彼女は……急速に拓也失踪の真相へと迫っていた。




その彼女の名は…………




「もしかしたら………アイツが姿を消した理由………分かったかもしれないわ」



自称大人な、人の額に何の躊躇いもなく万年筆や氷の針を突き刺すバイオレンス幼女。



ロリーこと……リリー。




驚愕の表情を浮かべてリリーの肩を揺らすミシェル。


リリーは少々動揺しながらだが、確かに首を縦に振った。



すると彼女は恐ろしいことに既に彼の居場所まで把握手いるかのようにブツブツと語り出す。



「場所は恐らく……うん、あそこね………だけどアイツを取り押さえてここまで引きずってくるにはかなり人がいる……」



「私も行きます!!」



蒼く美しい瞳に強い意志を宿したミシェルがリリーの肩をガッシリと掴みながらそう口にした。


彼女からまるで自分を射殺さんばかりの眼光を向けられるリリーは、そんな切羽詰った様子の彼女から一度目を逸らすと、彼女が向けてくる蒼い瞳を見つめ返して口を開く。



「それはダメよ。今、ミシェルちゃんが会いに行けばアイツは多分パニックを起こす。


街中でそれをやられるのはマズイわ。


なるべく迅速にアイツを拘束してココに戻ってくるから……ここで待ってて頂戴」



腑に落ちなさそうな表情のミシェルだったが……長年の付き合いの彼女の言うことだから何かちゃんとした根拠があるのだろう。


しばらくの沈黙の後に、ミシェルは一度だけ首を縦に振る。



そして、彼女の肩を掴む手から徐々に力を抜きながら……託す。



「拓也さんを……お願いします」



「お姉さんに任せときなさい」



何もない胸板をトン!と軽く叩き、ニコリと微笑むリリー。



ミシェルも拓也がとりあえず無事だと分かり、且つ目の前の彼女が何かを確信したことに安堵したのか、いつも通りとまでは行かないものの、男なら誰しもがドキッとするような綺麗な笑みを浮かべるのだった。


するとそれまで大人しくしていたセラフィムがリリーの方へ歩を進めながらバサッと全ての翼を大きく広げる。


平常時は綺麗に畳まれている為そこまで邪魔になったことはないが……こうして見ると中々の大きさ。


そして……天使の最上位に恥じない程に神秘的なその姿。



「『四大天使……ミカエル、ラファエル、ウリエル、ガブリエル。熾天使メタトロンの名の下に命ず。顕現せよ』」



刹那……彼の周辺が一瞬だけ淡く光り輝いたかと思うと、暖かく心地よい風がそちらから一同の肌を撫でた。


気が付けば、彼の背後には四人の天使。



それぞれが背に四枚二対の純白の翼を生やした美男美女。



「とりあえず俺とコイツらで手伝うぜ」




「俺も行くぜ!」



「私も私も!」



「……私も行くよ、この二人に任せるとろくなことにならないからね……」



「フン、仕方ないから僕も行くよ」



ローブの集団からも次々と参戦の声が上がった。



「じゃあ僕も行こう。戦力は少しでも多いほうがいいだろうから」



手を上げて爽やかな笑みを浮かべるロイド。


コレで拓也捕獲隊は総勢十二名。



それにしてもロイド……”戦力”と表現する辺り、やる気満々である。



召喚されたラファエルは、既に情報を把握しているようである。


すると彼女は集まった面々をぐるりと見渡すと、召喚主のセラフィムにそっと耳打ちをする。



「セラフィムさん。この程度の戦力で拓也さんを拘束するのは不可能だと思うのですが……」



「安心しろ、秘策は用意してある。


それとミシェルちゃん家に住み着いてる神にも協力してもらおうか……」



秘策…。そんな言葉呟く彼の表情が一瞬、新しいおもちゃを得た子供のように楽しそう……且つ不気味に歪んだのをラファエルは見逃してはいなかったが、あえて何もツッコまないでおくのだった。



・・・・・




「作戦は単純です。


私たちが現れた時点で、彼はどうせミシェルちゃんの所へ連れて行かれることは察するでしょう。


ですから私が会話で気を引いている隙に半数が裏口から屋内へ侵入、拘束します。



抵抗するようなら、店に影響がない程度に実力行使も許可します」



全員が彼女の指示に黙って頷く。



早朝故、まだ人通りの少ない通りを行く色とりどりのローブの集団と、スーツジャケットを脱ぎ、戦闘用か黒い革の手袋を装着しながら歩く長身のイケメン。そして眠そうに目を擦るリディア。


そしてその先頭を行く茶髪のポニーテール。リリー。




リリーとリディア以外は、強者揃いのギルドのマスターとして有名なロイドと、王国最高戦力の帝。



コレがもし人が多い昼下がりだったならば、彼らはきっととっくに人に囲まれているのだろう。




かくして……一国を落とせる戦力+神+αによる、一人の人間を捕獲するというミッションが……



今、始まる。


・・・・・


リリーたちがゾロゾロと出て行って数十分。


メルの部屋に残された数名は、各自で椅子に座るなりして楽な姿勢って彼らの帰りを待っていた。



「……」



しかしミシェルだけはまだ落ち着かない様子で椅子に腰掛け、忙しなく指同士を打ち付けるようにして不安を紛らわそうとしている。


自分が直接行けないもどかしさと焦燥感から、彼女はテーブルに両肘を付いてうなだれた。



一体どうして……自分が何か気に触ることをしてしまったのだろうか……考えても何が原因で彼は姿を消したのかは分からない。


こんなことならリリーが辿り着いた結論を聞いておくのだったと、ミシェルは静かに溜息を付く。



するとそんな時……廊下の方から、話し声や怒声。そして大勢の足音が僅かだが聞こえ始め、それは次第に大きくなる。



「帰ってきたんですわ!」



「ッ!!」



メルがそう叫び、ミシェルが椅子を蹴り飛ばすようにして勢い良く立ち上がった。



それとほぼ同時に開かれる部屋のドア。



「流石……王国が誇る帝だね」



国王がそんなことを言って微笑んでいる間に、向こう側からは、ローブの集団とロイド。リリーにリディア、四大天使たちがなだれ込む。



何故か彼らは一人残らず疲れきった表情。おまけに全員漏れなく服が所々破けたり傷ついたりしている。


よく見れば擦り傷などの軽い怪我をしている者もいた。



そんな中、脇からダルそうに金髪を掻き上げながら、一際ボロボロになったセラフィムが帝の脇から姿を現し、口を開く。



「すまねぇなミシェルちゃん……だいぶ時間が掛かっちまった」



「い、いえ……それで…………拓也さんは………」



「あぁ……なんとか捕まえた」



そう言いながら彼が掲げる右手に握られているのは……見たこともない謎の黒い紐。


緊張した面持ちでありながらも、彼のその言動に小首を傾げるミシェル。



すると彼は、その紐を一度グイッ!と思い切り引っ張った。



その運動に連動し、集団の背後に隠れていた紐が彼の前へと飛び出る。




「……ウッグ………エグ………」




そしてその紐と共に………簀巻きにされた拓也が一緒に飛び出してきた。



「た……拓也………ハァ~…」



およそ半日ぶりに見る彼の姿。


ミシェルは一先ずの安堵に胸を撫で下ろし、深く溜息を付いてその場にへたり込む。



謎の黒い紐に顔以外を綺麗に縛り上げられた拓也は、ミシェルの数メートル先で鼻を啜りながら、滝のような勢いで涙を垂れ流し続ける。



ラファエルは一歩歩み出て彼の胴体をまるでサッカーボールを扱うかのように蹴り飛ばす。


しかし拓也は最早そんなこと気にはならないのだろう。


依然として泣ききじゃくりながら、彼はミシェルの目の前まで転がった。



「ウゥ……ァァァ………」



「………拓也……さん」



きっと泣きすぎたのだろう。



鼻の下と目は赤く腫れ、頬には涙が伝った後が薄っすらと幾重にも残っている。


そんな状態の彼を見て……ミシェルは溢れる自分の感情をぶつける前に、まずは子供のように泣きじゃくる彼を慰めてあげよう。


ミシェルは今すぐにでも目の前の拓也に抱きつきたいという衝動を目をギュッと瞑ると同時になんとか押さえ込むと、ポケットから取り出した白いハンカチを優しく彼の目元にそっと当てた。



「……何か……何か嫌な事を……してしまったんでしょうか?



だとしたら……謝らせて欲しいんです……」



「アァァ……ウアァァァ……」



彼女の問いに対する彼の返事は、言葉とはとれないただの泣き声と嗚咽。


彼のそんな反応に思いつめたように顔をしかめたミシェルは、ここまで追い込まれ、辛そうにしている彼を見て胸がギューッと締め付けられるように痛むのを感じる。気が付けば視界が若干潤んできていた。



泣くまい……なんとか雫が零れるのを堪えた彼女は、目の前で今にも壊れてしまいそうな大好きな彼の頬にそっと手をやると、その手を少しだけ引き寄せ、彼の顔を自分の方へ向ける。


ふわりと香るアルコールの香り。どうやら酒を飲んでいたようだ。



「ッウゥ……ウック…アァ」



いつものニヤケ面は完全に消え失せ、小さく嗚咽と泣き声を漏らしながら、依然として涙を垂れ流す。


ミシェルは蒼い瞳を潤ませながら、若干震える声で言葉を紡ぐ。



「私のこと……嫌いに…なっちゃいましたか…?」




悲しげにそう呟くミシェル。周りの一同は思わずシン…と黙り込む。


そんな言葉を直接向けられた拓也は、やはり泣き続けていたが……



しばらくすると、黒い紐でグルグルに巻かれた体をなんとかくねらせながら尺取虫のような動きで、立ち膝を崩して正座のような姿勢で暗い表情を浮かべて俯くミシェルの膝小僧に頭をコツンとぶつける。


そこでようやく拓也が動き出していたことに気が付いたミシェルは、少しだけ驚いたように目を開く。



「嫌いじゃない……大好きなんだよぉ………」



涙声で呻くようにそう言う拓也。


大好き。そのワードだけでミシェルは今にも飛び上がりそうなほど嬉しかったのだが、その前に疑問が浮かぶ。


では何故彼は自分の前から姿を消すようなことをしたのだろうか?…と。


すると彼はその発言を皮切りに感情を抑え、留めておく栓が外れたようにより大量の涙を流し、しゃくりあげながら……語りだした。




「やっぱ……ッウゥ……やっぱり……嫌……ッエグ……だったよな………


俺……いつも頭おかしいことしてる……ッウ………顔も良くない……



だがら……だがら………ッウゥ…エッグ……ミジェルが………あんなイゲメンとかだをならべで歩いてる姿見で……



ぐやじぐで………なざげなぐでェ゛……づらぐでェ………」



床に伏せる顔を中心に水溜りを広げる拓也。


言葉は詰まり、何度もしゃくりあげて一生懸命語った彼………しかしそんな状態の彼とは裏腹に……



「…………は?」



ミシェルの口からは素晴らしく素っ頓狂な声が上がった。



すると、そんな拓也とミシェルを遠巻きに眺めていた受付嬢リリーが、彼の発言から上手く状況を理解できていなさそうなミシェルに声を掛ける。



「まぁ簡潔に説明すると……ソイツは、ミシェルちゃんが浮気をしたと勘違いしたみたいなの」



「は……はぁ!?わ、私がですかッ!!?」



「ステナイデ……オネガイ………ステナイデ……」









呻くようにそう呟いた拓也。


すると彼はしばらく同じことを繰り返し繰り返し呟いていたかと思うと、突然いきなり黙り込む。



そして徐々にプルプルと小刻みに震え始めたかと思うと……



「お願い゛ミジェル゛!!捨でない゛でッ!!俺ッ!!俺なんでもするがら゛ッ!!」



「ば、バカな!!これは使い手が俺でも魔紐『グレイプニル』だぞ!?」



拓也は自分の体を拘束する黒い紐をまるでただの糸とでも言うが如く容易く引きちぎると、地面を這いずりながらミシェルの服に掴み掛かり、情けないほどの泣き顔と泣き声を回りに晒しながら、ただひたすらに『捨てないで』と連呼する。


その子供のような号泣は全く勢いを衰えることなく、さらには次第に勢力を増していく。



ミシェルは全てを悟った。



昨日……人助けだと思って助けたヘイムと王城まで案内しているところを見られたのだろう。


それがまさかここまでの事態を引き起こすとは思ってもいなかった。



拓也はしばらくおどおどするミシェルに縋り付いて泣き続けると、何か物凄く辛そうで悲しい表情を一瞬浮かべたが……すぐにそれを腹の中深くへ飲み込むように消し去る。



「悔しい……あんなヤツにミシェルの唇が………くやじいけど…全部…全部忘れるがらぁッ!!


お願いだよぉ゛ぉ゛!!!」



「………は、はぁぁ!!?」



彼の放った強烈な一撃に、今まで彼をなだめようと必死だったミシェルも遂に爆発した。



羞恥にも似た怒りの感情が沸々と沸き上がり、飛び出した腕はいつの間にか彼の胸倉を掴んで揺する。


そして会話の内容からか頬を鮮やかなの朱の色に染めると、涙を滝のように流し続ける拓也を激しく睨むように見つめながらも驚愕と羞恥の入り混じった表情を浮かべながら声を荒げた。



「私が拓也さん以外にそんなことさせるとでも思っているんですかッ!!?ありえないですッ!!」



「でも゛……でも゛………金髪野郎が………」



「してませんしさせてませッん!!」



あまりにも拓也がぐずっている為ミシェルはちょっと腹が立ってきたのだろう。


言葉を一瞬区切って頭を小さく仰け反らせると、自身の額を彼の額に勢い良くぶつける。



しかし流石は拓也というのだろうか……彼の予想以上の頭の固さのせいでダメージを大きく受けたのはミシェルだった。



しかし今はそんな些細なことを気にしている場合ではなかった。


なんとか説明をして彼を納得させたいミシェル。だが状況が状況なため頭が混乱して文を構成できない。


胸倉を掴まれてガックンガックン揺らされ続ける拓也の頭部は今にも取れそうである。



そして遂に拓也の顔が若干青くなってきた時……この無意味なやり取りに終止符を打つべく、部屋の隅でじっと様子を伺っていた彼が動き出す。


彼は半透明化を解除して静かにミシェルの背後から歩み寄ると、彼女を挟んだ向こう側で泣きじゃくる拓也に声を掛けた。



「話から状況は大体把握したよ。



つまり僕が彼女に道案内をさせてしまったことが勘違いを生んでいるようだ。



それ以上のことは何もないんだよ」




優しく笑い掛けたヘイム。



「ちょ、ちょっと拓也さ…きゃ!」



拓也は涙を流しながら声の発生源の人物の顔を認識してハッとした表情を浮かべ、一瞬だけ歯をギリッと食いしばると、彼の眼前に座るミシェルに飛びつくように抱きつき、そのまま体を捻ってミシェルを自分の体で覆い隠すように押し倒す。


そして号泣しながら野生動物の如く、見下ろしてくるヘイムを威嚇した。



「お前!!ミシェルはダメ!!ミシェルは絶対渡さないからなァッ!!!」



「こんなに人がいる前で何するんですッ!!どいてくださいッ!!!」




「あ、あの…僕はそんなつもりは…」



「それ以上近づくなッ!!」



『フシャー!フシャー!』などと鳴き声を上げながら精一杯威嚇する拓也。だがしかし……号泣しているせいで幾ら毛を逆立てようとも覇気が皆無。


ヘイムも思わず苦笑いを浮かべ、まるで警戒心マックスの野良猫を扱うように少し距離を取ってなだめるように両掌を胸の前で構えて窘めようとする……が、拓也は体勢のせいで赤面して暴れるミシェルを自らの体の下に隠し、依然として厳重警戒中である。







そんなお互いが向かい合う攻防が数分続く。


相変わらず号泣しながら毛を逆立てるようにして唸る拓也。


細かい事情を説明しようにも、彼がこのような状態の為何も出来ないヘイム



「どいてって言ってる…でしょッ!?」



しかし二人の均衡した睨み合いは、魔力強化を施したミシェルの拳が拓也の腹を貫通させんばかりの勢いで鳩尾に食い込んで、彼が体勢を崩したことでようやく終了を向かえた



赤面したミシェルに殴り飛ばされた拓也は一瞬だけふわりと体が完全に地面から離れ、そのまま床に叩きつけられて腹を抑えながら辛そうに表情を歪めながらミシェルを見上げ、震える声で小さく発する



「痛いよ……」



ミシェルは眼下に転がる彼をクールながらも赤らんだ表情を浮かべて乱れた髪を手櫛で直し、頬に掛かった銀糸も髪の流れに戻すと、痛みと悲しみに悶絶する彼に向かって少々荒い口調で半ば叫ぶように口を開いた



「だ、だから何度も言っているでしょう!


あの人……ヘイムさんには道を案内しただけです!


き…き、キスなんて絶対にしていません!


浮気なんてするわけないじゃないですかッ!



全部拓也さんの勘違いですッ!!」



すると彼女のそんな剣幕に拓也が押され始めたのを感じ取るヘイムは、今が頃合だと見計らい、彼女の発言の切れ目にスッと割り込んで自分の意見も口にする



「そ、それに僕は婚約者がいるよ!


そんな大切な人がいるのに、他の女性に手を出すなんて不埒なマネなんてしないさ!」



ミシェルが離れて行ってしまう。ミシェルが盗られてしまう


そんな考えに頭の中を埋め尽くされて、拓也もきっと冷静でいられなかったのだろう


ミシェルの強烈なブローを食らい若干頭が冷え、ようやく今まで彼らが伝えようとしていた内容が理解できるようになって来た拓也は、ミシェルとヘイムと背後のギャラリーたちに問い掛けるような視線を向けて回る



そしてそれが一周した頃……彼は急に黙り込み、床に視線を落として俯く。


影の加減で表情はよく分からない。



「じゃあ……ミシェルは………俺のこと……捨てて…ない?」



「当たり前じゃないですか」




「嫌いに……なってない?」



「あの程度のことで一々嫌ってたらキリがありませんよ」



ポツリポツリと尋ねる彼に……ミシェルは呆れながらも優しく笑みを浮かべながらそう返して行く。


彼女のそんな優しい声が鼓膜を揺らし、やっと止まった涙がまた溢れて止まらない。


拓也は溢れる雫を腕で乱暴に拭うと、地面を這いずりながらミシェルの背に手を回して、彼女の腹部に顔を埋めた。



いつもなら彼のこの行動をセクハラとみなして鉄拳制裁タイムに移行するはずのミシェルだったが……この時ばかりは怒る気にはなれず、それどころかひどく穏やかな感情が自身の中に満ちているのを感じる。



「ごえん……ごべんよミ゛ジェル゛ぅぅ…………」



「私に謝るのもですけど……迷惑をかけてしまった方たちにも謝らないといけませんよ?」



「皆……ぉほんどぉにごべんなざい………ありがどぉ……」



ミシェルに抱きついたままそう謝罪の言葉を述べる拓也。


そんな姿勢から述べられたその言葉だったが……彼らは怒る気にはなれなかった。


それよりも一件落着してホッとしたのと、彼の誤解がちゃんと解けて仲直りができたのを確認できた安堵の感情が上回る。



「皆さん……ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした……」



そんな彼の分も背負ってミシェルが一同に向かって深く頭を下げるが、彼らも気にしていない様子で笑顔を浮かべて手で『頭を上げて』とサインする。


ミシェルは自分と拓也の身辺を囲む者たちの人柄の良さに思わず涙しそうになるが、拓也も帰ってきたことだし、それに彼らの前でこれ以上涙など見せられないと自分に言い聞かせ堪えると、抱きついて泣きじゃくる彼の肩を軽く数回叩く。



「拓也さん。この体勢だと少しきついので……」



口ではそういっているミシェル。しかしその顔の色のせいで、そのクールな表情の裏に隠した本心はバレバレである。


しかし泣き続ける拓也は彼女から離れたくないのだろう。わんわんと泣きじゃくりながら首を横に振り、より強く彼女を抱きしめた。



「ッ///………まったく、仕方ありませんね……」



一瞬だけ恥ずかしそうに目を見開いたミシェルだったが、すぐに表情を元に戻して、仕方がないと小さく溜息を付く。


彼女は離れない拓也をベルトのようにお腹にくっ付けながら一緒に何とか立ち上がると、若干フラついたが、手と足を使って彼をずるずると引きずり、部屋の出口に向けて歩き出す。




そしてドアに向かう途中にいたメルの耳元で、小さく呟いた。



「メルさん……隣の部屋を少しお借りしてもいいですか?」



メルは、彼女が一体その部屋で何をするつもりなのかは分からなかったが、特に断る理由があるわけでもなく、ちょうど空き部屋のため首を縦に振り快諾する。



「別にいいですわよ。……でも何をするつもりですの?」



しかしやはり目的が少し気になったので、尋ねてみることにした。


メルのその問いにミシェルは少しだけ照れくさそうに顔を背けたが、しばらく沈黙した後には何の屈託もない笑みを浮かべている。


何故か少し恐ろしいものを感じるメル。



「ちょっとお仕置きです」



そして彼女のその直感は間違っていなかった。


しかし止めようにも承諾してしまった。それに拓也は号泣中のため耳に入ってすらいない。



「あ、ちょ、ちょっと……待って……」



離れて行く背に手を伸ばし、なんとか引きとめる手段を探るメル。


だがそんなことを考えている間に、彼女は既に部屋から退室している。



日々、彼がよく彼女にちょっかいを掛ける。そしてその代償として返ってくるのは、氷の礫や光の柱。素早いダッキングからのリバーブローに、的確に急所を捉える打撃の数々。


少しちょっかいを掛けるだけでこれだ。



今回は、勘違いとはいえ彼女に多大な心配を掛けた彼。



「大変ですわ……大変ですわ………」



これから隣の部屋で起こるであろう凄惨なやり取りを想像し、震えながら真っ青になるメルだった。


しかし、少し離れたところからだが彼女たちのそのやり取りを把握していたラファエルは、恐怖に震えあたふたするメルとは違ってなぜか楽しそうな声色で、ミシェルたちが向かった隣の部屋の方を眺めながら呟く。



「ふふふ……ミシェルさんったら……やっぱり素直じゃありませんね」



「ラファエル、撮影はいいの~?」



「安心してください。既にカメラを無数に仕掛けてあります」



「抜かり……ない…な……」



そしてこの天使たちは通常運転である。



彼も無事帰り、落ち着いた空気が戻った部屋。


皆が安堵の溜息を吐いたり、喜び合う中で、ヘイムが何かを思い出したような表情を浮かべる。


そして指を指しながらローブの集団を数えると、何を思ったのか首を傾げながら眉を潜め、国王に尋ねた。



「父さん、帝が7人しかいないみたいだけど……



あの……噂の”剣帝”はいないのかな?」



彼のその発言に、部屋中皆がバツの悪そうな表情を浮かべる。



質問を投げかけられた国王は……頬を指で掻きながら視線を横へ逸らし、えぇ…と言葉を濁して気まずそうにした。


別に正体をバラすのは問題ない。彼は王族なので、帝の正体を知る権利がある。


しかし問題はそこではない。


初対面が”アレ”の為、威厳やらの格好が付かないのでは……と、危惧しているのだ。



「……あぁ、剣帝………ね」



「あぁ、剣帝さ!『王国最強』『エルサイドの鬼神』……聞こえてくる異名の数々!


僕が帰ってきたもう一つの理由が……彼と手合わせしてみたいと思ったからなんだ!!


彼の剣術は美しく、且つ荒々しい。そして鮮やかに相手を捻じ伏せる……これを聞いたときは心が躍ったよ!!


あぁ、早く会ってみたい!!」




だが国王のそんな心境などいざ知らず、まるで純粋無垢な少年のように語り出すヘイム。


剣帝……彼の正体を知っている一同は、彼を完全無欠の英雄のように語るヘイムが、彼の正体が今の今まで目の前で号泣していた黒髪のフツメンだと知ったら……一体どんな顔をするのだろうか。


そして彼のその語りを聞いていた光帝が過去の屈辱を思い出したのか思い切り歯軋りをしたが、周りの面々はあえて無視をしておくのだった。


おまけに彼は決闘を希望しているようだが、天界育ちの拓也に勝てないということは明白。


無駄な争いは避けたいタイプの禿げ国王は、すぐさま頭の中で彼が納得して闘争心を無くしてくれそうな文を構成して口にする。



「や、止めときなよヘイム………止めといた方が良いって!」



言い訳など……浮かばなかった。



そんなことを言ったせいで、彼は顔に浮かべる表情をより色濃いものにし、いつも通りの穏やかな雰囲気に混じる闘争心は更に増す。



「僕の実力を知る父さんが制止をする程………一体どれほどの戦闘力なんだ…剣帝。


だが!僕もこの数年間の放浪中、何もしてなかったわけじゃないさ!!」



ひとりでに腕を組んで興味深そうに思考を巡らせるヘイム。


するとそんな彼を遠巻きに眺めていた光帝は、一体何を思ったのか、ヤレヤレといった様子で首を振ると、彼に忠告するように口を開く。



「やめておけヘイム。ヤツは異質すぎる」



「ハッハッハー!僕と競い合って戦歴890勝889敗で勝ち越しているアルディム君にそこまで言わせるとは……やはり剣帝は只者ではないな!!」



「本名で呼ぶなよ愚図が」



一応言っておくがヘイムは王族だ。



本来ならばこの発言で光帝は独房にぶち込まれていてもなんらおかしく無いのだが、このやり取りを眺めて笑っている国王と、真正面からけなされたのに楽しそうに笑っている王子を見る限り、この国はやはりどこかおかしいようである。



「さぁ父さん!剣帝と戦わせてくれ!!僕はその為に帰ってきたんだ!!」



「あ、あの……お兄様。絶対止めておいた方が良いですわ……アイツと関わるとろくな事になりません。


こちらから近づかなければ………基本的に無害ですから……多分…」



「むぅ……我が妹にここまで言わせるとは………やはり剣帝、只者ではないな……」



光帝のときと同じ言葉を繰り返し、唸りながら深刻な表情を浮かべて頬に冷や汗を伝わす。


それにしてもやはり実の妹だからだろうか?光帝の言葉では見せなかった、忠告を重く捉えたこの表情……



彼はしばらくの沈黙の後、真剣な表情でメルを見つめ返す。



「しかし……剣帝という圧倒的な相手に向かって行く勇ましいお兄ちゃん………カッコいいと思わないか?」



「ハァ………マジでもう一回放浪して来い……ですわ」



メルの口調がかなり崩れた気がしたが、多分それは突っ込んではいけないのだろうと当事者である二人以外の面々は視線で確認しあうのだった。




すると……そんな最悪のタイミングで、部屋のドアが開いた。


その向こう側から現れるのは、先程までの泣き顔はどこへ捨ててきたのだと問いたくなるほど満面の笑みを浮かべる拓也と、その後一歩後ろをいつも通りのクールな表情で付いて行くミシェル。



「俺、完全復活!あれ~、なにパンジーみたいな顔してんの光帝くん」



いつも通りの非常に鬱陶しいその言い回しと謎の光帝弄り。完全復活は嘘ではないようである。


それにしてもパンジーみたいな顔とは一体どんな顔なのだろうか……真相は拓也のみぞ知るところだ。



剣帝本人が来てしまった……。


バレるのも最早時間の問題か……そう思われた矢先、ロイドただ一人がすぐさま思考を巡らせて次の案をやや強引にだが捻り出す。



「……拓也君、今日はもう帰ったらどうだい?


昨日は徹夜で飲んでるんだろう?早く帰って十分な睡眠を取ると良い」



「安心しろ、ミシェルの抱擁で全て解決した」



「ちょ、な、なんで言っちゃてるんですかッ!!?」



謎のドヤ顔でそう言い放った拓也の右腕は、次の瞬間曲がってはいけない方向へ捻じ曲がる。


きっと向こうの部屋での出来事は、内緒にしておくようにとでも彼女に言われていたのだろう。


だが……他人の前でも全力で惚気られる男…………それが鬼灯拓也だ。



「ふふ、こんなもの……」



いつもならば壊れたファ○ビー人形のような悲鳴を上げながら地面をのた打ち回るはずの拓也なのだが……今回は何故か痛みに悶えることはしない。それどころか、患部に視線を落とすと、痛みなど感じていないかのように鼻で笑い飛ばした。


そして残された左の腕で自分の体を抱くように右の肩を抱くと、頬を若干の朱の色に染め、体をくねらせながら恥ずかしそうに呟く。



「痛くない………コレが愛の力……」



「あぁもう黙ってくださいッ!!」



刹那、残された左腕も人間の稼動域を超えて捻じ曲がる。



コレで両手を組み合わせれば、中々に高度な知恵の輪が出来そうだ。



それにしても、ここまでやられて、一般人なら重症確実の集中治療室確定コースのはずなのだが、拓也はまだ『愛……無償の愛……』などと気色悪く頬を染めて呟いている。








するとそれまでは黙っていたヘイムが一度拓也を凝視すると、優しく微笑みかけながら彼に問い掛けた。



「それで……えっと………やっぱり君もハイムの友達なのかな?」



ニコニコと爽やかな笑みを浮かべ、手を伸ばして握手を求めてくるヘイム。


拓也は、親子揃って無警戒で無用心だなぁ…と感心するような落胆するような気分に陥ったのか、苦笑いをその顔に浮かべいつの間にか元通りになった手を差し出し、彼の手を握り返した。



「どうも、鬼灯拓也です。メル……ハイムとはクラスメイトで友人。


彼女はよく私の防御力強化を手伝ってくれるんですよ、ハハハ」



「そうか~。防御力強化か……僕も昔はよくやったよ、うん。



こう………肋骨ごと持っていかれる感じなんだよね、内臓が」



「あ、分かります?


なんか”点”での攻撃なんですよね、腰が入ってるから威力が逃げてない」



「いやぁ、可愛い妹の拳はまだ衰えていないようで安心したよ」



そして早速意気投合し始める二人。


共通の話題はいつだって人と人との距離を縮めてくれるのだ。



しかし……周りからしたら『あの店のパスタおいしいよね~』『わかる~』的なノリで強烈なパンチを被弾したときの体験談など語りだされても付いていけないのは事実。現に彼らの会話に混ざろうとするものは誰一人としていなかった。


おまけに笑いながら話している辺り非常に気持ち悪い。



完全に類が友を呼んでしまった状態である。



「衰えるどころか……もう………最近なんてホント……ガゼルパンチ顎に打ち込まれたときは久々に恐怖を禁じえなかった……」



「な、なに…!ハイムめ、僕がいない間に新しいブローを覚えたのかッ!!」



彼らの会話は、大よそボクシングトレーナーのそれである。



綿菓子で視界を塞がれながらも正確に顎を砕きに来たメルの姿を思い出し、小刻みに震えながらそう語った拓也。


同時に何故かヘイムもワナワナと震え始める。



すると彼は先程まで爽やかな笑みが浮かんでいた顔に動揺と驚愕の二色が混じったような表情を浮かべ……その散々な言われようのせいで、自分の大鎌使いとしての力量を嘆き、いっそのこと格闘家にでも転職しようかと落ち込むメルの肩を、両手で力強く掴んだ。



「どうして!?どうしてそれをまずお兄ちゃんに試してくれなかったんだハイムッ!!?」




「ひぃ!は、離してくださいお兄様!!!」



興味のベクトルをすぐさま拓也から変え、いきなり迫ってきたヘイム。



「なんで!?なんで!!?」



メルは怯えたように恐怖の表情を浮かべ、彼の胸を必死に押し返したり身じろぎしてみたりするが……効果は薄い。


このまま……ヘイムによる拘束が続けば、自分はきっと、マッハに達したストレスで胃に穴が開いてしまうだろう。


そんなのは絶対に嫌だ。致し方ない……メルは覚悟を決めて左の拳を固く握ると、目の前で半狂乱になっている実の兄の肝臓を……打った。



「ぁ…………」



細い声を上げてメルの拘束を解いたヘイム。



乱れる呼吸。動かなくなった足。意図してかそれとも意図せずか、ゆっくりと後ずさる彼のその姿は、一国の王子とは思えないほどに無様。


しかし……彼の妹は、この程度で勘弁してくれるほど生易しくはなかった。



「ッいい加減にしなさい!!!」



素早く前へダッキングしヘイムとの距離を詰めると、左の拳を引き絞ると同時にその腕の方向へ沈み込み……バネのように沈ませた分の体を瞬時に起こし、その運動と共に引き絞った左拳も放つ。


唸りを上げて迫る、空気を切り裂くかのような一撃は、ヘイムの顎を寸分の狂いなく捉えた。



恐らく身体強化も施していたのだろう。その一撃でヘイムはもう少しで天井に届きそうなほどに打ち上がった後、床に叩き付けられ仰向けに倒れ込み……どこか遠い虚空を見上げながら動かなくなってしまう。


それにしても……素早いダッキングからのガゼルパンチ。


プロボクサーも真っ青である。



「これが……ガゼル………」



そして彼の天職は殴られ屋だと悟った拓也だった。



ヘイムはドン引きする妹と冷ややかな視線を送る一同が見守る中、案外簡単に立ち上がると、顎に指を当てながら小さく呟く。



「それにしても……まさかハイムが僕意外に手を上げるようになっているとは……拓也君、君は一体ハイムのなんだい?」



「俺?…一応主従関係?………まぁ平たく言えば、女王様と豚野郎ってとこだな」



平たくどころかエベレスト並みに険しく意味不明な表現である。



「なるほど、可愛い妹にそんな素敵な趣味があったなんて……お兄ちゃん知らなかった」



そしてそれを理解する彼もまた大概だ。



しばらくそんな他愛もない会話を交わしあって周りをドン引きさせて行く二人。


しかし徐々にだが、愉快そうに笑っていたヘイムの表情が歪んでいくのに気が付いた拓也。


異変に気が付いて言葉を途中で止めた拓也の前で沈黙し、首を傾げながら目の前で魚の小骨でも喉に引っかかったようななんとも言えない表情を浮かべ、顎に指を当てて思考に浸る。



「どうかしたんですか?」



その沈黙を破るのは拓也。首を傾げながらそう尋ねた彼は、きょとんとした表情で彼の返答を待つ。


するとヘイムは頭の中で、拓也が放ったある言葉を何度も咀嚼し、そこから浮かび上がった疑問を口にした。



「……ちょっと待って、主従関係って………ハイムのクラスメイトなら君はまだ学生だし……騎士団には属していないはずだよね?」



鋭い眼差しを拓也に向けて、推理するようにそう言い放ったヘイム。



最早……一同は諦めていた。


それに元々彼は王族。帝の正体を知る権利はある。


確かにこんな見るからに凡人で、この大勢の人がいる前で号泣し、恋人に泣き縋るようなへなちょこな年下の青年が、剣帝だと知れば少々の落胆などはあるだろうが……



「(ヘイムは昔と全然変わってないし……まぁそんなに気にしないかな)」



内心でそう呟く国王だったが、実はもう隠蔽がめんどくさくなってきているのは、空気を呼んでくれて協力してくれた周りにも悪いので秘密である。



それに、第一印象はこんなだったが、これから彼が活躍する姿を目にすれば、ヘイムが噂で聞いたという剣帝のイメージと重なることになるだろう。


それを一番手っ取り早く行えるのは……決闘だが……



「(……拓也君は応じないだろうなぁ…)」



王国最強と謳われる故、普段帝たちからも執拗に対戦を迫られる剣帝。


しかし肝心の彼は根本的に争いごとが嫌いな平和主義者の為、そんな同僚たちからの熱い眼差しも熱烈な手合わせの誘いも、軽く流し、断り続けている。


それはきっとヘイムがやったとて同じことだろう。



そうなればヘイムの中のイメージの剣帝と現実の剣帝は重ならない。



「はぁ……」



小さく溜息を吐くと、もし近いうちにオーバーランクの魔獣の類でも現れたらヘイムを剣帝に同行させることを決めたローデウスだった。




他の面々も最早彼と同じ心境なのか、皆諦めたような雰囲気を醸し出し、誰も二人の間に割って入ろうとはしない。



「まぁそうですね、騎士団には属してないっす」



緊張感もクソもない面持ちで欠伸をしながらそう答えた拓也は、国王と王子と王女の前であるのにもかかわらず礼節もへったくれもなく適当なところにあった椅子にドカッと腰掛けた。


そんな彼を目で追いながら興味深そうに口角を吊り上げたヘイムは、今の彼の発言から得た新たな情報を思考の渦の中に混ぜ込んで更に考える。



「騎士団に属していない……学園に通っている。ということは城の家事使用人ではない……」



今ある情報を持ち出して、そこから導き出される新たな情報。


それらを使って更に、少しずつだが真相に近づく彼。


床に視線を落としてブツブツと呟く彼に、先程までのシスコン駄王子の雰囲気は一切なく、その姿はまるで才知の限りを募らせて思考を巡らす学者。


それに、思えば自力で半透明になるという魔法を編み出している辺り……彼もやはり優秀なことには優秀なのだろう。



「………残されるのは………他には何がある………」



どっぷりと自分の世界に入り込み、直立して顎を人差し指と親指で弄りながら床を見つめる彼。きっと今……周りで何が起ころうとも、彼は思考の末に存在する結論に辿りつくまではこのままなのだろう。





故に……すぐ目の前で、剣帝であるという大きな証拠である空間魔法を使ってペロペロキャンディーを大量に取り出し、帝を初めとする皆に配っている拓也を見逃してしまっているのも仕方ないのだ。




すると……拓也がちょうど全員にカラフルで可愛らしいキャンディーを配り終わってゲートを閉じた頃、ヘイムは閃いたと言わんばかりに手を叩き、また椅子に腰掛け直した拓也を指差しながら声を張り上げる。



「分かったぞ!僕たちの母さんはあまり体が良くなかった!!さては君、母さんの薬師だな!!」



彼が帝ではなくこの結論に至ってしまったのは、きっと拓也から滲み出る凡人オーラのせいだろう。そうに違いない。



ー……王妃が病に伏せたのは、今から約4年前……ってことはコイツ最長で4年間も放浪してたのか……ー




とんでもない王子もいるものだと内心驚愕する拓也だった。






「違う……いやなんとなく違わなくない部分もあるけど違うっす」



「………そうか………………」



渾身の一撃が外れてしまったことによるショックからか落ち込んだ様子でそう呟いたヘイムは、近くの椅子を力なく引き寄せると、静かに座ってその表情に分かりやすく暗い色を浮かべた。


流石にアレだけドヤ顔で指を指しておきながら外れだったというのははかなり恥ずかしい。



すると……腐っても実の兄のそんな無様で情けない様子を前にして何を思ったのか……。


メルが額に手をやりながら深く溜息を吐くと、少し行儀が悪いが、椅子に腰掛けキャンディーに舌鼓を打っている拓也を指差す。



そして彼の脳内激論の末でも辿りつかなかった結論を、あっさりと口にした。



「ハァ…お兄様………。その男がお兄様の会いたがっている人物ですわよ」



そんな妹の発言に驚いたように顔を上げたヘイムは、彼女が冗談でも言っているのかと疑うようにしばらくメルの顔を見つめていたが……長年のシスコンっぷり故に、その瞳は嘘を言っていないと悟ることができた。


次に彼が取った行動は単純明快。嘘を吐いていないとわかったのなら、彼女の指の先が指す人物。それが…”剣帝”である。


ゆっくりと…視線を動かす。緊張で若干ブレる視界、急激に渇く喉。



そして遂にメルの指先が指し示す人物を視界に収め、緊張からか若干ズレたピントをその人物に合わせると……



「……………え?」



次の瞬間彼の口から漏れたのは、そんな素っ頓狂な声だった。


この場にいるほとんどの人物が、彼が抱いた感想は理解できるだろう。なぜなら彼らも剣帝の誕生の時や、その正体を知ったときに同じようなことを思ったからだ。


こんな見るからに平凡そうな人物が有名なギルドのギルドマスターを軽く捻り……その上、僅か数年で『王国最強』や『鬼神』とまで謳われた存在だと……一体誰が思うだろうか。


いや、きっと誰もいないだろう。



「あ、なに……口ぶりからそうかと思ったけど、やっぱり俺が剣帝だって知らなかったんですね~」



しかしそれも無理はない。



なにしろ、平常時の彼は本当に普通すぎるのだから。




信じられない……口にこそ出していないが、彼の心境は表情で丸分かり。


羨望や疑惑や……様々な感情の入り混じった視線をまっすぐ向けられる拓也は、少し気まずそうな苦笑いでヘイムに笑いかけると、いつの間にか隣にまで移動してきていたメルにそっと耳打ちした。



「おい……お前のお兄たまなんで固まってんの?」



「お兄たま……?」



「そこは食いつかなくていい。で、なんで?」



本当にどうでもいい所に食い付いて首を傾げたメルに真顔でそう諭し、もう一言追撃を加えてヘイムが固まっている理由を追及する。


するとメルは、若干バツの悪そうに表情を歪めた。


聞けばちょっとした勘違いから家を飛び出し、泣き続けて酒をあおり続けていた彼。


拓也の平和主義者っぷりを知る彼女は、そんな言わば病み上がりのような状態の彼に決闘の申し込みがあると言ってしまうのは少し忍びなかったのだろう。



だが彼女が言わなくても、ヘイムがフリーズから帰還すれば、戦いたいという旨を自分から言うだけ。



「お兄様は……あなたと戦ってみたいそうですわ」



だから……メルはもう自分で言ってしまうことにした。


予想通り彼の表情は限りなく静かなものに変化し、キャンディーを舐める舌の動きも止まる。


皆が拓也の返答を硬直して見守る中……彼は黙り込んでしばらく考え込んだ後、いつものような表情を取り戻しながら軽い口調で言葉を紡いだ。



「そっか……決闘。



………いいよ」



彼のその返答は、彼にしてはかなり意外なものだった。


しかしそんなことを言って、いつも決闘の申し込みを断られ続けている帝たちは黙っていない。



「おい剣帝!!こんなのいらねぇから俺とも戦えよッ!!」



「やだ。ていうか握りつぶしてんじゃねぇよ、粉々じゃねぇか……あとこんなのとか言うな」



「俺も戦ってみたいぜ、コレは返品ってことでさ」



「生憎鬼灯印のペロペロキャンディーはクーリングオフ不可なんだ」



「じゃ、じゃあ私も剣帝と戦いたいからコレは返すよ!」



「お前はもう食ってんじゃねぇか!!」



これが帝……無意識にしてもツッコみどころをしっかり用意できてしまう彼らは、やはり天才なのだろう。




・・・・・



先に行っている。そう一言だけ残すと、お得意の空間魔法を使って彼は姿を消した。


恐らく先に闘技場に向かったのだろう。



ヘイムをはじめと一同は、ゾロゾロと彼が待っているであろう闘技場へ向かっていた。


結局最後までヘラヘラと笑っていた拓也。彼のその顔を思い出しながら、ヘイムは難しい表情を浮かべて小さく呟く。



「……彼は………」



しかしそれ以上の言葉は見つからなかったようだ。


歩みを進めながら俯く彼は、言葉を探すのを止める。



するとそんな兄の様子に気が付いたのか、隣を歩いていたメルが小首を傾げると、不思議そうに彼に尋ねる。



「お兄様、どうかなさったのですか?」



「いや……何というか………」



妹のそんな問い掛けにヘイムは深刻そうな表情を浮かべてそう言葉を濁し、しばらく沈黙したかと思うと、脳内で言葉を吟味して、静かに言葉を紡ぐ。



「……ある程度強くなれば分かる。強者は……纏っているんだ。独特な…なんて言うんだろう……”雰囲気”っていうのかな。


だけど……彼からはそれを感じない…」



別に彼は自分の実力を過信しているわけではない。


彼も長年の放浪の間、鍛錬を怠ったことはなかった。つまりは彼も”強者”。


故に……彼も、その”強者の雰囲気”感じることは出来る。



しかし………最強と言われる剣帝から、何も感じなかった。



すると…彼の背後を歩いていた帝の集団がザワザワと騒がしくなる。



一体どうしたのかと振り向くヘイム。そんな彼の顔を眺めて笑い声を上げた帝たち。


その中の一人……水帝が優しい声色で彼に語り掻けた。



「ヘイム、アンタもいつの間にか……その段階に達したんだね。


確かにアンタの言う通り……強者には独特の雰囲気があるものだよ」



自分の言ったことが当たっていたからか、少し嬉しそうな表情を浮かべたヘイム。


水帝の言葉に、風帝、地帝、雷帝が続ける。



「それはワシら帝もそうじゃ」



「雰囲気ばかりは抑えられないんだよね~!」



「ある程度の段階に達してるヤツには……正体まではバレなくても、強いとはバレちまうな」



そして……最後に実際に手合わせをしたことがある光帝が口を開いた。



「しかし……ヤツだけはその限りではない」





それは一体どういうことなのか……ヘイムの顔には疑問の色が浮かぶ。


しかしそれ以降は誰も口を開くことはなく、遂に闘技場の入り口に到着した。


目の前の重そうな金属と木でできた扉を開けば、剣帝が待つフィールド。



ヘイムは小さく息を吸い込み、吐き出して深呼吸をすると……二枚扉に両手を掛けて、グッと力を込める。


重厚な音を立てて開く扉……その向こうに彼はいた。



「遅かったな」



濃紺のジーンズに、『かみさま』という文字と共に何故か地蔵が描かれた白Tシャツを着た黒髪の青年。


決してイケメンではない彼のその顔にはニヤリと不気味な笑みが貼り付けられ、腰にはシンプルな剣が鞘に収めている。



しかし………先程とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。



肌がビリビリと刺激され、緊張からか口の中の水分が失われていく。


生物としての本能が感じ取った絶望的な格の違い。



絶句し、硬直するヘイム。するとそんな彼の肩に、水帝の手が置かれた。



「アイツは強者の雰囲気を持っていないんじゃない。普段は見せないだけなんだ」



「ワシらでも……意識していなければそれは隠せない。おまけに……それを完璧に隠すことはできん」



「地帝みたいに、帝クラスでも隠すのへったくそなのもいるしな」



「なにさー雷帝のバーカ!!アンタだってそんな得意じゃないじゃん!!」



ちょっとした雷帝のツッコみで地帝が雷帝に噛み付いたが……ヘイムはそんなことを気にしている場合ではなかった。



帝……彼もよく知っている。彼らだけで一国を落とせると言われるほどの……人間離れした異次元の強さを誇る集団。



そんな彼らですらできないと言っている事を……フィールドの中央に佇む彼、剣帝は……普段からそれをこなしている。



驚愕せざるを得なかった。



「どうした……来ないのか?」



いつまで経っても突っ立ったまま動かないヘイムにそう声を掛ける拓也。若干の殺気をのせて放たれたその言葉に、ヘイムの背筋に冷たいものを感じ、思わず表情を強張らせた。


すると今度は光帝が彼に声を掛ける。



「今のは殺気、僕も始めて受けたときは驚いたよ」



「光帝今でも普通にビビるじゃん」



明らかにイラッとした表情をフードの中から覗かせた光帝だったが、グッと堪え……なんとか無駄な争いは避けられるのだった。




「まぁ……頑張るといい」



光帝がそう言ったのを皮切りに、帝や国王、ミシェルやメル、リディアたちは観客席の方へ上がって行った。


緊張で体が既にガクガクのヘイムだったが、息を呑みながら一歩を大きく踏み出し……土を踏みしめ、フィールドに入る



視界に映る剣帝の姿は徐々に大きくなり……そして先程は気にもしなかった彼のその体つきに思わず目を見張った。


髪をガシガシと掻きながら欠伸をする彼の腕は芸術的なまでに美しく、袖の隙間から覗く胸筋も同様に鍛え抜かれている。



非常に動揺するヘイムはそれを悟られぬように顔を引き締めると、彼の前で歩みを止めて、静かに口を開く。



「使い魔は禁止、魔武器は使用可能。降参か気絶で敗北。


ルールはコレでいいかな?」



「分かりました」



拓也は微笑のまま頷くと、踵を返し開始地点へ向かう。


しばらく呆けたようにそんな彼の背を眺めていたヘイムだったが、ふと我に返り、慌てて自分も開始地点へ向かった。



呼吸をゆっくりと整え……振り返る。


視界の中心には、こちらの様子を伺うように静かに立ち尽くす拓也が映り、彼はまたじっとりと肌を包む雰囲気を感じ取った。


ロイドは審判をやるようで、二人が開始位置についたことを確認すると、全体に聞こえるように声を張る。



「審判は僕がやるよ」




そして……審判である彼の掛け声と共に、遂に始まった。




「……始め」



「ッ来い!」



開始直後、先に動いたのはヘイム。



自らの魔武器……片刃の曲剣であるシミターを呼び出し、身体強化を全力で掛けた脚で強く地を蹴って最大加速。


同時に自身の体をオリジナルの半透明化魔法で見え辛くした。




流石は剣帝に挑んでくるだけはあるその速さ。おまけに半透明化しているため、普通の奴ならば目で追う事はかなわないだろう。



しかし………拓也はまだ動かない。



ナめられているのか……そんな考えが浮かんだヘイムは少しムッとした表情を浮かべたが、そんな考えはすぐに消し去って。



彼の背後で剣を鞘から抜き放ち、首を目掛け真一文字に横に振るった……が。



「ッ!!」



「速いし上手い…」



ヘイムの渾身の一撃を、彼は振り向かずして止めている。



ヘイムが思い切り振った湾曲した刃は…彼がいつの間にか抜いていた銀色の剣にあっけなく止められてしまったのだ。



全力の一撃のはずなのに……自分のその一撃を止める彼が使用しているのは、背後に回した剣を握る腕一本。


思わず思考回路が停止しかけるヘイムだったがかろうじて持ち直し、激しく火花を散らしながらシミター剣に押し込むように引き、もう一歩踏み出し……彼の腹に蹴りを打ち込む。



「武器だけに頼らないスタイルは大切だよね」



しかし……彼はまたいとも容易く開いているもう一方のそれを止めた。


こちらを向いてすらいないのにこの超反応と正確な防御。


ヘイムに戦慄が走る。足が掴まれてしまった。離れようと思っても離れられない。反撃をかわせない。



「ッ!【ライトニング…」



咄嗟に魔力を練り上げ、魔法陣も使用せずに急ピッチの魔法を展開しようとしたヘイムだったが……



次の瞬間……視界がグラっと揺れ、物凄い衝撃と一瞬の浮遊感。肺の中から空気が無理やり排出されるような感覚が全身を襲う。そして遅れてやってくる全身を包む鈍い痛み。


痛みと微妙な酸欠で若干砂嵐気味の視界には……右手で剣を握り締めたまま微笑を浮かべる拓也の姿。



「な……ぁッ!」



彼と自分との間のその距離と、自分の背中を支える固い感触から、ヘイムはようやく自分が投げ飛ばされたことを悟った。


すると彼も今の一度のやり取りからいくつか悟ったのだろう。半透明化を解除し、壁を支えに立ち上がる。




「噂通り……滅茶苦茶な強さだね」



「そうかな?」



「ッ!?」



苦しそうな表情の中に笑顔を浮かべ、拓也に向かってそんな発言をするヘイム。


しかし彼に会話をする気はそんなに無いのか、適当にそう返した彼は自らの得物である剣を……凄まじい勢いで投擲した。



かろうじて地面を蹴り、迫る剣を紙一重で回避したヘイム。



闘技場の壁に深々と突き刺さった銀の刃を目にし、彼はまた戦慄するのだった。



だが……得物を手放したということは、今は丸腰。



「ッ行くぞ!!」



すぐに地面をもう一度蹴り、ヘイムは素手のまま棒立ちする拓也に向かって一直線に跳んだ。



丸腰ということは……防ぐことはおろか、いなすこともできない。つまりかわすしかない。


思考しながら突き進むヘイム。


先程のやり取りで彼は分かっている。多少のことでは、剣帝は怪我すらしない。それどころか本気で行っても怪しい。



だから……



「【光弾(ライトニングバレット)】【斬殺する光輪(シャインデススライサー)】」



自分が出せる全力で叩きに行く。


走るルートに無数の細かい光弾を放つ魔法陣を瞬時に設置し、そのまま掛け更に拓也を中心にした地面に半径3メートルほどの魔法陣を展開し、叫ぶ。



「さぁ!かわせるものならかわしてみろッ!!」



設置された魔方陣からは、拓也を囲うような光の円が腹の高さ程度まで浮き上がり……甲高い音と共に、回転しながら一気に収縮した。



ここまでは作戦通り。アレを避けるには上へ跳ぶしかない。背後から光弾も迫っているから尚更だ。


そして…飛び上がったとこをシミターで斬り掛かる。



自分の中で瞬時に組み上げ、実行に移した作戦をもう一度確認すると……ヘイムは拓也が跳び上がるであろうタイミングを見計らい、更に強く地面を踏んで先回りするように上空へ飛び上がった。



「ッな!!」



しかし……予想と大きく反し、彼を囲んでいた光の刃は……拓也の体を上半身と下半身に真っ二つにしてしまっている。


さらに……背後から迫っていた光弾は、二つに分かれた彼の体をズタボロに貫いていた。




ヘイムは思わず目を見開き、自分の視界の中で起こっている出来事を信じられず、激しく動揺する。



『王国最強』『エルサイドの鬼神』と謳われるほどの実力者が……。



「ッそ、そんな!!?」



彼はそんな情けない声を上げ、大切な人材を殺してしまったことに顔を真っ青にしながら観客席の方へ振り向く……が。



彼らは何故か……目の前で人が一人死んだというのに、その顔に動揺すら浮かんでいない。彼の恋人であるという銀髪の美少女ですら平然としている。


雷帝は欠伸。地帝はキャンディーを頬張り、炎帝は酒を煽っていた。



そして……皆が平然としている中、元クラスメイトのよしみか、光帝だけがヘイムに叫んだ。



「バカッ!よく見てみろッッ!!」



彼にそう言われ恐る恐る視線をフィールドに戻したヘイムは……自分の目を疑うことになる。



「土……?」



ボロボロになった拓也の姿にノイズのような乱れが走り……次の瞬間、彼の色が抜け落ちた。


ボトボトと音を立てて崩れ地面に落ち、小さな山を作っているのは……肉片ではなくただの土。



驚愕に目を見開くヘイムは上空という視覚的優位な点からフィールドを見回す。



そして……最初に自分が叩き付けられた壁に、ニヤケ面で突っ立っている彼の姿を捕捉した。


するとニヤける彼もヘイムが自分を視界に収めた事に気が付いたのだろう。胸の前で組んでいた腕を解き、その内の一本で壁に深々と突き刺さった剣を抜き……もう一度彼に向かって投擲。



一瞬で飛来する剣を上へ弾きながら、悔しそうな表情を浮かべるヘイム。



「クソ!!いつの間に入れ替わったッ!?」



「【身代わり(スケープゴート)】って魔法。オリジナルなんだ、見たことないでしょ?」



ゾワリ…と身の毛がよだつのをはっきりと感じた。何故なら……その声の発生源は、自分の頭上。



考えるよりも早くシミターを頭上に掲げたその次の瞬間、柄を握る手に物凄い衝撃が加わったのと同時に地面に叩き付けられた。



「ッカッ…ァ……」



彼が空間魔法を得意とする事をすっかり忘れていた。剣帝の代名詞とも言える空間魔法。


直接的な攻撃の脅威はあまり無いが……戦闘の補助、それも彼のような実力者が使うと心底恐ろしいモノに化ける。


そんなことを痛感しながら、墜落の影響で舞い上がった土煙の中で痛む体を無理やり動かし、次の攻め方を頭の中で組み立てながら一先ず土煙から飛び出し、体を捻って上空を見上げる。



視界の先には風魔法を使って浮遊する拓也。



すると拓也は、ヘイムがまだやれそうなのを確認すると浮遊魔法を消し……真下の土煙の中へ自由落下をしながら静かに呟いた。



「ジョニー、短剣」



消える拓也の姿、しかしそれも僅かな間だけ。



すぐさま土煙を吹き飛ばしながらライフルの弾丸のようなスピードで飛び出した彼は、片手に握った片刃の反りがある短剣を、前へ進むベクトルと同じ方向へ突き出した。


が、流石にこんな単純な攻撃は止められてしまう。



そしてそこから間隙開けずに始まる刃同士のやり取り。



ヘイムは、拓也が先程握っていたものと形状が異なる獲物にすぐに気が付き、驚いた声を上げる。



「形状変化ッ!?魔武器の能力か!!」




まぁ魔武器では無いのだが……拓也は返答もせずに斬り掛かる。



鞭のように撓りながら襲い掛かる拓也の短剣はヘイムの体に次々と傷を付けていく。


負けじとヘイムも獲物を振るうが……空を切るか、いなされてしまって一向に有効打が与えられず、魔力を練り上げる一瞬の隙すらも与えてもらえずに、徐々に押され始めていた。



「っくぅ……」



「…!」



すると拓也はヘイムが一瞬怯んだのを見逃さず、僅かにだが短剣を引き絞る……



「ッ!」



しかし……ヘイムもまた彼のその隙を見逃さなかった。


崩れたバランスをモノともせずに足を振り上げ、拓也の手に握られた短剣を蹴り上げる。


刃の腹の部分に命中したつま先は、拓也の手から短剣を弾き飛ばした。



「行けるッ!!」



そう確信し、表情に自信を取り戻して右に握る曲剣を拓也の肩口目掛け振り下ろす。


彼の頭上には回転する短剣。そして彼は勝利を確信したその視界の中に……見た。




不気味に微笑む……拓也の顔を。迫る危機に対して構えてすらいない鬼神を。



一瞬の疑念が彼の頭に過ぎり、彼に刃が触れる……その刹那。



「なッ!!」



彼の姿が、跡形も無く消えた。またもや悲しく空を切る剣。



そして次の瞬間……後頭部を襲うとてつもない衝撃。


ヘイムは低く呻きながら途切れそうになる意識を必死に握り締めながら顔面から土のフィールドへ突っ込んだ。



そんな彼の鼓膜を揺らす、トン…という軽やかな足音。



地面にうつ伏せに倒れながら朦朧とする意識をなんとか繋ぐヘイム。拓也が剣の場所へ”飛び”、後頭部に攻撃を食らったのだと理解するまでにそう時間は掛からなかった。



すると拓也は短剣を剣の状態に戻しながら倒れ込む彼の傍に歩み寄り、彼の顔の真ん前に銀色の輝きを放つ剣を地面に突き刺して口を開く。



「戦闘中に勝利を確信はマズイっすよ」



彼のその声にヘイムは自嘲気味な笑みを浮かべながら……目を瞑った。





そんな時だった。



一瞬……小さな地揺れが起こったかと思うと、凄まじい轟音と共に地面が大きく隆起する。


観客の視界に映るのは……地面から伸びる数本の太い岩の槍。



驚愕の表情を浮かべたのはまず帝。ヘイムの使える属性を知っている彼ら。


その彼らの記憶が正しければ、ヘイムは土属性の魔法は扱えない。



それに他の者から見ても、既に大きなダメージ受け、地面に倒れ込む彼がこれほどの魔法を扱えるとは到底思えなかった。



そして……拓也だけがその魔法の発動者を静かに見つめていた。



「…」



全ての岩の槍の切っ先が拓也に向く……拓也は次の瞬間に始まるであろう攻撃を予測しヘイムの襟首を掴むと、軽くバックステップ踏んだ。


次の瞬間、先程まで拓也の居た位置を、岩の槍が貫かんと通過する。



「まったく……」



拓也はヘイムを観客席の帝たちの方へ放り投げた……が、しかし……彼の体は帝たちのところに到達する前に、新たに地面が隆起して整形された土の腕がそっと優しく抱きしめるように捕らえるのだった。



その様子を、巧みな身のこなしで岩の触手の猛攻を回避しながら何かを確信したような笑みを浮かべる拓也。



すると、そんな笑みを浮かべる彼の前方。


フィールドの端の方に、腰までの長さの緑髪を揺らす女性が降り立った。



突如として現れた彼女。その整った綺麗な顔に浮かぶのは明確な怒りの表情。



「なんだ、アイツ」



「曲者なら容赦はしないぞ」



「待って!」



見慣れない人物の乱入に帝たちが殺気立つが、隣の王が慌てた様子でそれを手で制す。


ミシェルも、拓也の実力を知ってはいるが……すぐにでも飛び出せるように魔武器の杖を取り出して握り締めた。



フィールドには、未だアクションを起こさない緑髪の女と、向かい合ったままジーンズのポケットに手を突っ込んだまま動かない拓也。



そして次の瞬間、鮮やかな緑色の魔方陣が彼女の前に展開され、硬直した状況は動き出す。



「ヘイムを……私の旦那様を苛めないで!!」





突き出す両腕。


それに呼応するように魔方陣からは空気の刃が放たれた。



そしてその体の動きによって揺れる彼女の髪。



「……」



その髪のカーテンの内側には………



「あ、あれって!」



それを目にして叫ぶ地帝。無理もない。



人間の世界……それもこんな大国の首都で………彼女のような種族を見るとは思っていなかったのだろう。


彼女の髪を押し上げて生えるような”尖った長い耳”。



ニヤリ……拓也は不気味に口角を吊り上げて、迫る風の刃を防ぎもかわしもせずにそのまま上半身で受けると、ダメージなどまるで無いと言わんばかりに口を開いた。



「”エルフ”か、生で見るのは初めてだ」



「ッ!!」



ダメージどころか……Tシャツがボロボロになっただけで、体には傷一つ付いていない。


目を見張る彼女の前で拓也は体に纏わり付くだけになった布切れを脱ぎ捨て、唖然とする彼女の前へ悠然と歩み出る。



「止まれッ!!」



愛おしいヘイムを痛めつけた仇である彼へ向けられた敵意。


それはフィールドから生える無数の岩の触手に明確に現れ、あらゆる方向から一度に拓也に襲い掛かる。



唸りを上げて拓也を仕留めに掛かったそれらは、勢い余って地面にも激しく激突し、土煙を舞い上げた。



確かな手ごたえに、思わず表情が緩む緑髪の女。



しかし……次の瞬間、その表情は絶望の谷に突き落とされることになる。



「決闘って言ってね……これは人間の文化の一つなんだ。



まぁ一部始終見てないと、ただ俺がいたぶってただけに見えるか……」



「ッな!!?」



音の発生源は……背後。



慌てて振り向けば、視界に入るのは無防備に背を向けながら地面に突き刺さる剣を抜き、腰に下げた鞘に収めている拓也の姿。



確かに当たる直前まで、彼は今土煙が上がっている場所にいた。



それが………いつの間にか音も無く自分の背後をとり、得物を回収して、尚且つ自分から喋りかけてくるほどの余裕。



背筋に冷たいものを感じると同時に大きく後ろへ飛び退き……腕を振るって2本の岩の槍で地面を薙ぐように動かす。その2本がちょうど衝突する地点には……拓也。



このまま行けばスクラップ確定。



「……というか誰か早く止めてくれませんかね」



しかしまぁ……彼は例外である。



脇腹に岩の槍をあえて受けると、そのままがっちりと抱える拓也。


鍛え抜かれた肉体は当然のようにダメージなど負ってはおらず、その証拠に彼の顔にはいつも通りのニヤケ面が浮かんでいる。



ありえない。緑髪の彼女がまず抱いた感想はこの一言だった。



「あの~……とりあえず話し合いましょうよ」



そして抱えられた岩の塊は、彼が腕を脇腹に寄せる動きをするだけでいとも容易く粉々に粉砕される。


慌てて追撃に向かわせた他の岩の槍も、軽く拳を打ちつけたり、蹴り上げるだけでことごとく粉砕され、遂に彼女が生み出した岩の槍はなくなってしまった。



「ッ……」



渋い表情を浮かべて後退りする女……しかし、少し手合わせしただけで分かる。



絶対に逃げられない。



それに武器こそ収まっているが……岩をも粉砕する彼の肉体は、最早存在そのものが凶器といっても過言ではない。


そして自分が彼の攻撃に晒されれば……命は無い。



「………」



ならば……覚悟を決めて突っ込むしかない。



女は動揺に高鳴る心臓を押さえつけるように深く深呼吸をすると、自身の中の魔力を急速に練り上げ……可能な限りの攻撃魔法の魔法陣を展開した。




「せめて相打ちに………」




ー……え、ヤダこの人物騒………-




彼女が緊張と恐怖に支配される中、拓也は内心でそんなことを呟くと、困ったような表情を浮かべて彼女向っていた向かう歩みを止める。



目の前で自分への敵意を丸出しにするエルフの彼女は、話し掛けたところで、恐らく聞く耳は持ってくれない雰囲気。


それならば一度意識を落とすしかないか……拓也の中で、その選択が色濃くなっていた時……。



「ま……待つんだッ!!”ユナ”ッ!!」



ヘイムの制止の声が闘技場全体に響き渡った。




・・・・・



「ほんっとうにすみませんでしたぁぁ!!」



十数分後……場所は王城内に戻って、円卓の会議室。


帝たちが定例会を行うこの場所はそこそこに広く、ゆったりした造りになっている。



その部屋の中心で……綺麗に足を折り畳み、床に額を擦り付けてそう叫ぶように謝罪の言葉を口にしたのは……先程闘技場で”ユナ”と呼ばれた緑髪のエルフの女性。



彼女の頭頂部の延長線上に立つ拓也はいきなりの彼女の土下座にアタフタと取り乱す。



「勘違いとはいえ……まさかヘイムの国の重鎮にいきなり………どんな罰でも受ける覚悟はあります!!


ですから……どうか………どうかヘイムと引き離さないでくださいぃ!!」



拓也もそうだが……先程の戦闘中のキリッと引き締まった表情はどこへやってしまったのだと聞いてやりたい。



「べ、別にいいですよ。ほら、傷一つない。ピンピンしてますから」



「お許しをォォ!!!」



「おい光帝何とかしろ」



「僕じゃなくてヘイムの野郎にでも頼めよ」



何故か光帝を巻き込もうとした拓也だったが…残念。


彼は隣でボーっと立ち尽くしていたヘイムを拓也の方へ蹴り出すことで自分の身代わりとした。



そして何度もくどいようだが、光帝が蹴った彼は王族である。偉い人なのである。



「ユナ、大丈夫。水帝も、彼は気色悪いほど頑丈って言ってるから。


それに彼も気にしていないようだし」



「水帝さん、あんたの中の俺の評価って何なの?」



「果てしなくキチガイに近いキチガイ」



「あぁ、誰一人並び立つことのないトップ・オブ・キチガイってことですね~ホント光栄っす」



「トップ・オブ・変態の間違いじゃないですか?」



「ミシェルちゃんったらお下品よ☆」



ミシェルの言葉から若干のヘイトと煽りを感じた拓也だったが、気持ち悪くそう返すことで煽り返す事に成功。



しかし先日、ミシェルのパンツを顔面にパイルダーオンしている彼の方が下品なのは明白だろう。





ミシェルから冷ややかな視線が送られるが、ことごとく顔を逸らして神回避し続ける拓也。


彼ら二人を除く他の面々は、ヘイムのおかげでようやく落ち着きを取り戻したユナを相手に質問……もとい取調べを開始していた。



「紹介が遅れたね。彼女は『ユナン=ドゥーム』


見ての通りエルフの女性さ。そして……僕たちは結婚する」



「み、皆は省略してユナって呼ぶわ」



若干緊張してはいるが、帝たちも完全に警戒を解いている為、先程観客席の方から感じていた彼らからの威圧感を感じなくなったのだろう。


ユナンは微笑を浮かべ自身の愛称を名乗ると、軽く会釈をする。



「へぇ~、エルフなんて珍しいね。何歳くらいなのさ」



「今年で80歳です」



「ワシのほうが年上じゃな」



「いつも永眠したみたいに眠ってるくせに今日は元気だなジジイ」



そしてこんなに美しい彼女だが……そもそも人間とは寿命が違う。



故に人間では傘寿を迎えている年齢でも、エルフたちにとっては人間で言うと、およそ20歳前後。


しかしそこで浮かび上がる問題が一つ。


それにいち早く気が付いた水帝は、少しだけ眉を潜めながら口を開く。



「でも……いいのかい?


辛い話だけど、ヘイムはアンタよりずっと早く死んじまうんだ。


ユナちゃんは……それでも本当にいいのかい?」



当然だ。


彼女のその問い掛けに他の面々も顔を僅かに歪め、急に大人しくなる。



しかし……そんな残酷な現実を突きつけるような質問に、ユナは穏やかな微笑みを全く絶やすことなく、一度ヘイムと見詰め合う。


そしてより一層の笑みを浮かべ、水帝の問いに対する返答を胸を張って口にした。



「その問題は……ヘイムとも話し合ったわ。


最初は、先に死なれるなんて絶対イヤだったけど……『僕が死んだ後の悲しい想いを覆えるような、楽しくて濃密な日々を一緒に送ろう』って彼に言われて、私もそう思うようになったの。



それに、どれだけイヤだって言っても彼が凄い勢いで迫ってくるから結局断れなかったわ」



「まじかよーヘイム最低だな~」



「え、ぼ、僕!?」



「しかも言ってることが完全にエゴだね」



「アルディム君まで!?」



どうやら雷帝と光帝はヘイムの味方ではないようだ。




「でもさでもさ!エルフと人間って交配できるの!?」



笑顔の戻ってきた空間で、いきなりそんな発言をするのは……やはり地帝。


別に彼女も悪気があるわけではない。それに王族である以上、跡取りを作るのはとても大切。



「「……あ」」



沈黙が流れたいた部屋に響く、ヘイムとユナの声。


国王も、忘れていた……というような表情を浮かべている。



ー……今更だけどこの国本当に大丈夫かな………ー



内心でそんなことを呟いた拓也は、小さく溜息を付きながら一冊の古いハードカバーの本を取り出すと、沈黙しきった部屋の中にペラ……ペラ……とページを捲る音を響かせる。


そして目的のページを見つけると、それを皆に見えるように突き出して口を開いた。



「この文献にも載ってる通り、人間とエルフでも一応交配可能。生まれるのはハーフエルフ……だが確立は結構低い。


……しかしまぁ、いつまで経ってもできないようなら……その辺りは俺かリディアで何とかするわ」



「そ、そんなことができるのかい!?」



「薬でも何でも作ればいい、なぁリディア」



「うむ、恐らくその程度造作も無い」



「それに最悪体外受精って手もあるし……」



眠そうに頭を掻く黒髪のこの男と、クリーム色の長い髪を二つに結った少女。


ヘイムとユナ以外は彼らの正体を知ってはいるが、相変わらずの規格外っぷりに思わず呆れたような苦笑いを零すのだった。


その後も適当に談笑がしばらく続き、数十分ほど経った頃だっただろうか。


拓也はおもむろに壁に掛けられた時計に視線をやると、一度出そうになった欠伸を噛み殺し、目尻に薄っすらと涙を浮かべる。



「じゃあ俺はそろそろ帰るわ、式には呼んでくれよ~」



「もちろんさ剣帝!拓也君…?だったよね、リンゴのミシェルさんも二人まとめて呼ぶから絶対来てよね!」



何気にミシェルにリンゴという異名が付いているが、たぶん気にしてはいけない。



「それと……今日は迷惑掛けたな、悪かった。


これからああいう場面に遭遇したらまずミシェルを縛ってじっくり問いただすことにするよ」



「そんなことしたらぶっ飛ばします」



「では~」



空間移動の瞬間、彼のこめかみに細い氷の針が刺さっているような気がしたが多分気のせいだろう。


ここにページを追加



・・・・・


視界が一瞬で切り替わり、大きな会議室から小さな部屋へ移動した拓也とミシェル。


ミシェルは一瞬どの部屋かわからなかった様子だったが、部屋のインテリアと、仄かに香る嗅ぎなれた大好きな匂いで、ここが拓也の部屋だと理解した。



あまり入らない彼の部屋に少し緊張した彼女が硬直している間に拓也はベッドの隣まで歩みを進めると、バタリと前のめりに倒れ込む。



「ふぅ……」



数回の小さなバウンドの後、太陽の匂いのするシートに頬擦りをする彼は、しばらくその匂いと感触を堪能した後、もぞもぞと体を動かしながらベッドにうつ伏せに寝転がると、心のうちを悟られないようにポーカーフェイスを作りながら立ち尽くすミシェルに声を掛けた。



「ゴメン……飲みすぎてちょっと辛いから少し寝るわ。ビリー来たら起こしてくれない?」



「え、えぇ。いいですけど……水か何か持ってきましょうか?」



「いや、大丈夫」




彼は言葉通り少しだけ辛そうにそう言うと、顔をミシェルとは逆の方へ向けた。


弱っている彼はそこそこ珍しい。ミシェルは珍しいものが見れたといわんばかりに声を出さないように笑うと、踵を返してドアノブに手を掛ける。



すると……



「ミシェル……ゴメン」



背後から、弱々しく震えた拓也の声が彼女の鼓膜を揺らした。


ミシェルはドアノブから手を離すと、ゆったりとした動作で振り向く。



彼はしばらくの間を置くと、更に言葉を紡ぐ。


「幾ら衝撃的な場面を見たからって……ミシェルを疑ったのは…最低だった。本当にゴメン


でも……言い訳だけど…ミシェルのことが……本当に大好きだから……本当に辛かったんだ。


だから…っ!」



言葉の途中だったが、拓也は思わず発言を忘れて口を開いたまま固まった。



「別にいいです…もう許しましたから。紛らわしいことをした私も悪いんです」



髪を撫でる優しい感覚。


ベッドの端に腰掛けたミシェルは、穏やかな笑みを浮かべて彼の頭を撫でながら優しくそう言った。


しかしそれも束の間。彼女は頭から手を離し、ベッドから立ち上がってドアの方へ歩を進める。



何か言わなくては……必死に思考を巡らす拓也。




「あと……私も拓也さんのこと………大好きですよ」




しかし、彼女が振り向かずに放った一言で頭の中は真っ白になってしまうのだった。


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