25 キャロットケーキ
(好物じゃなくて、逆だったんだ……!)
嫌いだからこそ、ミレイユやリュミーにたくさん出されていたのだ。レオナルドの皿に載っていたかどうか、確認はしていなかった。
厨房の料理人も使用人も皆、リュミーのために作っていると思っていたのかもしれない。
「そうなんですね……」
ミレイユの声が、自分でも情けないくらいしぼんだ。
喜んでもらおうと思ったのに、嫌いなものを差し出してしまった。
恩を返すつもりで、全く役に立たなかったのだ。顔が熱くなる。
「あの、これは下げま──」
「いただこう」
言い終わらないうちに、レオナルドが皿を引き取った。
止める間もなく、レオナルドは切り分けられたケーキをひと切れ取り、口へ運んだ。
ミレイユは呆気にとられてそれを見ていた。隣ではマティアスまでもが、珍しく口を半開きにしている。眼鏡を直すことすら忘れているらしい。
レオナルドは黙ったまま食べ終え、口元を拭って、それからようやくこちらを見た。
「……懐かしい味がする」
「え?」
「とても美味しいよ、ミレイユ。君が作ったものなら、なんでも美味しいに決まっている」
「あ、ありがとうございます」
その笑顔に胸の奥で何かがぱちんと弾けて、気がついたら顔が熱くなっていた。
気を遣ってだろうけれど、嫌いなものを食べたというのに素敵な言葉をくれた。
(いえ待って、今はそれどころではないわ)
ふわふわとした感動から我に返ったミレイユは、慌ててレオナルドの顔を覗き込む。
「だ、大丈夫ですか? 蕁麻疹が出たりとか」
「出ていないよ」
「息苦しさとか、喉のあたりが痒くなったりはしませんか!?」
「ミレイユ」
レオナルドが、わずかに笑う。
「体に障るわけではないから問題ないよ」
「そうなんですね……! よかった」
ほっと胸を撫で下ろすミレイユの横で、マティアスが眼鏡の位置を直した。
「閣下。私はこれで下がらせていただきます」
「ああ。明日は頼んだぞ」
「お任せください」
綺麗な一礼をして、マティアスは静かに出ていった。
扉が閉まった途端、廊下の隅からぱたぱたと足音がする。
「きゅ」
顔を出したのは、リュミーだった。人見知りをするから、騒ぎのあいだはどこかに引っ込んでいたのだろう。
ミレイユの足元まで来ると、当然のように駆け上がって肩に落ち着いた。そして、ちらちらと皿の方を見ている。
「ふふ。リュミーの分は、ちゃんと別にあるからね」
「きゅ!」
嬉しそうに耳が跳ねている。かわいい
レオナルドが残りの皿へ視線を落とす。
「残りは夕食のあとにいただこう」
それから少し間を置いて、思い出したように付け加えた。
「そうだ。ミレイユ、明日は出かけるからそのつもりで」
「はい! わかりました……?」
お出かけとはなんだろう。不思議そうなミレイユをよそに、肩の上のリュミーが心得たように「きゅい!」と鳴いたのだった。
◇
翌日、馬車が停まったのは王都の大通りだった。
「ミレイユ、足元に気をつけて」
「は、はい」
差し出された手を借りて地面に降り立ったミレイユは、目の前の建物を見上げて固まる。
(ここ、王都で一番有名なブティックじゃない……?)
白い石造りの外壁に、金の縁取りがされた看板が掲げられている。硝子越しに絹が波打っているのが見えた。
王都で最も古い仕立て屋で、王家に納入する権利を持つ数少ない店のひとつだ。学園にいた頃、令嬢たちが順番待ちの話をよくしていた。半年待ちだの、紹介がなければ入れないだの。
ミレイユ自身も、十三歳の誕生日に母に連れられて一度だけ来たことがある。あのとき仕立てた薄緑のドレスは、袖を通す前に母が寝込み、その年の夏には着る機会がなくなっていた。
レオナルドと共に入店すると、店主らしきマダムと店員たちが一斉に頭を下げる。
そこから先は、ミレイユが口を挟む間もなかった。
生地見本が次々と運び込まれ、気づけばミレイユは採寸台の上に立たされている。腰にメジャーが回り、肩に布が当てられ、頭の上で会話が飛び交っていく。
「こちらの色は白肌に映えますわ。秋口ですから、深緑はいかがでしょうか」
「瞳の色に合わせるのが上策かと。ですが華やぎには少し足りません。夜会用にはもう一段明るいものが似合いそうです」
「昼用と夜用、どちらも必要なんだ」
「問題ありませんわ、ヴァレンティン侯爵。いくらでも作れそうですわ!」
誰も、ミレイユに聞いていない。いや、聞かれてはいる。「いかがですか」と何度も向けられる。けれど答えを探しているあいだに、次の反物が広げられている。
「あ、あの、一着で十分です。というより、もう十分用意していただいていて」
「まだ足りない。昨日のケーキの礼だ」
(そんな!? でもあれは元々レオナルド様へのお礼の品だったのに)
まるで釣り合っていない。人参のケーキ一台に対して、絹が何反も動いている。この計算をどう組んでも、答えが合う気がしない。
あれよあれよという間に、ドレスが仕立て台に積み上がっていく。小物も合わせようと誰かが言って、そこには手袋やバッグ、帽子に靴の箱も並ぶ。
ミレイユは目を回しながら、それでもどうにか我に返って、レオナルドに向き直る。
「レオナルド様。本当に、こんなに必要でしょうか。宝飾品まで……」
「必要だよ」
即答だった。
レオナルドは採寸台に歩み寄り、店員が持ってきた小箱から耳飾りをつまみ上げる。細い金の鎖に下がっているのは、灰色のダイヤモンドだった。
色石にしては珍しく、透明感がある。光が当たるとダイヤらしく強く跳ね返すのに、色そのものは静かな灰で、見る角度によってわずかに青みを帯びた。
伸びてきた指が、ミレイユの頬にかかっていた髪をそっと耳へかける。指の背が耳の縁をかすめた。
露わになった耳に、冷たい石が触れる。
「君が誰の庇護下にあるのか、見せつけておく必要がある」
──かちり、と。
ミレイユの中で、何かが噛み合った。
自分は今、書類の上でヴァレンティン侯爵の婚約者ということになっている。みすぼらしい身なりでレオナルドの隣に並べば、侯爵家の品格すら疑われてしまうかもしれないのだ。
(そうだわ。侯爵様に雇われてお隣に立つのに、みすぼらしいと問題があるもの)
ミレイユは笑顔でしっかりと頷く。全てを理解した。
「なるほど、つまり戦略的なものですね」
「……戦略」
「承知しました。しっかり務めます!」
ミレイユは採寸台の上で背筋を伸ばした。
任された以上は、きちんとやり遂げるのが筋である。むしろ遠慮していた自分が間違っていた。
「……」
レオナルドが口を開きかけてやめたことも、マダムと店員たちが、張り切るミレイユと振り回されるレオナルドを見て微笑んでいたことも。与えられた義務を前向きにこなしているつもりのミレイユは全く気が付かなかった。




