閑話 王立魔導研究所
同じ頃。王立魔導研究所の所長室では、鈍い音が響いていた。
書類の束が空を舞い、それを積んでいた木箱が倒れている。
「また暴走だと? いい加減にしろ……!」
積み上げられた不具合報告の山を蹴り飛ばしたルシアン・ベルトランは額に手を当てて、深く眉根を寄せた。
所長室の隅に控えていた研究員たちが、息を潜めるように一斉に黙り込む。誰ひとり顔を上げない。
このところ、研究所が修理を請け負った魔導具の故障報告が、毎日のように届けられていた。一度直したものが、ほどなく不調をきたす。手間のかかる定期メンテナンスを廃止して効率化を図ったのに、業務はかえって増える一方だ。
「……以前は、こんなことはなかった」
ぼそりとこぼれたその呟きは、自分でも気づかないうちに口を突いて出ていた。
テオール・リーヴェル。
その名を最後に口にしたのが、いつだったかも思い出せない。
あの男が事故でここを去ってから、もう半年あまりになる。それなのに、机の上には今も、あの男の組み上げた術式の体系の影が、剥がせない汚れのようにこびりついている。テオールが整備していた術式は、誰の手にも完璧には引き継げず、ほつれた糸口を上から無理に縫い止めるような修繕ばかりが積み重なっていく。
ルシアンは、机の縁を指の関節でこつこつと小さく叩いた。
(あの男さえいなくなれば、研究所は私のものになるはずだった)
ルシアンが、所長の椅子に座ってから、半年。
その半年で、研究所の評判は静かに下がりつづけている。『テオール所長がいた頃は良かった』と廊下ですれ違いざまにささやく若い研究員の声を、ルシアンは何度か拾ってきた。
そういう声を漏らした者は、ひとり残らず始末してきた。成果が「事故で」失われ、報告書には改竄の疑いがかけられ、地方への異動が言い渡される――そうやって排除した。
それでも、噂はやまない。摘んだはずの芽の脇から、また別の声が立ち上がってくる。
(くそっ、どうして上手くいかない? 私の方が相応しいのに)
寝台から動くこともできずにいるというのに、テオールの影は、いまだにルシアンの足元を冷たく這い回っていた。
とはいえ、このままでは問題だ。魔導部隊が調査に乗り出したという話も聞こえている。これまでと違い、裏金で留められるような部署ではない。
(魔力を誇示するしかできない奴らめ! 人手は研究員たちを死ぬ気で働かせればなんとかなる。だが、根本的な術式の付与は──)
焦り、こめかみを揉んでいたルシアンの手の動きが、ふと止まる。
ルシアンの脳裏に、ひとりの顔がよぎった。
テオール・リーヴェルによく似た眼差しの娘。
「……そうだ」
ゆっくりと顔を上げる。
「リーヴェルの娘がいるじゃないか」
ルシアンの声に、部屋の隅にいた研究員のひとりが驚いたように視線を跳ね上げた。
「ミレイユ・リーヴェルを探せ。どこにいるか、何をしているか――調べろ」
「はっ、はい……!」
ルシアンは研究員に短く命じる。鼻先で笑うような、薄い笑みが口元に浮かぶ。
「没落した家の娘だ。付与術師にもなれず、働くあてもなく落ちぶれているだろう」
あの天才が泥水をすすって生きていると思うと、それだけでルシアンの中に愉悦が満ちる。これから慈悲深くも自分があの娘に手を差し伸べる。
なんと素晴らしい筋書きだろうか。
「研究所の補助員として声をかけてやれ。父親の治療にも、金が要る。二つ返事で飛びついてくる」
「畏まりました」
研究員たちが頭を下げて部屋を出ていく。
(最初からこうしておけば良かったのだ。ミレイユを手元に置いて、私のために働かせるべきだった)
恩を売って、首に鎖を巻いてしまえば、あとはどうとでもできる。
雑務を装って、テオールの古い書きつけや覚え書きを解かせ――出た成果は全てルシアンの手柄に書き換えればいい。
才が露見したなら、咲ききる前に折ってしまうだけだ。
くつ、と喉の奥で、低い笑い声が漏れた。
「父娘共々、私の糧となってもらおう」
ルシアンの呟きは、所長室の重い空気に溶けていく。その口元には冷えた笑みが浮かんでいた。
窓の外には、雲ひとつない晴天が広がっている。
その視界の遠く、空の端には、ほの暗い雨雲がひと群れ、王都へ向かってゆっくりと流れ寄せてきていた。




