20 同志?
扉がぱたりと閉まる。
「あの、侯爵様。リュミー……?」
「「……」」
静かになった部屋で、ミレイユはひとりと一匹から、揃って物言いたげな視線を向けられていた。
エリオスが去った研究部屋には、ぴりぴりとした空気だけが取り残されていた。
窓辺から差し込む午後の光は穏やかなのに、その静けさだけが妙に重たく感じられる。
(あれ……? わたし、なにか粗相をしてしまった……?)
ミレイユは、テーブルを挟んだレオナルドの様子をそっとうかがった。レオナルドはエリオスが座っていた椅子の方をじっと見据えたまま、腕を組んで微動だにしない。
いつもより、ほんの少しだけ眉間の皺が深い気がする。
リュミーまでもが、ふだんのぽやぽやとした顔ではなく、じとっとした目でこちらを見上げている。
ミレイユが膝の上で手をぎゅっと握りしめたとき、レオナルドが静かに口を開いた。
「ミレイユ。ここに座って」
「は、はいっ」
びくりと肩を跳ねさせて、ミレイユは慌てて言われたとおりにレオナルドの隣に腰を下ろす。
「君は、私の婚約者で、補佐だろう」
責めるような声色ではなかった。ただ、こちらの返事ひとつひとつを確かめるような、低くて深い声だった。
「は、はい! もちろんです、侯爵様」
反射的に背筋を伸ばして、ミレイユは力いっぱい頷いた。明るく、はっきりと。
その答えに、レオナルドはなぜかわずかに眉を寄せる。
「……レオナルドだ」
「……え?」
ぱちりと目を瞬かせるミレイユをまっすぐに見据えて、レオナルドは静かに、それでもはっきりと続けた。
「エリオス殿下のことは、名前で呼んでいただろう。なぜ私だけ侯爵様なんだ」
じとーっとした視線が、ふだんの淡々とした空気を裏切るようにして向けられる。
いつもきっちりと結ばれている口元が、ほんの少しだけ尖って見えるのは、気のせいだろうか。落ち着いた、年上の侯爵様の、思いがけず幼い表情に、ミレイユは思わず目を見開いた。
しばらくぽかんとしていたものの、ハッと我に返って深く頷く。
(そうよね。自然に振る舞わないと。婚約者であり、付与術の師にあたる方を、よそよそしく呼び続けるなんておかしいもの)
あさっての方角に納得したミレイユは、姿勢を正してレオナルドを見上げる。
(と、とはいえ……いざとなると、なんだか緊張する……!)
初対面のあの日からずっと「侯爵様」と呼んでいたのだ。
名前で呼ぶというのは、まるで――こう、なんと言ったらいいのか、こそばゆい。
わずかに視線を伏せ気味にしてから、ミレイユはおそるおそる口を開いた。
「……レオナルド、さま?」
その瞬間、レオナルドの動きがぴたりと止まった。
「……」
一拍の沈黙のあと、ふっと逸らされる視線。
「……それでいい」
いつもより低い声でぼそりと答えて、レオナルドは指で軽く口元を覆う。
その手の隙間からのぞいた耳の先が、ほんのり赤く色づいているのに、ミレイユは気がつかなかった。
(あ、よかった……ご機嫌、直してくださったみたい)
胸の前でこっそりと小さく拳をつくってから、ふ、と肩から力を抜く。
ようやく場の空気がほどけたのを確かめて、ミレイユは膝の上の指先をきゅっと組み直した。
(さっきから、ずっと聞きたかったこと。いま、訊いてしまおう)
「あの、レオナルド様」
「ああ」
「先ほどのお話なのですが」
レオナルドが、ほんのわずかに眉を持ち上げる。
「エリオス殿下が持って来られた、あの結界石のことです」
そう切り出した瞬間、レオナルドの目に、ふっと冷えた光が差した。場面の温度が一段下がる。
ミレイユは息を整えてから、続けた。
「あれが――お父様の事故と同じ術式系統だったというお話、本当でしょうか」
ミレイユの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「ああ。少なくとも、エリオス殿下はそう判じておられる」
レオナルドは深く頷くと、ゆっくりミレイユの目を見た。
「あの結界石は、つい数日前、宮廷の備品庫の奥から見つかったものだ。誰がいつ持ち込んだものなのか、現状ではどの記録にも残っていない」
「記録にないのですか?」
「ああ。隠すように置かれていたそうだ」
低く、抑えた声だった。
ミレイユの中で、何かが冷たくなっていく。
(やっぱり、何かがおかしいんだわ)
レオナルドも同じように思っているのか、険しい顔をしている。ミレイユは意を決して続けた。
「エリオス殿下が、急に実験の日程が早まったから、帰国が間に合わなかったと仰っていましたが、それは……」
レオナルドの目が、すっと細くなる。
「ああ。私も殿下も、ちょうど不在の時で、単なる偶然とは思えない。周辺を少しずつ洗っているところだ」
レオナルドの言葉に、ミレイユの目が大きく見開かれた。
(レオナルド様は、もうずっと前から動いてくださっている)
師匠としてのテオールを、レオナルドが本当に慕ってくれている。それが改めて伝わってきて、目の奥が少しだけ熱を持つ。
「今日、君にあの結界石を見せたのも、調査の一環だ」
レオナルドは、机に置いた手の指先を一度きゅっと握る。
「君ならあれを読み解けると、確信していた。エリオス殿下にも、君の才能を分かってもらうつもりだったのだが……」
「何か、問題があったでしょうか」
言いよどむレオナルドに、ミレイユは眉を下げる。
レオナルドが信頼して任せてくれた案件を、上手くこなせなかったのではという不安がこみあげてきた。だが、レオナルドは首を横に振る。
「君は優れた術師だと再認識させられた。……殿下に会わせない方が良かったかとは思ったが」
レオナルドの声は、いつもよりわずかに柔らかかった。最後の方はよく聞こえなかったが、信頼を損ねることはなかったのだと感じて安堵する。
「嬉しい、です」
ミレイユの口から、自然と言葉がこぼれた。
「わたしひとりでは、事故のことを調べる手立てもなくて、ずっと諦めかけていました。だから――こうして関わらせてくださって、感謝しかありません」
目尻にじわりと滲んだものを見透かすように、レオナルドはミレイユをじっと見つめていた。
「これからは私が隣にいる。君は、ひとりでがんばらなくていい」
レオナルドの指先が、ミレイユの目尻にそっと触れた。滲みかけた雫を、骨ばった指の腹がひと掬い、わずかにすくい取っていく。
(あ……)
ミレイユの心臓が、大きく跳ねた。
(補佐として、信頼してくださっているから。きっと、そう)
慌てて自分にそう言い聞かせる。それでも頬の温度はなかなか下がってくれず、視線を逃がす先を探して、ミレイユは机の縁を見つめた。
そのときだ。
ぽふっ、と白い影が床から飛び上がってくる。
リュミーだ。機嫌のすっかり直った足取りで、ぴょこんとミレイユの膝の上に着地した。雨でも纏ったように、毛先がぱちぱちと小さく光っている。
「キュ!」
ご機嫌な一声を響かせると、リュミーはミレイユの膝の上でくるりと一回転して、ふいに首を伸ばしてレオナルドのほうへ顔を向けた。雷紋の入った尻尾が、ぱたぱたとレオナルドの腕のあたりに揺れる。
レオナルドは、わずかに目を細めて、指先でリュミーの頭をそっと撫でた。リュミーは「きゅるる」と気持ちよさそうに喉を鳴らして、ますますレオナルドの腕の方へ身を寄せていく。
その光景に、ミレイユは思わず口元をほころばせた。
「ふふ……リュミー、ふだんはあまり他の人に懐かないのですが、レオナルド様にはべったりですね」
「リュミーと私は同志だからな」
「えっ」
あまりにも自然に返されて、ミレイユは目を瞬かせる。
「キュ!」
肯定するように、リュミーが胸を張って一声鳴く。
一人と一匹が、何かを共有しているかのように、静かに頷き合った。
(……何の同志?)
ミレイユにはさっぱり意味がわからない。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すミレイユを置き去りにして、レオナルドはふたたびリュミーの背を撫ではじめる。リュミーは目を細めて、雷紋の尻尾をぱたぱたとご機嫌に揺らしていた。
ふたりと一匹のあいだに、穏やかな空気が満ちていく。
窓の外では、昨夜の雨があがって、雲の切れ間から差し込む細い光が、机の上にきらきらと模様を描いていた。




