マリア
「キャー!」
甲高い女性の悲鳴が上がる。
空気を裂く異質な音に、その場の人々が一斉に振り返る。
そこにいたのは、ナイフを手に持つマリアと腕を押さえてうずくまる獣人の女性だった。
ギラリと怪しく輝いて血を滴らせるナイフは飢えた獣のように節操なくあちこちを向く。
ナイフに怯えた人々は、一歩、また一歩と後退っていく。
自然の内にマリアは自由に自己主張できる円状の空間を得た。
「ベルテ! ベルテ・アルテルン! 出てこい! 穢れた卑怯者が!!」
マリアが割れんばかりの声で叫ぶ。
全身から溢れ、ナイフにまでほとばしった怒りの矛先は切りつけた女性でもなければミモザやトレーでもなく、ベルテだ。
一度人を切りつけ、獣と化したマリアは止まらない。
ズンズンと人の輪の縁へ向かうと、今度は同種である猫獣人の女性を捕らえる。
その表情は心底恨めしそうで怒りに満ちていた。
「ねえ、どうして? マリア。私たち、友達でしょ? 昨日だって、二人でミモザ様たちの結婚式楽しみだねって……」
「黙れ!」
激高したマリアが猫獣人の頬を裂く。
血の流れる頬を掴みあげ、強制的に自身の狂った目を見つめさせた。
「ベリア家の美しさを、気高さを忘れた裏切り者が! それ以上喋れば舌を切り取ってやる!!」
マリアは女性を怒鳴りつけると、今度はモフモフとした首にナイフを添わせる。
「ベルテ! 今すぐ出てこい! さもないと!!」
「メリカの首をかき切る、かい? やめなよ。そんなことをしなくても、僕はきちんと君の前に出てきてあげる。話くらい、聞いてあげるからさ」
兵の制止を静かに抑え、ベルテはマリアの前に出る。
上品で潔白な白のタキシードを着たベルテは非常に落ち着いており、強烈な殺気などものともしていないようだ。
「嘘つきが」
吐き捨てるように言葉を出すとマリアは用済みだとでも言うようにメリカを捨て、今度は真直ぐナイフをベルテに向けた。
いつマリアがベルテを刺してもおかしくない一触即発の雰囲気となる中、彼のことが心配なミモザはたまらず人波を割って二人の前に飛び出した。
ベルテの注目が一気にマリアからミモザへ移る。
動揺で切れ長の瞳が丸く震えた。
「ミモザ! どうして君が出てくるんだい!? 彼女の本当の狙いは君かもしれないのに!!」
ミモザの手を握り、咎めるように彼女の瞳を見つめる。
彼女を庇う背中はほぼ完全にマリアへ向けられていた。
自分の舞台に彼を引きずり込んだとはいえ、冷静で慎重なベルテを一対一で制すのは至難の業だ。
その彼が大きな隙を見せた。
これは紛れもないチャンスだ。
だが、そうだというのにもかかわらず、マリアはベルテを背後から突き刺すような真似はしなかった。
代わりに二人を引き離そうとベルテの腕をめがけてナイフを振りかざした。
「今すぐミモザ様から離れろ! 穢れた獣風情が!」
刃がベルテの毛皮を切り裂く一瞬前に彼がミモザを抱えて避ける。
ナイフはむなしく空を切り、勢い余ったミモザはよろけて体勢を崩した。
「何をするの! ミモザ様に当たったらどうするのよ!」
猫背になったまま、獣のようなマリアが金切り声を上げて絶叫する。
髪を掻きむしる姿は酷くヒステリックで狂気的だ。
血走る目にベルテは苦笑いを浮かべた。
「本当に君はミモザが好きで僕が大嫌いなんだね。ミモザは僕を愛しているから、それが妬ましいのかい?」
呆れて出された言葉は下手な挑発よりマリアの神経を逆なでする。
マリアはギリッと歯ぎしりをした。
「ミモザ様がアンタを愛してる? おこがましい! 馬鹿げてる! アンタがそうしたんでしょう! 脅したんでしょう! 洗脳したんでしょう! それで、高貴なミモザ様を下衆にまで貶めたんだ!!」
「ねえ、待ってマリア、貴方はさっきから何を言っているの?」
ベルテの腕の中でミモザが不可思議そうな表情をしている。
憧れに話しかけられたマリアは激昂から一気に表情を明るくし、嬉しそうに頬を赤らめた。
「ミモザ様! 今、私が助けますからね! この男を殺して、貴方を自由にします。そして、この屋敷に再び美しい秩序を取り戻してみせますから!」
ふすふすと鼻息の荒いマリアは興奮して、酷くやる気を見せている。
だが、ミモザはずっと混乱し通しだ。
今も何も分からずに首をかしげている。
「美しい秩序? なんのこと? それに、ベルテを殺すなんて……」
「ああ……ミモザ様、おいたわしい。認識機能をベルテに壊されてしまったのですね。美しい秩序というのは、数年前までの、いや、数十年前までのベリア家のことですよ。あの頃は美しかった。虐げられるべきものは虐げられて、それを糧に高貴な方々は輝く。けれど、貴方たちはそれを知らない。人であるというだけで使用人すらそれを享受して当然とする。私たちなんて歯牙にもかけられない。私たちは清さには触れられず暗い闇の底で死ぬまで働く。それが普通だった。そして、それこそが美しい事だった」
マリアはうっとりとした表情で過去を語る。
まだ自分が奴隷として働き、泥水を啜っていた頃を。
今では同僚となった者にさえも殴られ、食事を取り上げられながらも危険な仕事をさせられていた頃を。
マリアは平気そうだったが、彼女の過去に人と獣人のどちらも表情が曇る。
それだけ、彼女の話は陰鬱だった。
「父が怪我の悪化で死に、母が餓死したのも普通。私の成長が止まって少女の姿でいるのも普通……あら? ミモザ様?」
ギュッと痛みをせき止めるようにミモザがマリアを抱き締める。
彼女はポロポロと涙を流していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、マリア。ベリア家は貴方の体を、心を、人生を壊してしまった」
嗚咽を溢してミモザは必死で謝る。
当主としてトレーに謝罪した時の凛々しい姿はすっかり消え失せ、代わりに罪悪感と後悔が全面に表れている。
それは未熟でみっともなかったが、けれど確かに心はこもっていた。
温かな抱擁は確かに見る者の心を打つ。
当然、抱き締められた当事者であるマリアさえも。
「っ! 触るな! 触るな、触るな、触るな!! この醜い化け物が!! お前はミモザ様じゃない! ミモザ様によく似た偽物だ! ベルテがベリア家を崩壊させるために用意した替え玉だ! 本当のミモザ様を返せ」
マリアはミモザを強い力で突き飛ばすと彼女に尻もちをつかせた。
「何が穢れた秩序だ! 悪しきは正すだ! アレが間違いだったなら、死んだ両親はどうなる? 友達は? 私の過去は? なんで、みんな受け入れられるんだ。感動で涙なんか流せるんだ。美味しいご飯に、ふかふかの寝床に、保証された明日に笑えるんだ!! 嫌だ! 違う! 私たちの犠牲にはちゃんと意味があったんだ。私たちは美しい花を咲かせるための土なんだ、肥やしなんだ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!!」
マリアは絶叫しながら涙を流している。
マリアのそれは被害者の正当な怒りというよりは破綻した幼子の癇癪だ。
しっちゃかめっちゃかに暴れるナイフは暴走したまま確かにミモザに向かっていく。
ミモザは恐怖で動けず、彼女へ向かって必死に手を伸ばすベルテも間に合いそうにない。
ナイフがミモザの柔肌を裂く寸前で、ナイフは横から飛んできた何かにぶつかりカランと音を立てて床に落ちた。
「クソッ!」
すぐに事態を理解したマリアが暴言を上げる。
だが、不測の事態が起きたにもかかわらず彼女は意外と冷静だ。
血走る瞳ですぐにナイフを見つけると、拾おうと手を伸ばした。
その手の甲を小さなナイフが貫く。
「ギャァッ!」
マリアが潰れたカラスのような悲鳴を上げる。
反射的に振り返ったその場所には、酷く冷たい目をした犬井が立っていた。
どうやら、ミモザたちから離れてうまく気配を消していた犬井は騒動に紛れてコッソリ輪の前線に入り込み、マリアを観察していたらしい。
そして、彼女に対処する機を窺っていたようだ。
「ミモザ様に飼われる犬ごときがぁ!」
ナイフを拾うためか四つん這いになったマリアは髪を振り乱し、口元から唾液を垂らして怒鳴り声を上げる。
醜い獣へとなり果てたマリアは咆哮を上げ、犬井にとびかかった。
だが、犬井はヒラリとかわすと素早くマリアの背に乗り、そのまま彼女を押しつぶして腕を捻り上げる。
マリアは「がぁっ」と苦しそうに息を吐きだし、呻いている。
「醜い獣が上等な服を着るな……ミモザ様に近寄るな……」
もはや何の抵抗もできなくなったマリアだが、それでも口は動くから掠れた声で言葉を出す。
それを犬井は嫌そうに見下した。
「うるさい。貴方たちの狙いが何なのか知りたかったから泳がせてたけど、それももう、おしまい。悪いことをする手も、おしまい」
マリアの腕をギチギチと可動不可能な方向へ押し込んでいく。
彼女の表情が憎しみと痛みで歪んでいく。
バキンと音が鳴り、マリアの腕が綺麗に壊される寸前で、ミモザが「マオ!」と犬井の名を叫んだ。
命令に従い、動きを止めた犬井が面倒そうにミモザを見る。
「腕くらい、折れても死なないよ。私たちにはユニコーンだっている。殺さなきゃ、多少の取り返しはつくよ」
「そういうことじゃないでしょう! もう、その子に痛みを与えるのは!」
「当の本人は随分と歪んだドMみたいだけど、まあ、いいか。どうせ、馬鹿は死ななきゃ治らない。歪んだ心も。それなら、生かしてる時点で一緒だ」
犬井はふぅっとため息を吐くと、それから持っていた縄でマリアを縛り上げた。
「怪我人の手当てはユニコーンとトレーがしたから、二人とも無事だよ。急に襲われて心が弱ってるみたいだから、アニマルセラピー……ウサギの魔獣たちに癒してもらってる。それとマリアは捨て玉だから、まだ首謀者や彼女への賛同者が残ってる。わかってる分は魔獣たちに協力してもらって捕らえてあるよ。元々ベリア家に攻撃したい人たちの集まりであって、意見も一致してない心のバラバラな集団だったみたいだから壊滅するのも時間の問題かもだけど、できるだけはやるよ」
淡々と処理を進める犬井は冷静であまりにも手際がいい。
ミモザがそのことに言及すれば、犬井はマリアと出会った数日後にはミモザたちの婚姻に激しく反対する一派の存在を把握しており、更にリハーサルの一週間前には今回の騒動に関する情報を掴んでいたことを白状した。
犬井はケロッとした様子だが、ミモザは開いた口が塞がらない様子で呆然と立ち尽くしている。
「え? だって、私、何も聞いてないんだけれど……?」
混乱に怒りを滲ませ、言葉に非難の響きを混ぜ込む。
「ミモザ様は顔に出やすいから。今回のこと、話したらそっちに気を取られすぎちゃって、トレーたちへの謝罪、失敗すると思ったし」
「信用が無いのね。だいたい、マリアのことが分かっていたなら誰かが切られる前に捕らえてくれたらよかったのに」
「何もしてない人を捕らえることはできないよ。それに、マリアの目的も知りたかった。それが分からないと、今後、マリアやその賛同者が何をしてくるのか想像もできなかったから。でも、怖い思いさせたのは……ごめん」
しょぼんと垂れた尻尾に犬井の反省が映る。
ミモザは小さくため息を吐いた。
「別にそんなことでは怒っていないけれど、でも、今の話を聞く限りトレーはマリアのこととか知ってたんでしょう? 仲間外れは嫌よ。信頼されないのも」
「信頼してないわけじゃないけど」
「してないわよ。これじゃ当主失格じゃない」
まあ、実際、ミモザに今回の件が伏せられたのは彼女の演技力が疑われたからだ。
犬井では上手くフォローできずにウロウロと尻尾が揺れる。
二人を見ていたベリアがスルリと前に出てきてポンとミモザの肩に手を置いた。
「僕もマオたちがそんな風に動いてくれてるなんて知らなかったな。二人はサプライズが上手だね。でも、あんまり何でも内緒にしちゃ駄目だよ」
「「え!?」」
犬井とミモザの両者が同時に声を上げる。
しかし、ミモザはまだ犬井も驚いていることに気が付いていない。
ベルテも念を押すように犬井にウィンクをした。
「わ、私だけ仲間外れじゃなかったなら、まあ、私、二人を許してもいいけど」
「そうだね。マオもトレーも今回、すごく頑張ってくれたんだろうから」
「そうね。私、二人をねぎらうわ」
ミモザは楽しそうに笑っており、ベルテの尻尾も上機嫌にゆったりと揺れている。
『ベルテ様には報告したけどな。一緒に今回の件への対策も講じたわけだし』
犬井は一人でコテンと首をかしげていたが、やがて「まあ、いいか」と二人の元を離れて事後処理へ向かった。




