小さな変化
サリアの件から約三週間が経ち、トレーは随分と変わった。
表面上はあまり変わりがないが、内面が安定し、少しずつ未来に目を向けられるようになった。
自分や周囲の幸福を望めるようになったのだ。
それには、やはりサリアに許されたことによる影響が大きい。
トレーの抱えているトラウマは多く、特に虐げられてきた過去は自己肯定力を著しく下げる。
だが、その中でも特に心理的負担が大きく、自己嫌悪を増幅させていたのはサリアの件だった。
今回はこれが解決したことに加え、サリアがトレーに生きていてほしいと強く願っていたことも判明した。
それにより、トレーは生きる資格を得られたような気分になり、後ろと地面ばかりではなく、少し遠い場所まで見渡せるようになったのだ。
だが、そうして生まれた変化が常に自分や周囲へ良い結果をもたらすとは言えない。
犬井は最近のトレーに不満を抱いていた。
「なんかトレー、前より冷たい」
仕事の昼休憩中、トレー特製のサンドイッチを齧る犬井が愚痴を溢した。
あむあむとサンドイッチを齧る口の動きも普段より苛立っている。
トレーは苦笑いをして頭を掻いた。
「冷たいって何だよ。別にいつも通りだろ」
「全然違う。前までは隙を見せれば抱き着いてきて、キスもして、恋人になれって迫って来たのに、全くしてくれなくなった。トレーから逃げる必要がないくらい淡白」
「良かったじゃねーか。困ってたんだろ」
「いいけど良くない。スキンシップが減った。つまんない」
「我儘言うなよ。ほら、食ったらお嬢様の所に行ってこい。お茶会があるんだろ」
元々、ミモザとのお茶会は彼女が獣人に慣れるために開催されていた。
しかし、今の彼女はベルテを愛しており、獣人や魔獣のことはむしろ好ましく思っている。
本来の趣旨を考えればお茶会をする必要はなくなっていたのだが、ミモザが寂しがるので犬井は定期的に彼女の下を訪れていた。
「やっぱり冷たい。それに、トレーもお茶会に来たらいいのに。最近はベルテ様もいるよ。皆、トレーに会いたがってる」
「俺は良いんだよ」
トレーは苦く笑って首を横に振った。
ミモザは今、屋敷内の魔獣や獣人に対する意識を変えようとベルテと共に動き出している。
かつて使用人らが働いた悪行を全てさばいてはキリがないため、酷いものに絞ってあぶり出し、罰を与える。
未だに魔獣を手酷く扱うものに対しては厳罰を与えるとともに指導を行い、他の使用人らに対しては魔獣の命の尊さ、素晴らしさを説く。
かつては国やベルテの一族が成そうとしていたそれを、今度はミモザが成功させようとしているのである。
とはいえ、今はまだ全てが計画段階。
ベルテや数人の使用人らと共に知恵を絞り、少しずつことを進めている。
そのため、まだ成果らしい成果は一切挙げられておらず、屋敷内では魔獣や獣人に対する風当たりの強い者が圧倒的に多い。
トレーが屋敷を訪れたがらないのも当然だったが、犬井はそれとは別の理由で彼を訝しんでいた。
「ねえ、トレー。トレーは私がいない間、どこに行ってるの?」
「どこにって、仕事してるに決まってるだろ」
「嘘つかないで。魔獣のみんなが、最近、昼過ぎになるとトレーがどこかに行くって言ってるの。心配してる」
獣人としての性質が極めて強い犬井は心を通わせた魔獣と対話ができる。
魔獣経由で密かに出かけていることがバレたトレーはバツが悪そうに目を逸らした。
「ちゃんと仕事は終わらせてから出かけてるんだ。問題ないだろ」
「私はトレーが心配だって話をしてるの。仕事をしてるかどうかはどうでもいいよ」
「どうでも良くはないだろ。別に、ちょっと野暮用だ」
「その内容を知りたいんだけど」
ジッと見つめるも、トレーは全く口を開く気配がない。
犬井は彼から話を聞きだすことを諦めた。
「ねえ、トレー、言いたくないなら聞かないけど、代わりに一個だけ約束して。私、トレーがどこかに行って帰ってこないなんて嫌だよ。絶対、出掛けたままにならないで」
これまでのトレーを思ってか、最悪のケースを想定しているらしい。
酷く真剣なまなざしを向けてくる犬井をトレーはコツンと小突いた。
「わふっ!」
不意打ちに驚き、のけ反る犬井を抱き寄せる。
トレーはワシャワシャと犬井の頭を撫でると、彼女の杞憂を吹き飛ばすかのように快活に笑った。
「なんて心配してんだ、このアホ犬は。俺はもう、そういうのは思わねーよ。サリアに貰った命を大切に、幸せに生きるって決めたんだ。ただ、そのために必要なことがあるって、それだけだよ」
「そうなの? それなら良かった! でも、その『必要なこと』の内容が知りたいんだけど」
「俺が言いたがらないんなら、聞かないんだろ」
「それはそうだけど」
納得できない様子の犬井が口をとがらせる。
そのまま、トレーをギュッと抱きしめて顔を彼の胸元に埋めた。
「トレー、キス」
「なんでだよ」
「落ち込んだから。もっとギュって抱っこして、キスをしてほしい」
ブンブンと尻尾を振る犬井はトレーに甘え、激しく期待した様子だ。
トレーは照れて顔を赤くし、目を泳がせていたが、少し迷ったのち犬井の唇を指先でつまむとポフポフと叩いた。
トレーの誤魔化すような意地悪に犬井は本当に落ち込んでしまう。
耳をペタンと寝かせ、尻尾をダランと力なく下すと寂しそうに視線を落とした。
「トレー、駄目なの?」
「ああ。まだ、駄目だ。今度な」
「それ、昨日も言ってた。今度はいつ来る?」
「さあな。でも、多分近いうちだ」
「本当?」
「本当だって。だから、まあ、ちょっと待ってろ」
「分かった」
珍しく聞き分けの良い犬井の頭を優しく撫でる。
トレーは彼女の額にキスをするか迷って、やっぱり止めた。




