パンドラの中身
とある昼。
かつてはお茶会をしていた時間にミモザはベルテを連れて魔獣小屋までやってきた。
唐突な来客に驚きつつも、犬井は中へ二人を招き入れた。
「久しぶりね、マオ」
「久しぶりと言っても一週間くらいですが、でも、そうですね。だいぶ長い間会わなかったような気がします。その、調子はどうですか? もう、ここに来ても平気?」
ミモザはやはり痩せていたが意外にも顔色は良く、肌や髪の艶も悪くない。
しかし、彼女を取り巻く状況を思えば不安を覚えずにはいられない。
犬井は慎重な様子で問いかけたが、どうやらミモザにはその様子がおかしかったようで「ふふっ」と笑った。
「ミモザ様?」
怪訝な表情でミモザの顔を見つめれば、今度は肩を揺らして笑い始めた。
一週間では心の傷が回復しきらず、完全に壊れてしまったのかと訝しむ犬井の眉間の皺が強くなる。
「いえ、大丈夫よ。ただ、マオがあんまりにも不安そうにしてたから、何だか珍しくて」
「珍しい?」
「ええ。貴方はトレーのことしか頭にないんだと思っていたから」
「基本はそうだけど、でも、ミモザ様も大事な……上司? だから」
「そこは素直に友達にしてくれないかしら」
「いや、私はメイドなので」
「メイドらしい仕事なんてほとんどしてないくせに」
「まあ、確かに。でも、今日はお茶を入れたので。安物ですが」
苦く出された嫌味に対し、犬井は無感情な澄まし顔で返す。
初め、二人は少し気まずそうだったのだが、会話をしている内に空気も普段のものに戻っていく。
温かい茶を飲んでホッと息を吐くミモザの表情は随分と穏やかで、密かにその様子を確認するベルテも安心した様子だった。
「ミモザ様は、一週間ずっと部屋にいたんですか?」
「ええ。恥ずかしい話だけれどね、一日中、部屋で泣いていたの。毎日ベルテが来てくれたから彼だけには会って、怖かったこととか辛かったことを話して、ずっと慰めてもらってたわ」
俯くミモザは酷く恥ずかしそうで、顔を真っ赤にして体を小さくしている。
ベルテが「恥ずかしくないよ」と頭を撫でれば、彼女はブンブンと首を横に振った。
「いいえ、本当に恥ずかしい話よ。大人としても、当主としても恥ずかしい。過去の話で一週間も塞ぎ込んで、ベリア家の皆を不安定にしてしまったわ。でも、収穫もあった」
「収穫?」
犬井がコテンと首を傾げる。
すると、ミモザは「ふふん!」と不敵に笑んだ。
「私ね、当時はベルテに縋りたくて、助けてほしくて堪らなかった。それを今回、彼に疑似的にしてもらえたから過去を完全に乗り越えられたの。きっと今の私は前よりも精神的に成長している。強くなれたと思うの」
胸を張る姿は堂々としていて、今までの威張った態度とは違う清々しい自信と余裕を感じられた。
思わず犬井が拍手をすれば、ミモザは嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、ミモザ様は薬はいらない?」
「薬? 何の薬かしら?」
「忘却の薬。神様から貰った」
飲めば辛いことを一つだけ忘れられること。
ただし、それに関連することを全て忘れてしまうから、ベルテやトレーについてすら忘れてしまう可能性があること。
加えて、薬によって忘れてしまったことは二度と思い出せないこと。
忘却の薬について完結に説明をすれば、話を聞き終えたミモザは少しも迷うことなく首を横に振った。
「忘れないわよ。サリアに関することは、もう二度と。辛くても、悲しくても、忘れてたまるもんですか。それに、ベルテのことまで忘れる可能性があるなんて、絶対に嫌!!」
「僕も、もう一度ミモザに忘れられちゃうのは悲しいな。せっかく仲良しに戻れたのに」
ベルテがそっとミモザの手を握って彼女の瞳を見つめる。
すると、ミモザはポンッと顔を赤くして恥ずかしそうにベルテから目を逸らした。
「ベルテ、人前だから」
「手を繋いだだけだけれどな」
「でも、ベルテに触れていると、つい甘えてしまうから」
ミモザが名残惜しそうにベルテの手を解くと、彼はしつこく追うことなく従って、代わりに犬井に微笑んだ。
「ほら、こんなに可愛いミモザが前のベリア家らしい当主に変わってしまう。そんなの、僕は嫌だよ」
ベルテがチラリと犬井の手にある忘却の薬を見る。
優しく細められているはずの瞳は一切笑っておらず、親の仇でも見るかのように厳しかった。
「ベルテさん、怖い」
「あれ? 表情に出てたかな。でも、説明を聞けば何だか薬が劇物に思えてね。間違ってもミモザに与えないでくれよ」
「平気です。本人が望まないなら、渡さないから。私も、本当は忘れてほしくない」
「君が? どうして?」
「どうしてって、何でだろ」
記憶を取り戻す前のミモザと現在のミモザであれば、今の彼女の方が圧倒的に温和であるし精神も思考も安定している。
定着してしまった性格であるのか多少偉そうではあるものの、彼女が当主であることを考えれば周囲から求められる態度ではあるし、以前と違って余裕もある。
今のミモザであれば容易にヒステリーを起こすことはなさそうだ。
魔獣や獣人への考え方も大きく変化しているから、犬井たちにとって現在のミモザの方が良い当主であることには間違いがない。
しかし、犬井がトレーやミモザに過去を忘れてほしくないのは、理屈というより彼女自身の価値観に起因したエゴ的なものだった。
犬井が怖いのは自我を失うこと。
それはすなわち、現在の自分を作り出す重要な過去やそれに関連する感情を失うことでもある。
犬井なら楽しいことはもちろん、どんなに辛い過去だって全く忘れる気にはなれなかった。
だが、それはあくまでも日本で気楽に過ごしていた犬井の持つ価値観だ。
人並みに辛いことも悲しい事もあったが、どれもトレーやミモザほど壮絶ではなく、獣人に転生してからも恩恵によって割と豊かに、満足した生活を送っている。
そんな自分がトレーやミモザたちに過去を忘れるなと主張できないのは分かっていたから、犬井は彼らが望めば薬を渡すつもりでいた。
だが、本当は忘れないでほしかった。
そのため、犬井はミモザの強い決断にホッとしていた。
「ところでマオ、トレーはまだ仕事かしら? 実は私たち、トレーに用事があって来たのよ」
「トレーに? どうしてですか?」
「これね、開けたの」
ミモザが犬井に手渡したのは木製の小箱だ。
実物を見るのは初めてだが、話の流れから犬井はこれが、ミモザが今まで開けられずにいた『例の箱』なのだと理解できた。
目を丸くする犬井をチラリと見て、ミモザはアッサリと蓋を開ける。
中には古びた写真が数枚とボロボロになったりボンが入っていた。
ミモザが箱から写真を取り出し、一枚、一枚、丁寧にテーブルの上に置いていく。
写真には幼い頃のミモザとベルテを思わせる人物が写っていた。
幼く子犬のようにも見える獣人と容姿の整った少女のじゃれ合う姿は愛らしく、ポスターカードのようだった。
「これね、昔トレーがとってくれた写真なの。カメラは高価なものだったからトレーは撮るのを嫌がったんだけれど、どうしてもってお願いして、それで、これね」
ミモザが最後にテーブルの真ん中に置いた写真。
そこにはモフモフとした体毛にまん丸のつぶらな瞳が愛らしい魔獣が写っていた。
写真越しにでも美しい毛並みをしていたことが分かる。
その魔獣は、三人が大切に育てていたサリアだ。
「ウサギよりも短くて、ネズミよりも長い耳。短い前歯。不思議だ」
「ね、不思議な生き物でしょ。でも、そこが魅力で可愛かった。それとこのリボン。これはね、サリアの形見なの」
当時、目の前でサリアを惨殺されたミモザは激しい怒りと絶望に打ちひしがれた。
理不尽に友達の命を奪われたのが悔しくて、死体すら奪われるのが不愉快で、ミモザは地面にポトリと落ちたボロボロのリボンを拾い、保管していた。
桃色のリボンが黒ずんでいるのは、サリアの血液が染み込んでいるためである。
いっそ呪物にすら見えるソレは、サリアが生きていたことを示す唯一の品となっていた。
「これをサリアの墓に供えたいの。墓参りしたいのよ。忘れててごめんね、会いにきたよって。それに、謝りたい。守れなくてごめんねって」
ミモザは消して泣かなかったが、犬井の目には彼女の頬に伝う雫が映っていた。
思わずミモザの頬に手が伸びかけて、何となく下ろす。
ミモザは犬井の様子に気が付かないまま話を続けた。
「サリアの死体はアイツらに持ってかれちゃったから、どこに行ったのか分からない。サリアの死体を汚いゴミみたいに扱ったアイツらがきちんと埋葬をしているとも思えない。でもね、死体をその辺に放置するようにも思えないのよ。魔獣を嫌悪しているから、『汚物』を見えるところに置かないはずなの。多分、死体は誰かに処分させたんじゃないかと思う」
「それが、トレーなの?」
問いかけられて、ミモザはコクリと頷いた。
「もしかしたら私の思い違いかもしれないし、仮にトレーがサリアを埋めているのなら、きっと彼も心に深い傷を負っている。サリアのこと、思い出したくないのかもしれない。でも、それでも、私はサリアにもう一度会いたい。話をしたいのよ」
墓は死者ではなく生者のためにある。
生者が心の折り合いをつけるために、正しく死者と別れを告げるために存在する。
どこかで聞いたような言葉が必死なミモザの姿と共に浮かんできた。
「お嬢様は相変わらず我儘ですね」
自室から出てきたトレーがミモザに苦笑いを向ける。
ミモザの表情がパッと明るくなった。
「トレー! 貴方も久しぶりね。元気だった?」
「まあ。お嬢様は少し幼くなりました?」
「そんなこと無いわよ。どちらかというと大人っぽくなったはずだもの。ベルテは褒めてくれたのよ」
「ベルテ様は昔からお嬢様に甘いですから」
「貴方は意地悪ね。でも、こんな会話も懐かしいわ。十数年ぶり」
「そうですね。昔はもう少し気楽に話していたから。それで、お嬢様、俺に用事があったんでしょう。墓の件で」
「ええ、そうよ。ねえ、トレー、トレーはサリアの墓の場所、知ってる?」
激しくなる心臓を押さえ、ミモザが恐る恐る問いかける。
トレーはアッサリと頷いた。
「知ってますよ。お嬢様の読み通り、アイツを埋めたのは俺なので」
「それなら!」
「案内します。まだ、ちゃんと墓の場所を覚えてるんで」
ミモザはもちろん、ベルテにとってもサリアは大切な友人だった。
そのため、二人は嬉しそうに笑い合ったが、唯一、犬井だけは不安そうにトレーを見つめていた。




