忘却の小瓶
あれから一週間。
トレーは部屋に閉じこもり続けることも無く今まで通りに魔獣の世話をしているが、言葉数も極端に減り、常に暗い雰囲気をまとっている。
死相すら漂わせる彼は当然、犬井と楽しくじゃれ合うことも無くなった。
また、ミモザも体調不良を理由に自室で療養をとっており、犬井はほとんど彼女とコンタクトを取れていない。
偶然に見かけたミモザの姿は以前よりも更に瘦せており、おまけに使用人たちは彼女の部屋からすすり泣く音が聞こえるのだと噂している。
明らかにミモザの状態も良くない。
主の不調は屋敷全体に響く。
現在、ベリア家はかなり不安定になっていた。
二人と仲が良く、彼らを酷く心配する犬井も耳や尻尾も下がりっぱなしだ。
犬井は眠れない日が増えた。
「普段はベッドに入れば数秒で眠ってしまう犬井真緒さんが寝不足か。珍しいね。トレーさんだって、ちゃんと隣にいるのに」
数時間毛布の中で寝返りを打ち続け、ようやく眠ることのできた犬井に、神様が夢の中で話しかける。
神様の空間は精神世界であり肉体からの干渉を受けないが、それでも犬井は酷く眠たい気がして大きく欠伸をした。
「久しぶり、神様」
「久しぶり、随分とやつれているけれどどうしたの?」
「見てたんじゃないの?」
「見てたけれど、君の口から聞きたいんだよ。今日まで、何があった? そして、真緒さんはそれをどう思った?」
無邪気に問いかける姿は純粋そのものだ。
犬井は面倒だと思いながらも過去の出来事を一つ一つ掘り起こした。
言葉は淡々としているようで感情がのっていて、耳や尻尾が忙しなく動く犬井に神様がニタリと不気味な笑顔を浮かべた。
「真緒さんは二人が心配なんだね」
「そりゃあ、二人とも大事だから」
「二人とも? トレーさんだけでなく、ミモザさんもかい?」
「まあ、何だかんだ仲いいし。二人ともこのままじゃ死んじゃうんじゃないかって、心配」
「そうか、そうか」
神様は満足そうな表情で笑うと、それから犬井に向かって手を伸ばした。
「きっと君は僕に素敵な物をくれる。手を掴んでくれるかい?」
初めて会った時から今日まで、神様の態度は一貫して変わらない。
いつまで経っても人の心を解さぬ化け物で、ありもしない上機嫌を頬に張り付けている。
犬井にとって神様は幻のように曖昧な存在で、初めは特に何の感情も抱いていなかった。
だが、少しずつ時間が経つにつれ、何となく神様を嫌悪するようになっていった。
神様の手を取らない犬井に彼が首を傾げる。
「どうしたの? 犬井真緒さん。僕の手に触れてよ。あ! もしかして、僕の言葉が気になったのかい? あれは言葉の綾だよ。光を使って、少し感覚を分けてもらうだけ。君から奪うわけじゃない。コピー&ペーストってところかな」
犬井について何らかの勘違いをしたらしい神様が慌てて言葉を出す。
彼女は不可解そうに首を傾げたが、やがて、逃げ場がないことを悟ると神様の手を掴んだ。
途端、神様の手から柔らかく放出された光が犬井の全身を包み込み、ジワリと溶けて内側に入り込んでいく。
脳や心臓をまさぐられ、指の先や足の先など隅々まで見られる感覚は酷く不愉快なものだった。
犬井の情報を溜め込んだ光はやがて神様の方へと移動する。
一見すると神聖なソレは人間側の精神的負担を強要する。
「気持ち悪い」
一連の動きが終わると犬井は苦く吐き捨て、その場に崩れ落ちた。
全身に脂汗をかき、わけのわからない恐怖にガタガタと震える。
すぐに何らかのケアがなければ、犬井は指一本すら動かせそうになかった。
だが、肝心の神様は犬井から貰った感覚、すなわち転生前から今日までの様々な出来事に対する彼女自身の身体、精神的な動きに夢中だ。
犬井自身に関心を向けることはなく、ニタリと上げた口角から「ふむ」とか「なるほど」とか感心するような言葉を漏らし続けている。
それから彼は瞳の歪んだ気味の悪い笑顔を犬井に向けると、跪き、そっと彼女の両手を包み込んだ。
先ほどの光を思い出して、犬井がビクリと肩を震わせる。
無意識に手を引こうとする犬井の手を神様が包み直した。
「大丈夫だよ。人ならざる者が人になる過程を見せてもらったから、そのご褒美を上げるだけだ」
ふわりと温かい光が犬井の手の中で光る。
優しく出現したのは透明な液体の入った小瓶だった。
「これは、忘却の薬だ。辛いことを何でも忘れられる魔法の薬。関連したことを全て忘れさせてしまう性質があるから、うっかりすると必要以上に記憶を消してしまうけれど、まあ、少なくともトレーさんには悪くないだろう。これを一瓶だけあげる。最後に、君の選択を見せて欲しいんだ」
神様は笑わない目で優しい頬笑みを浮かべた。
「トレーかミモザ様か選ばせたいってこと? なんで?」
「なんでって聞かれても、何となくとしか。興味が湧いたんだ。大切なものを手に入れた人間は、選択を迫られた時にどうするんだろうって」
「そもそもこれを私が使うとは限らない」
「どうして? 少なくともトレーさんはこれを望んでいると思うけれど」
「私が、忘れてほしくないから」
「薬はいらないの?」
「分からない。トレーには楽になってほしいと思う。ミモザ様にも」
「なら、やっぱり持って帰ったらいいさ。君はきっと薬を飲ませる」
犬井には自分の手の中にある薬が猛毒に見える。
しばし考え込む彼女の姿を神様は嬉しそうに眺めた。
「じゃあね、犬井さん。僕は多分、結末を見届けたら君に干渉することはなくなると思うけど、たまに、気まぐれに君を見るだろうからよろしくね」
神様がふらりと手を振る。
現れる時も去る時も、いつも唐突な神様だ。
犬井は神様を逃すまいと彼の腕を掴んだ。
「なんだい? 犬井真緒さん」
神様が呑気に首を傾げる。
その姿にさえ苛立ちが募った。
「貴方は一生、人になれない。心がないからね」
ギロリと睨む犬井の瞳が、まん丸く見開かれるガラスの瞳を捉える。
朝、犬井は神様の返事を聞かぬままに目を覚ました。
「眠ったのに、ぜんぜん寝た気がしない。それに……」
手に握られた小瓶を見て、犬井は悪夢を見続けているような酷い感覚に襲われる。
迷いで頭が揺れるこの日、見計らったかのようにミモザが二人の小屋を訪ねてきた。




