15th page いつか、どこかでその悪夢(ゆめ)を視た気がしまして
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ネタバレになりますが、タグに〈婚約破棄〉を追加しました。
タイトルやあらすじ、タグが物語の〝顔・身体〞に価すると考えると、「人は見た目が100%」って、あながち間違ってないのかも……?(※あくまで個人の感想です)
瞳を開けると、目の前に懐かしい人が立っていた。
「お母様っ!」
懐かしいお母様の姿が、そこにはあった。
優しく微笑むその姿は、記憶の中にあるお母様そのままだ。
――あら、エイヴリル。大きくなったわね。
「はい。今年で十七になりました」
――そう。元気そうで良かったわ。
優しい声と言葉。
お母様との再開に、私は嬉しくて堪らなかった。
「はい! 私、お母様に会えたら、お話ししたいことがたくさんあったのです!
私、お母様の遺してくださったあの離れで、精霊と感覚共有が出来たのですよ! あと、とても良くしてくださる精霊がいて――」
けれど、弾む私の言葉とは裏腹に、笑顔だった母の顔が落ち着いていく。
「お母様?」
そして、静かに開かれる母の唇。
――それは凄いわね。でも……
次にその口から紡がれた言葉は、私が聞きたくない言葉だった。
――あの娘……アビゲイルの方が、もっと凄いわ。まるで私の若い頃のよう。
「え……? お、お母様? 何を……」
聞き間違えだろうか。そう思った私の安易な思考は、すぐに打ち砕かれる。
――あなたよりも、アビゲイルの方が私の娘に相応しかったのかもしれないわね?
「お母様……っ」
……嘘だ。私のお母様が、そんなことを言うはずない。
だって、お母様の娘は、この私だもの。
――そうだな
けれど、お母様の後ろから、もう一人が現れる。
それは、お父様だった。
「お、お父様まで……っ」
――アビゲイルが私たちの娘であれば、私たちの間に溝が生まれることがはなかったかもしれないな。
――そうね。
「そ、そんな……っ。私は……私は、ただ、二人に……」
いくら耳を手で覆っても、首を横に振っても、二人の声が頭に届いた。
――あなたではなく、アビゲイルが私たちの娘であれば良かったのに
――お前ではなく、アビゲイルが私たちの娘であれば良かったのに
「いやぁああぁぁあ!」
私は自身の叫び声で目が覚めた。
胸の動悸が収まらず、息をするのもままならない。
すぐに、隣のベッドで寝ていたレジーナが心配の色を含んだ声で駆け寄ってきた。
「ちょっと!? どうしたのよ、エイヴリル!」
起き上がって息を整える私の背中を、机の上のランプを灯したレジーナが優しくさすってくれた。
「……レジーナ。ごめんなさい……」
「ここ最近、ろくに眠れてないんでしょう?
先生に言って、あの薬をまた貰ったら……って、エイヴリル、あなた……泣いているの?」
知らない間に、目から何かが溢れていた。それは私の頬を伝って、シーツへと落ちる。
けれど今はそれを拭う気力も湧いてこなかった。
私は先ほどまで見ていた悪夢の内容を思い出して、もう一度深く息を整える。
「……大丈夫よ。それに、オロス先生からいただいた睡眠薬は、まだ少し残っているの。
ただ、少し驚いただけだから……だから、あなたはもう休んで。起こしてしまってごめんなさい、レジーナ」
「……わかったわ」
落ち着きを取り戻していく私を確認すると、レジーナは再び自分のベッドへ戻って眠りへと着いていった。
私は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いた胸に手を当てる。
視界には、レジーナが灯したランプの明かりがぼんやりと映っていた。
そして揺らめく仄かな光が、瞬間、あの日を連想させる。
(……クライド……)
あの日。
クライドが気を失った後、すぐにその場へ駆け付けたアビゲイルとオロス先生による合同精霊魔術によって、彼は奇跡的に一命を取り止めた。
けれど外傷からの出血が酷く、その治癒には長い時間がかかると先生が言ったのを覚えている。
そして私も、その言葉を聞いたすぐ後に意識を失い、三日間眠り続けたらしい。
次に私が目覚めた時には、既にクライドは生家であるエルカーレ公爵家に身元を引き取られたあとだった。
そしてその数日後。
腕の怪我もある程度癒えた私は、騒動時にその場に居合わせたことから、学園が事態の把握として開いた緊急理事会に事情聴取されることになった。
訊かれたのは、クライドが帯剣をしていた理由と彼の負傷の原因。
私はクライドの怪我の原因である、あの赤い瞳の男について包み隠さずに見たものすべてを話した。
けれど、彼が帯剣をしていた理由についての質問には、すべて〝黙秘〞で答える選択肢を選んだ。
それにより、事態が思いも寄らぬ方へと転がっていくとは、露も知らすに。
「エイヴリル……ほんとに大丈夫?」
翌朝。
今から登校するレジーナが、後ろ髪を引かれたように扉の前で振り向いて告げた。
「ええ。ほんとに大丈夫よ。ありがとう、レジーナ」
「そう……ゆっくり休んでね」
彼女は小さく頷いて、部屋を後にする。
(〝ゆっくり〞か……)
そう言われても、眠る気にはなれなかった。
むしろ、目を閉じたらまたあの悪夢を視そうで、怖かった。
レジーナが言っていたように、最近はほとんど眠れていない。
そのことをレジーナから聞いたオロス先生から、多少は服用するようにと睡眠薬が渡されていたものの、それを飲んでも悪夢を視ないというわけではなかった。
毎晩のように魘される私のせいで、きっと同室のレジーナには、迷惑をかけていることだろう。
けれど、その心配も今日で終わる。
(……今日で、この寮ともお別れね)
否、この学園というのが正しいだろう。
そう。私は明日、実家に帰るのだ。
理事会からの事情聴取を終えて、授業を受けるために教室へと向かった私を待っていたのは、学園内に流れていたとある噂だった。
『婚約者がいるにも関わらず、他の男と密会していたんだって?』8
『しかも、密会場所はあの《秘密の庭園》だったんでしょう?』
『でもあの人、精霊の加護がないんじゃなかった?』
『相手の男から、《言霊》が込められた指輪を貰ってたらしいぜ』
『ちょっと、それは、もう……』
『じゃあ、彼女が怪我していたのは……』
『痴情のもつれなんじゃね?』
〝婚約者がいるにも関わらず、他の男と密会をしていた、フシダラな令嬢〞。
私にはそんなレッテルが張られており、以降は皆、腫れ物を扱うように、よそよそしく接してきたのだ。
けれど、私は故意か悪意か耳に入って聞かされるそれらの噂を、どれひとつとして肯定も否定もしなかった。
誰であったとしても、彼との約束を破るつもりはなかったから。
そうやってすべてを沈黙で過ごす私の居場所が学園からなくなるまで、さして時間はかからなかったように思う。
そして精霊感謝祭から約二週間後。
学園の理事会が私に下したのは、無期限の停学処分だった。
学園の風紀を乱す存在。私はそう判断されたのだ。
加えて学園理事会の総意で、私は実家の迎えが訪れるまでのこの一週間、謹慎という名目で寮から一歩たりとも外へ出ることを禁じられていた。
そしてそれもあと一日。今日がこの学園で過ごす最後の日となる、という訳だ。
(……明日、実家に戻るから、あんな悪夢を視てしまったのかしら?)
胸には不安しかなかった。
元々、アビゲイルを避ける目的でこの学園に入ったのだから、彼女がここにいる今、方法論として実家に戻ることはあながち間違いではないのだけれど。
けれど、だ。
私が椅子に腰掛けながら窓の外を眺めていると、不意に扉からノックの音がした。
「どうぞ……?」
寮母のクレスだろうか。朝食のお盆は廊下に下げていたはずなのに、わざわざ声をかけてきた?
首を傾げて返事をした私の視界には、かつての担任の姿があった。
「スプリング」
「オロス先生……」
今は、ちょうどHRが終わった時間のはず。
授業の準備があるだろうに、オロス先生はわざわざ私の許へ訪れ、心配の声を掛けてきたのか。
「また寝付けなかったそうだな」
その口調は、推論ではなく断定で告げられていた。
(レジーナったら……)
彼女には脱帽だ。彼女のような親友とは、もう二度と出会うことはないだろう。
「はい。いただいた薬は飲んだのですが、夢見はどうしようもなくて……」
「そうか」
そう短く答えた先生は、その漆黒の瞳を刹那瞼に閉ざすと、これまで何度も訊かれた問いを、もう一度私へ口にした。
「……何も、言うつもりはないんだな?」
私は僅かに微笑んで、もう何度もした回答でそれに答える。
「はい。お話しすることは、何もございません」
クライドは殿下への殺意だけでなく、私へ向けた刃を最後の最後で踏み止めたのだ。
だからどんなに貶められようと、あることないことで騒ぎ立てられようと、私があの日あの場で交わした誓いを破ることはない。
例えクライドの命の恩人である先生でも、それは同じだ。
先生は小さく息を吐くと、ぽつりと呟いた。
「お前たち姉妹は、そういうところがよく似ている」
「愚妹共々、ご迷惑おかけいたします」
レジーナから、私の停学処分を取り消すようにと、数名が理事会に掛け合っていると聞いていた。その中には、アビゲイルもオロス先生もいたのだそうだ。
先生はかつての担任として、私は噂にあるような生徒ではないと、強く証言してくれたらしい。
「……ああ」
そして先生は別の話題を口にする。
「スプリング侯爵家から、明日の朝には迎えを寄越すと言伝てがあった。支度は……もうしているようだな」
「はい。大方は」
部屋の隅に纏めていた私の荷を見て、先生は僅かに頷き、学園の校舎へと戻って行った。
先生の伝言通り、翌日の朝一には、実家からの迎えの馬車が寮の前へと寄越されていた。
そして午前中には侯爵邸に着き、私は馬車から降りたその足で、真っ直ぐに父の書斎へと通される。
平日であるにも関わらず、父は邸にいるとのことだった。
(……当然と言えば、当然ね)
きっと、今よりお父様から向けられるのは、これまでの比にはならないくらいの冷たい視線と言葉なのだろう。
「失礼します」
震える手をもう片方で支えながら、執務室の扉のノブを握った。
小さい頃に何度か訪れたことのある父の書斎は、相変わらず壁際の本棚と蔵書が多いと感じる。
そして部屋の奥――執務机と椅子の後ろにある窓の際に、お父様は静かに立っていた。
私は部屋の真ん中へ歩み出て、深々と頭を下げる。
顔を上げてお父様のその鋭い藍色の瞳と視線を合わせるのが、怖くて怖くて堪らなかった。
「エイヴリル。顔を上げなさい」
低い声に名前を呼ばれる。
「……はい。お父様」
上半身を起こして閉じていた目を開けると、私のことを静かに見つめる父の顔があった。
一瞬か、永遠かわからない沈黙。
先に口火を切ったのは、お父様の方だった。
「……先日、陛下より宮廷へ召喚があった」
私の胸に緊張が募っていく。
けれど、大方予想はついていた。
きっと、つい一ヶ月ほど前に、この場でお父様から言われたことと正反対のことを言われるのだろう。
「今回の一連の騒動を理由に、お前とギディオン殿下との婚約を白紙に戻したいとのことだ。……異論はないな?」
あっても言わせない。そんな口調だった。
私は一度目を伏せて、それに答える。
「……承知、いたしました」
窓に顔を背けたお父様からは、ぽつりと言葉が落とされた。
「……お前には、期待していたのだがな」
「……っ」
一族の面汚し。
役立たず。
親不孝者。
誰のどんな罵倒の言葉より、お父様のその一言が一番私の心に堪えた。
詰るでも、責めるでもなく、失望したという事実。
何も言えない私に目すら寄越さず、その背中から父の声が向けられる。
「しばらくは、本邸で過ごすように」
「……畏まり、ました……」
私は振り向いて、執務室から退室しようと再びドアノブに手を伸ばした。
そうだ。本邸の部屋のものは、前に離れに移してしまったから、離れへ戻って最低限必要なものを取ってこないと。
けれど、私がドアノブに触れた時、不意にお父様の声が聞こえた。
『お前よりも、アビゲイルの方が殿下には相応しいからな』
「え?」
その言葉を聞いた途端、全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。
振り向いてお父様の方を見ると、その眼差しと目が合った。
「……どうかしたのか?」
訝しげに私を見る父の視線と目が合った。
「……いっ、いえ……」
私は首を横に振り、逃げるようにその場から退出する。
執務室から少し離れた廊下の角で、私は全身の震えを止めるためにしゃがみ込んだ。
(今のは、幻聴、なの……?)
はっきりと聞こえた声は、間違いなくお父様のものだった。
けれど、もし本当に先ほどの言葉が父のものだったとして、私にはそれを確かめる勇気もなければ、受け止められる気もしない。
(……悪夢の続きを視ているのかもしれないわね)
白昼夢という言葉もあるのだし。
私は自分に、寝不足の頭かもたらした夢だったのだと言い聞かせて、一人離れへ向かうことにした。




