第7話 「感触? ブニャってしたよ。ブニャ!」
しばらくして、母娘の家は一旦の落ち着きを見せる。
ベッドの上で味噌湯を啜るタルト。横目で彼女の様子を窺うのは、少し離れた木製のテーブルに座る稲豊たちだ。
「本当に……本当にありがとうございました!」
感謝の言葉を少女の母から告げられる。「いやいや」と頭を振りながら謙遜する稲豊と、惜しみない賛辞をおくる初老の男とその息子。もう何度目かも分からないやり取りだった。
「あの状態からの回復なんて信じられない……。あのスープは大したものだな」
「そうそれだよ! あのスープはこの村の食材でもできるのか?」
「いや……アレを作るにはこの味噌が必要なんだけど、これは貰い物だから。それに、俺は味噌の作り方までは分からないし……」
味噌が手に入らないと知るやいなや、ガックリ肩を落とす親子。
しかし、こればっかりは稲豊にもどうしようもない。そもそも、なぜ味噌湯で回復したのかも稲豊にはよく分からないのだ。
『親父が変な薬でも入れてたんじゃないのか?』と首を捻るが、その場合“神の舌”が見過ごすはずもない。
「では、誰から貰った物かだけでも教えてもらえないだろうか?」
「え、えーと…………」
父からと伝えるのは簡単だが、もしそう答えても、次の質問は「今どこにいる?」となるに決まっている。途端にしどろもどろになる稲豊だったが、それも長くは続かなかった。なぜなら町民の若い男が、母娘の家に飛び込んできたからである。
「オサ! 『ターブ』の奴が来た! 匂いを嗅ぎつけて来たらしい、すぐそこまで来てる!」
息を切らし話す男の顔は、見るからに青かった。
報告を聞いた初老の男『オサ』は、苦虫を噛み潰したような顔をして嘆息し、心の底から不快そうに言った。
「やれやれ……またか。ずいぶんと鼻の利くことだな……」
何が起こったのか理解できない稲豊を置いて、重い腰を上げるオサとその息子。ふたりは無言で家を出ていく。オサたちの背中を見送ったあとで母娘に視線を走らせると、少女と母は怯えるように身を寄せ合っていた。
「………………なんだってんだ?」
招かれざる客の襲来。この場で理解できるのは、そこまで。
好奇心か正義心か、稲豊はとりあえず外に出てみることにした。人間同士、非人街の住民と奇妙な縁を感じていたせいかもしれなかった。
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「人間の分際で、このオレ様に楯突くってのか?」
「滅相もない! これはですな、死にかけていた童を心の優しい旅のお方が――――」
「理由なんざ訊いてねぇ! 出すのか出さねぇのかって訊いてんだ!!」
母娘の家を出た稲豊の目に飛び込んできたのは、そんな見るからに不快なやり取りだった。繰り広げているのは、オサと一匹の人外。稲豊はその魔物の顔に見覚えがあった。
「忘れちゃいねぇぞ? 前もお前らは隠れてウメェもんを食ってやがった。あんときも言ったはずだぜ、キサマらみてぇなゴミがオレ様より美味い物を食うのは許さねぇってよ。分かったらその家の食いモンと、作った奴を差し出せ! さっさとしろ!!」
「し、しかしもう食べ終わったあとでしてな……今日のところは……」
「ああ? オレ様の鼻に、そんなウソが通じるとでも思ってんのか! どうやら……痛い目をみねぇと分からねぇようだな」
大きな鼻をふがふがと鳴らしながら、オークは両の指を鳴らす。
オサと並べば、大人と子供ほどの体格差があった。そんなオークに対抗できるわけもなく、オサはただひたすら許しを乞う。そのすぐ後ろでは、オサの息子が歯痒さから顔をしかめていた。遠巻きに見守る住民たちと同様、己の無力さと魔物の横暴さを呪うことしかできない。
ここまでの会話で、稲豊は自分が完全な当事者であることを知った。
『なら答えはひとつだ』
心のなかで呟いた稲豊は、『自らが撒いた種だ』と足を踏み出す。逼迫したこの状況で、後先など考えている場合ではなかった。
「俺が作ったんだよ、豚野郎」
ふたりの間に割って入る稲豊。
当然というべきか、オークは血走った目を稲豊へぶつける。
そう、このオークは異世界に辿り着いた初日、酒場の前でぶつかったあのオークである。それが分かったのは、稲豊がその醜悪な声を忘れていなかったからだ。
「俺様はオークだ! 牙も持たねぇブタと一緒にするんじゃねぇ!」
「何なんだよそのプライドは? 人の役に立たねぇぶん、豚以下だよてめぇは」
本人とっては譲れないものがあるらしく、激情を露わにするオーク。軽口を叩く稲豊だが、巨体の生み出す威圧感は凄まじいものがある。『飛び掛かられたら一溜りもないな……』と内心では肝を冷やしていた。
「あん?」
そのとき、大きな鼻が何かを探るようにヒクヒクと動きだす。
数秒後、オークはハッと顔を上げた。
「覚えてるぜてめぇの匂い! 酒場の前でぶつかった奴だな。あのときてめぇは、この檻から出てうめぇもんを調達中だったってわけか!」
「食いもんのことしか頭にねぇのかよ。外見も汚ねぇけど、内面まで意地汚ねぇのな。……豚野郎」
「オレ様は【ターブ】様だ!! ブタと一緒にしてんじゃねぇぇ!!!!」
怒りが頂点に達したオークのターブは、顔を真っ赤にして丸太のような右腕を振るった。
だがそれを予期していた稲豊は腕を掻い潜り、非人街の外に向けて全力で疾走する。ターブが激昂するのも、稲豊の計算の内だった。注意を自分ひとりに向けさせることにより、できるだけこの場から引き離そうと考えたのだ。
だがしかし、稲豊は知らなかった。
本気になった魔物の、本気の身体能力を。
「――――なっ!?」
「よぉ……遅かったじゃねぇか?」
中央広場に差し掛かったところで、稲豊は絶句した。
後方を走っていたはずのターブが、目の前で仁王立ちしていたのだ。
腕力では無理でも、足の速さなら負けないだろう。そんな根拠のない推測は、嘲笑するターブの前で砕けて散った。
『魔物って……こんなに速えの……?』
心の中で愚痴をこぼしたのも束の間、巨大な右手が稲豊の首を鷲掴みにする。その指は万力のように強く、稲豊が全力で暴れてもビクとも動かない。
「けっ! お話にもならねぇな人間。魔物との差を理解できたか? ああ?」
「…………ぐッ……!」
嫌な笑みを浮かべながらじわじわと指に力を込めるターブ。その右手が全力を発揮すると、人間の首など瞬く間に折れ、容易にひしゃげるに違いない。
「これが最後の命令だ。食いモンを差し出せ!」
『たかが味噌だ差し出してしまえ』と考える自分と、『これがあれば誰かの命を救えるかもしれない』と思う自分とで、稲豊の心が揺れ動く。
その心の天秤は、やがて片方に傾いた。
「…………わ……かった……差し出す……」
「よしよし。それで良い」
ターブは口唇の端を歪め、劣悪に破顔する。
そして、その右手をゆっくりと離した。
稲豊は喉を右手で押さえ嘔吐き、重心を失ったように猪男の方へとよろめく。その様子を見て、ターブはさらに口角を吊り上げた。
ようやく追いついた住人たちが、遠巻きに悲痛な表情を向ける。
「……………………へ……」
そのとき、ターブはたしかに見た。
先ほどまで呼吸すら満足にできていなかった男が、自分以上に醜悪な笑みを浮かべている姿を。ターブが戦慄を覚えた、次の瞬間――――――
「かかったな豚野郎ぉ!! 必殺! 金破壊拳!!!!」
「ギャアアアァァアアァァアアッッ!!!!????」
数瞬のちに絶叫し、前のめりに倒れるターブ。
それもそのはず。弱っているように見せかけ近づいた稲豊は巨体の下腹部、すなわち睾丸に向け、渾身のアッパーカットを放ったのだから。
悲痛な視線を稲豊に向けていた街の男連中は、今度はターブへ同情の眼差しを送った。
「へっ! 差別主義者が! 死んでもテメェに俺の食いもんは譲ってやんねぇよ!! 命を大切にしない奴が俺は大嫌いなんだ!! 死ね!!」
「オ、オレのムスコの命を奪っておいて……どの口が言ってんだ…………グォォ」
一矢報いてやったと、この上なく満足気な表情を浮かべる稲豊。
自分ひとりならこの好機に逃げ去るところなのだが、いまはそうもいかない。復活したターブが周りの住人たちに当たり散らさないとも限らないのだ。これでこのオークに殺されたとしても、冥土への土産話はできた。
稲豊は非力な人間ゆえの覚悟を決める。
「覚悟は……できてる……ようだな」
ようやく痛みの引いてきたターブが、よろよろと立ち上がる。
両の瞳には、隠しもしない殺気が宿っていた。
稲豊の背中に、冷たい汗が走る。
最大限の抵抗を示すつもりではあるが、勝率は限りなくゼロに近い。
「行くぜぇっ!」
ターブが前傾姿勢になり、片足で土を掻く。
数秒後にはその巨躯が弾丸の如く射出され、稲豊の身体は塵芥の如く空に舞い上がるに違いない。全身の骨が砕ける未来を想像し、稲豊の喉がごくりと鳴った。
次の瞬間――――
「なかなか面白い余興ではあるが、しばし待て」
突如かけられた声に、対峙するふたりはタイミングを逃し、変な格好のままで固まった。
声の方に視線を走らせると、黒のローブで全身を覆った、見るからに怪しげな人物が佇んでいる。ローブで分かり難いが、体格は小柄で、背も稲豊より少し低い。目に見えていた勝利にお預けを喰らったターブは、憎々しげに口を開いた。
「誰だてめえは、邪魔すんじゃ
最後まで言わせない。
ローブからすぅっと覗いた白く細い指が光ったかと思うと、指先から白い閃光が迸る。閃光は瞬く間にターブの腹部を通り抜け、その遥か後方の大木にまで到達した。
「あ?」
何が起きたのか分からないふたりは、閃光の通り抜けたターブの腹部へと、同時に視線を走らせた。ふたりの視線の先で、親指大の穴がぽっかりと口を開いていた。入り口に白い脂肪が覗き、その奥に桃色の腸があり、背後の風景さえも垣間見える。
しかしそれも一瞬のこと。
穴をすぐに鮮血が満たし、夥しい量の血液が、腹と背中の両側から溢れ出す。慌てて両手で穴を塞ごうとするターブだったが、そんなもので塞げるはずもない。指の隙間からこぼれた血は、地面を赤く染め上げていく。
「あぎっ……グブ……!」
何が起こったのかも分からないまま、ターブは音をたてて崩れ落ちる。
先ほどまで醜悪な笑みを浮かべていた口は、溢れる血でいっぱいになっていた。
「…………ま、まじで?」
目の前で虫の息になっているオーク。
稲豊は良い印象など持っていなかったが、重傷を負い息も絶え絶えになってるその姿は、先刻までの力強い姿とはあまりに遠かった。まるで生き物としての尊厳を奪われたようで、哀れみさえ感じてしまう。
「待てと言った」
黒ローブは冷たく簡潔に言い放つと、地面に伏せるターブには目もくれず、血溜まりを避けるように歩いた。そして、稲豊の目の前で歩みを止める。
再び稲豊の喉が鳴った。
もしこの人物の機嫌を損ねたら、何をされるか分からない。
緊張に支配された稲豊の体は、完全に凍りつき動こうとはしてくれなかった。
「――――――ふむ」
黒ローブは稲豊の頭から足先までを舐めるように見回したあと、すんすんと鼻を動かし、匂いの確認まで始めた。そして一通のチェックを終えると、
「間違いないな」
と、ひとこと口にする。
当然ながら、稲豊には何のことやら分からない。
だが蛇に睨まれた蛙のように、いまだ体は硬直したまま。
しかし、黒ローブの次の行動で、心臓だけは早鐘の如くビートを刻んだ。黒ローブがいまいちど、細い指先を覗かせたのだ。
「ひっ!?」
光線が放たれると思った稲豊は、とっさに目を瞑った。『どうせ死ぬなら、痛くないようにして欲しいな……』そんな卑屈な考えが、走馬灯と共に脳裏をよぎる。
だがいくら待てど暮らせど、体に痛みは訪れない。やがて痺れを切らした稲豊は、チラと薄目を開ける。するとそこには、予期していない光景が広がっていた。
「――――自信作壱号?」
目を開いた稲豊の前には、空になった青のタッパー。
それを差し出しているのは、紛れもない黒ローブだ。細くしなやかな白い指は閃光を放つためでなく、このタッパーを見せるためだった。
「な……なんだ」
相手に殺意がないことを理解した稲豊は、安堵の吐息を漏らした。
そして再び、差し出された物に目を向ける。この異世界に、タッパーはあまりに不釣り合い。色といい形状といい、それは稲豊が持参してきた物に違いなかった。
青い蓋に入っていたのは自信作壱号。
路地裏でなくしてしまった、あのタッパーである。
「あ……ああ、拾ってくれたんすか? さ、探してたんすよ! 見つけてくれてありがとうございます。中身が残ってれば、尚のこと良かったんすけどね。ハハハ……」
精一杯の友好的な笑みを浮かべ、わざとらしく頭を掻きながら、タッパーを受け取る。本当はそのまま去ってしまいたかったが、この黒ローブの放つ異様な覇気がそれを良しとしない。目を逸らすことのできない、何とも言い難い威圧感があった。
「中身は食った」
「そ、そうなんすか……。お口に合ったなら、何よりすけど……。ハハハ」
自信作を食べられ、居心地の悪いオーラをぶつけられながら、なぜ乾いた笑みを浮かべなければならないのか? しかも、視界には瀕死のオークまで見えているのだ。
『もうお家に帰りたい』
稲豊の心は泣いていた。
「中身は貴様が作ったのか? 料理の名は?」
しかし黒ローブは会話を終わらせる気がないらしく、質問を重ねてくる。機嫌を損ねるわけにもいかないので、『答える』以外の選択肢はありえない。
「え、ええ。作ったのは、いちおう俺です。えっと名前は『そぼろ味噌大根』っ……て言います」
「――――――ほう? 聞いたこともない名じゃな」
黒ローブの中から、赤く鋭い眼光が光る。
息を呑む稲豊の下に、誰かが駆けてくるのが見えた。やたら足が速いその人物は、黒ローブのすぐ後ろで止まり、開口一番に報告を開始した。
「確認しました。この者はこの先の民家で、未知の料理を作っていたそうです。なんでも、弱った少女を復活させるほどの料理だったとか」
背筋をピンと伸ばし、輝く金髪から伸びた一対の犬耳。
稲豊が路地裏で遭遇した、あの金髪美女がそこに立っていた。思いがけない顔見知りの登場に安堵するのも束の間、次の黒ローブのひとことで、稲豊は戦慄する。
「確保」
犬耳の美女はその言葉を聞くや否や、稲豊の背後にあっという間に回り込み、稲豊をヒョイと脇に抱える。まるで重さなどまったく感じていないほどの、驚くべき怪力である。
「えっ!? ちょ、ちょっと!?」
困惑し両手足をバタつかせる稲豊の前で、黒ローブはフードの部分を後ろに反らし、隠れていた頭部を露わにする。
するとそこには――――
「……………………へ?」
稲豊は一瞬、息をするのも忘れて見入る。
それほどまでに、フードの下の顔は美しかった。
日光を受け輝きを放つ、顎先ほどの長さの白髪。揃った前髪の下から覗く眉も、その下の双眸にかかる長い睫毛も、全てが美しく透き通る白色である。瞳はルビーを彷彿とさせる美しい緋色で、肌はきめ細かくまるで陶器のよう。
年齢は稲豊とそう変わらないが、纏っている覇気はとても歳相応ではない。
『――――悪魔的な美しさだ』
まるでこの世の者だとは思えない。
そんな感想が浮かんだところで、稲豊は自分が異世界に来ていたことを思い出した。
白髪の少女が放つ次の言葉を、のちの稲豊はこう振り返る。
『あの言葉がなかったら、今の俺はいなかった』――――と。
彼女の言葉はふたりの運命を大きく動かすことになるのだが、
「貴様を我が屋敷の料理長として雇ってやる! 拒否は認めん。なぜなら、妾の名は『ルートミリア・ビーザスト・クロウリー』。この国の魔王である!」
そのことを、現在の稲豊が知る由もなかった。