第80話 「困った時のイナえもん」
非人街での楽しい時間を過ごした後で、惑乱の森の主に食糧を渡してから屋敷に戻った稲豊達。ミアキスやナナの喜ぶ顔も見れ、本来なら一日ご機嫌なはずだった稲豊だが、現在進行形で彼の表情は明るくない。
不思議な少女との出会いが、彼の一日を狂わしたのだ。
夕食の時間。
ナナがアドバーンやルトに今日の出来事を楽しそうに話している声を聞き流しながら、稲豊はあの少女の事ばかりを考えていた。
魔族がどうして非人街へ?
そして何故、自分の事を知っている?
少女が良く非人街へ来ているのなら、稲豊の名前を知ることは難しくないだろう。だがあの後。稲豊が街の者に少女の事を尋ねた際には、皆が揃えて首を左右に振った。
「……わっかんねぇなぁ」
「どうした? 少年」
「いえいえ! 何でもないっす!」
心配して声を掛けるミアキスに悪いと感じた稲豊は、無理矢理に笑顔を作って鶏のソテーを頬張った。しかし、感情に敏感な人狼を騙せるはずも無い。ミアキスは自身の手元に視線を落とし、暫く考え込んでから、意を決したように口を開いた。
「姫。食事中に申し訳ありませんが、お願いがあります」
「ほう?」
簡素に告げたミアキスだが、彼女が頼み事をするのは珍しい。
加えてその表情も真剣そのもの。ルトはナイフとフォークを一旦置いてから「申してみよ」と、騎士に負けずとも劣らない真面目な顔で言い、ミアキスの次の言葉を待った。
「十日程の休暇を頂戴出来ればと……」
騎士として屋敷に務めてから、ミアキスが休暇を申し出るのは初めての事である。
「ふむ」
コレには然しものルトですら、驚きの表情を浮かべた。
それは勿論彼女だけでなく、周りにいる他の使用人達も同じこと。感情の読み難いアドバーンでさえ、髭を弄りつつ頬に汗をかいている。
「理由を訊いても構わんかの?」
当然の如く理由を尋ねるルートミリア。
するとミアキスは静かだがはっきりとした声で、己の心の内を明かした。
「魔王様に拾われ、この屋敷に務めて四年。我の心の弱さが顕現した“悪夢”。時が解決してくれるだろうと安易に考えていましたが、現実はそこまで優しくなかったようです」
物憂げな瞳のミアキスは、自虐的な笑みを浮かべる。
彼女にそんな顔をさせたのは、自分自身に対する『失望』であった。
夢で自分を見失う度、ルトには魔法で助けて貰い。
休んだ時に仕事があれば、それはナナやアドバーンが尻拭い。
そして今回の稲豊がそうしたように、皆に気まで遣わせる。
ミアキスは今の自分に対して、憤りさえ感じていたのだ。
「これから先。姫が魔王を目指し続けるのであれば、必然的にその生命を狙う輩も出て来ます。その時に必要なのは“心強い”騎士でなくてはいけません。今の我では……姫の側に立つ資格が無いのです」
「そんな!?」
騎士の零した告白に、ナナは悲壮な声を上げる。
「ミアキス様は強くて優しくて、いつも皆様を助けてくれます! それは皆様に必要ってことで、あの……ナナも力の限りお手伝いしますから! その……」
『ミアキスが屋敷から居なくなってしまう!』
そう考えたナナは、狼狽えながら必死に言葉を紡ぎ出す。
その表情は今にも涙が零れそうだ。
「だからその……資格とかじゃなくて……! い、イナホ様ぁ~!!」
自分の説得力の不足を感じたナナは、遂には稲豊へと泣きついてくる。
暴言少女の後とは逆の立場になった二人。
「よしよし」
あの時少女がそうしてくれたように、優しく抱きしめ返した稲豊。
彼はナナの頭を撫でながら、諭すような口調で言った。
「大丈夫だよナナ。ミアキスさんは『今の我では』、そう言ったんだ。それに申し出たのは“休暇”。退職じゃない」
「……へっ?」
稲豊の言葉できょとんとした表情に変わり、涙目をミアキスに向けるナナ。
そこで少女が見たのは、バツが悪そうに頬を人差し指で掻く人狼の姿だ。
ミアキスはナナに「すまなかった」と謝罪し、申し訳無さそうな顔を浮かべる。
「どうやら誤解を与えてしまったようだな。姫の騎士を辞めるつもりなど毛頭ないさ。我が言いたかったのは、今のままの自分ではいけないということだ。この悪夢を払拭しなければ我は前に進めない。だから休暇を申し出たんだ」
「な、な~んだ! ナナの早とちりだったんですね!」
心の底からほっとした声を出したナナは、安堵の表情で自分の席へと戻って行く。そしてニコニコ顔でスープを一口啜った。
「ですがミアキス殿。その十日間で、如何なさるおつもりで? 貴女が悪夢を克服する為に、この四年間であらゆる方法を取っていた事は存じております。しかしながら、それでも結果は思わしくない御様子」
「ふむ。一度全く寝ずに過ごそうとしていた時はさすがに止めたが、今度はどういった手段を講じるつもりじゃ? 今までと違い、自信があるように見えるが……」
アドバーンとルトの問いにミアキスは、彼女にしては珍しく大きな息を吸い込む。そして、その金色の双眸に決意の光を宿して、人狼はおもむろに口を開いた。
「我が故郷に――――里帰りします」
ミアキスの発言に、稲豊は昨日客間での会話を思い出していた。
同種族で行動を取る人狼が、群れから離れている理由。それはきっと、彼女の悪夢に関係している。稲豊は直感的にそう思った。そしてそう感じたのは、少年だけでは無い。
「……故郷に原因があるのだな?」
稲豊と同様な考えを持ったルートミリアの言葉に、ミアキスは黙って首を縦に振った。大切な仲間を蝕む、“敵”とも言える“悪夢”。それを克服しようというのなら、許可を出さない理由もない。ルトは神妙な面持ちで口を開く。
「よい。十日と言わず、幾らでも休暇をやる。じゃから、自分自身と向き合って来るのじゃ。妾は成長したお前を待っておるぞ?」
「は! 有り難きお言葉。必ずや強くなって戻って参ります。暫しお待ち下さい!」
ミアキスは主に深々と頭を下げ、トラウマの克服を誓う。
そして姿勢を戻した彼女の顔に、稲豊はある種の覚悟のようなものを感じた。
「出発はいつ頃ですかな?」
「明日準備をして、明後日の朝にでも。出来るだけ早く片付けたい問題ですので」
「ミアキス様の故郷は遠いんですか?」
「ああ。エデンとの国境付近にある森の中だ。ここからだと……私の脚で三日三晩走り続ければ辿り着ける」
さらりと語るミアキスだが、その内容はかなりハードである。
例え鍛錬が得意な彼女と言えど、三日三晩寝ずに走るのは相当堪えるものに違いない。そう考えたルトは、ある提案を持ち掛ける。
「そんな方法では、疲弊して目的を果たすにならんじゃろ? 妾達の事は構わんから、素直にマルーを連れて行け」
「屋敷にいる一頭だけの猪車を? しかし――いや、承知しました。有難く拝借させて頂きます」
ルトは一度言い出した事を撤回することは殆ど無い。
その性格を知っているミアキスは、再び頭を下げて感謝の言葉を述べた。
「うむ! 猪車の事なら気にするな。最近手に入った“足”があるのでな」
小悪魔的な笑みを浮かべるルートミリア。
その意味を察した三人は苦笑し、理解してないナナだけが小首を傾げ、この日の夕食は終わりを告げた。
:::::::::::::::::::::::::::
夕食後。
稲豊は一人厨房に立ち、食器洗いに従事していた。
「明後日か……」
ミアキスの器を手にした稲豊は、自然とそんな事を呟いている。
もしかしたら、当分の間この器を手にする機会も無いのかも知れない。そう考えれば、隙間風のような寂しさが彼の心を通る。
だが、稲豊がそんな感慨に耽る時間は長くは無かった。
「イナホ殿」
「うわっ!? どっから出てきてんだアンタ!?」
スライド式の食器棚から突如出現するアドバーン。
彼は稲豊の驚き顔を堪能した後、眉を顰めて少年の前に立った。
「実はイナホ殿にお願いがあるのですが」
「驚かされたのでもう既に断るつもりですけど。それでも良ければ仰って下さい」
「かたじけありません……」
陽気な登場とは違う重い雰囲気を纏ったアドバーンに、稲豊も食器洗いを一時中断して、老執事の言葉に耳を傾ける。
「お願いと言うのは、ミアキス殿の事で御座います」
「ミアキスさんの?」
「ええ」
老執事の意外な願いに、稲豊は表情を真剣なものへと変えた。
「突然で申し訳無いのですが……。ミアキス殿の里帰りに、イナホ殿も同行しては頂けませんか? そして出来れば、彼女を守って頂きたい」
「守る?」
稲豊よりもずっと強いミアキス。
それを何から守るというのだろうか? 稲豊は何かの冗談かと思ったが、アドバーンにふざけている様子は全く見えない。それが余計に少年の頭を混乱させた。
そんな稲豊の様子を察したアドバーンは、彼にも分かるように説明を始める。
「四百年生きてきた中で、私めは多くの経験をしてきました。幾度と無く戦場にも足を運びましたし、沢山の死に行く仲間を見てきたので御座います。そしていつからか、そんな者にしか分からぬ“勘”のようなモノが働くようになったのです」
「勘……スか?」
「ええ。根拠もないただの勘です。夕食の時からその勘がずっと告げておるのですよ。今回ミアキス殿が一人で旅立った場合…………『彼女は二度と帰って来ないだろう』と」
アドバーンの告げた言葉に、稲豊は尋常ではない恐怖を感じる。
親しい者を失う感覚。あれを再び味わう事など、絶対にあってはならない。少年の心が理性を押し切り、悲痛な叫び声を上げていた。
「私めが行ければ良いのですが、それではお嬢様の護衛が居なくなってしまう。ですので、恥を承知でイナホ殿にお願い致します。どうか!」
「あ、頭を上げて下さい! 大丈夫です。断ったりしませんから! さっき断ると言ったのは嘘です!!」
「い、イナホ殿!!」
「アドバーンさん!!」
ひしと熱い抱擁を交わした少年と老人。
二人は今ここに、『ミアキスの生命を守り隊』を結成したのだった。




