第6話 「喉が乾いた時に食べるビスケットの恐ろしさ」
小川の隅に置いたままになっていた料理鞄を拾い上げ、何を作るのかを考える。
「…………さっき貰った芋もどきはあるけど」
いやダメだ――と稲豊は頭を振る。
あれほど弱っている人間、それも少女が、飲み込みにくい芋を口にできるとは思えない。潰して食べやすくしたところで、絶対かつ確実に喉に詰まるだろう。
しかしそれを言ってしまえば、いまの少女に嚥下できる食材があるとは思えない。それはこの世界だからという意味ではなく、衰弱した少女が口にできる物など、元の世界にだってあるかどうか怪しいものである。
「スープなら」
固形が無理なら液体。
そして、大きな具を入れるのはご法度。
具の入ってない、或いはそれを取り除いたスープに限定するほかなかった。
「問題は何のスープにするかだな……」
芋もどきは問題外。
強烈な苦味をなんとかしないと、スープとて飲めた物ではないだろう。『この世界の人間なら或いは』と考えた稲豊だが、日常で啜ってるスープに、劇的な効果があるとはどうしても思えなかった。
時間があれば食用の草を集めることも可能だったふぁ、いまは一刻の猶予もない。
「考えろ考えろ――――――考えろ俺!」
早くて美味かつ、簡単に用意できるスープ料理。
「カップラーメン! って馬鹿か俺は!! そんな物はこの世界にない……それになんでラーメンなんだよ! そこはカップスープ…………っ!?」
稲豊はそこまで口にして、てハッと面を上げた。
何かが記憶の底を刺激する。再び脳細胞を総動員した少年は、さらに深く深く思考した。
「カップラーメン……カップスープ……二つの共通点はなんだ? それは当然、お湯を注いでかんた……んに…………!」
――――――ある。
『ある!! ある!! ある!!』
稲豊は心の中で、叫び声を上げた。
叫ぶと同時に稲豊は風になる。
気怠さなどは吹き飛ばし、干し肉の入っていたタッパーに小川の水を掬うと、今まで出したことのない速度で母娘の家を目指した。
「どうした?」
戻った途端に、初老の男からの視線が注がれる。
息を切らす稲豊は、傍から見れば異様に見えなくもなかった。
「味噌汁を作る」
「…………ミソ?」
少年の口から出た見知らぬ料理に、初老の男は首をひねった。しかしいまは、問答の時間すらも惜しい。一直線に台所に向かった稲豊は小さな鍋を見つけだし、その中にタッパーで掬った小川の水を流し込んだ。
『自分に何が出来るのか?』
そこから導き出した答えが、家を出る前に父から押し付けられた『最強味噌』を使うことであった。思い出すまでその存在を完全に失念していたのだから、まったくもって救えない。
これをもっと早く思い出せていれば、ある程度の栄養を補給できていたはず。稲豊は自分のバカさ加減に辟易とした。さらに言えば、それを生死の境を彷徨っている者に飲まそうと考えているのだから、馬鹿に拍車が掛かっている。
しかしこのときの稲豊の脳内は、少女との約束でいっぱいになっていた。まるで誰かに導かれているような感覚で、稲豊は少女のために体を動かす。
「火……おっさん! 火はどうやって点ける!」
もちろんこの家に、家電製品やガスコンロはない。
だが外で火を起こしている形跡はどこにもなかった。
稲豊にとって不思議なのは、石で造られた台所だ。
元の世界で言うならコンロの位置に、拳大の穴がぽかんと口を開いている。何に使う穴なのか想像できず首をひねる稲豊だったが、その謎はあっさりと明かされた。
「火の起こし方も知らんのか? こうだ」
初老の男は棚にある籠から赤い石を取り出すと、それを躊躇なく謎の穴に投げ入れた。すると穴から、指先ほどの炎が顔を覗かせる。赤い石が穴の奥で弾け、火を放っているのだ。
「うっし!」
水の入った鍋を火にかける。
本来なら出汁を取りたいところだが、生憎そんな食材も時間もない。
ただ味噌を湯に溶くだけの味噌汁……もとい味噌湯。それがいまの稲豊にできる、全力の料理だった。
水の温度が上がってきたのを確認し、料理鞄から味噌の入ったプラスチック容器を取りだす。少量舐めて成分を確かめれば、願ったりな出汁も一緒のタイプだった。稲豊は父の仕事ぶりに感謝すると同時に、自身の体に父の力が流れ込んで来るような錯覚を覚えた。
「最強味噌なんだよな? だったら……子供一人ぐらい笑顔にして見せろよ!」
祈るような気持ちで、トングに乗せた味噌を菜箸で溶かしていく。
あとは沸騰する直前に器に移すだけ。正直なところ、コレは料理と呼ぶのも痴がましい作品である。手抜き以外の何物でもないだろう。
過去に父が作った料理を『手抜きだ』となじったこともある。
悔しく、情けなく、みっともない。稲豊が噛んだ口唇からは、鉄の味がした。
「良い匂いだな」
誰かの声で、稲豊はとうとつに現実に戻される。
振り返ると、初老の男とその息子が並び立っていた。奥からは、母親の視線も感じる。
「あ、ああ……。いまできた」
完成した味噌湯を深めの皿に移し、木のスプーンと一緒に少女の前に運ぶ。母親は心ここに在らずといった様子で、虚ろな目で成り行きを見守っていた。
ベッドの上の少女へと、視線を落とす稲豊。
耳を澄ませても、もうその声は聞こえない。
「………………何やってんだろ……俺」
この行動になんの意味があるのか?
自問自答しながら、稲豊はスプーンの中の味噌湯に息をかけた。
そして少女の小さい口内に、温くなった味噌湯を流し込む。
ふと『まるで何かの儀式のようだ』と、稲豊は思った。
微かにだが喉は動いた気がしないでもない。
もう一度、冷ました味噌湯を少女の口に運ぶ。茶色の液体が、口の端からひとつこぼれた。それは口唇から流れた、少女の涙のようにも見える。
「…………うぅ……」
少女の母が顔を両手で覆い、嗚咽を漏らす。
男達は沈痛な面持ちで顔を伏せることしかできない。
『少女は最後に味を感じる事はできたのだろうか?』
稲豊は表情を確認するように小さな額に右手を置き、少女の前髪を掻き上げる。
するとそのとき――――
「…………うおうっ!?」
稲豊は思わず、素っ頓狂な声を上げた。
なぜなら少女の髪を掻き上げたときに、黒くキラリと光る双眸が、稲豊の両目を力強く捉えていたからである。
思考が凍りつき、連動して身体も動かなくなる。
そんな周囲の反応を意に介さず、少女は何事もなかったように上半身を起こし、
「いまのおかわりっ!」
と、ひとこと。
少女の発した声は、先刻まで死にかけていた者とは到底思えない、溌剌としたものだった。稲豊を含めた周囲の者は目を皿のように丸くし、数秒経過した現在でも動けない。そんな大人たちの姿を不思議に思ったのか、少女は愛らしい仕草で小首を傾げる。
そしてさらに数秒後、
「タルトォ!!」
母が小さな体を力強く抱きしめた。
少女は困惑しながらも、少し嬉しそうにはにかんだ。
「お、おい兄ちゃん! あんた何飲ましたんだ!?」
「奇跡だ!!」
初老の男と息子が稲豊を囲み、矢継ぎ早に状況の説明を求める。
だが説明できない。できるはずがない。稲豊にだって、まったく理解ができないのだから。唯一、分かることは、“何が”その奇跡を起こしたのかだけである。
「…………まさか……」
そんな言葉を吐きながら、稲豊は左手に持つ皿の中の液体に目を落とす。味噌湯は波紋を起こし、湯気を立ち昇らせていた。なぜか無性に食欲をそそられる。ゴクリと喉を鳴らした稲豊は、茶色の液体を口に運んだ。
「――――んなっ!?」
味噌湯を飲み下した瞬間、腹の内側から爆発的な力の奔流が巻き起こる。全身に力が漲り、肌のツヤさえ息を吹き返す。ここ数日の倦怠感や脱力感が、すべて霧散するのを稲豊は感じた。生まれて初めての感覚で、いまなら何でもできそうな気さえする。
再び味噌湯へ視線を落とした稲豊は、
「最強すぎるだろ……」
呟くように言った。