第59話 「しかし、主には敵わん」
「疾く我が使用人から離れろ」
「う……わ……、わかった……」
高圧的なルトに命令されたマリーは、その言葉に素直に従う。
二人の歴然とした力の差を、彼女達は互いに知り合っているのだ。
マリーが名残惜しそうに稲豊から数歩分の距離を空けると、主の背後に控えていたミアキスが瞬時に少年の傍に駆け寄り、四肢を拘束する枷を眺めた。
「ただの鉄製か……。腕力強化魔法」
枷の材質を確認したミアキスは、小声で何かの呪文を唱える。
それは稲豊の記憶する限りでは、恐らく腕力強化魔法。彼女がコレから何をするのか、火を見るよりも明らかである。稲豊は両指にグッと力を込めて握り込み、ミアキスの行動に身を委ねた。
「はっ!」
ミアキスの気迫の掛け声と共に、稲豊の鉄の腕輪はひしゃげて外れる。
普段の怪力に加え腕力強化された彼女の前では、鋼鉄の拘束具すらその意味を持たない。たちまちの内に稲豊は自由の身となった。
「うおお……」
二本の足で地面を踏みしめる感動に浸る稲豊。
普通の事をここまで嬉しく感じるのも、そうある事ではない。寝返りが打てずに痛くなった腰を擦りながら、稲豊が興味を持ったのはやはり姉妹のやり取りである。
「そ、そんな恐い顔せんといてよ。ウチら姉妹やで? こんなのちょっとした悪戯やんか? シモン君も無事やったことやし。お、お互い水に流さへん?」
「断る」
暖炉まで追いやられたマリーは引き攣った笑みを浮かべ、都合の良い提案をルトに持ち掛ける。しかし、怒り心頭のルトはその提案に乗る気など更々無い。悪戯な笑みを浮かべ、案を一蹴する。
「貴様は妾の“料理人”にちょっかいを出したのだ。それ相応の代償を払って貰う」
ドスの利いた声で妹に脅しを掛ける姉。
マリーの方はと言うと、苦虫を噛み潰したような表情をしている。きっと彼女に取って、ルトは弱みを見せたくない者だったに違いない。稲豊は、マリーのルトに対する異常な執着心を思い出していた。
「わかったわかった! ウチにどないせぇっちゅーねん!」
「貴様の『正答』を十回分。ビタ一文負けん」
「はぁ!? いくら何でも法外やろ!! どんだけの魔素が必要や思てんねん!!」
観念したマリーに、ルトが提案した賠償。
それを聞いたマリーは心底不快そうな抗議の声を上げるが、冷ややかな視線を向けるルトの前では無力でしかない。
「くぅ……!! し、仕方あらへん……。その条件、死ぬほど嫌やけど飲んだるわ」
自身に向けられた視線に根負けしたマリーは、渋々とその条件を飲む。
マリーの項垂れた様子をさも楽しげに眺めた後で、ルトは振り返り、稲豊とミアキスに満足気な上に得意気な顔を披露する。
「はぁ~……」
稲豊は安堵の吐息を漏らし、何処か懐かしい森の屋敷に思いを馳せる。
ミアキスも少年の肩を叩きその健闘を称えた。その二人の従者のやり取りを見たルトは、捜索を開始してから初めての気の抜けた笑みを零す。
後は治癒したタルトを家へと送った後で、一行も屋敷へ帰るだけである。
これにて稲豊とタルトの監禁騒動は――――
一件の落着を見せた。
かのように思われた。
解決の雰囲気も、ルトが“ある事”に気付いた時点で瓦解する。
稲豊はその場の誰よりも早く、自身を見る主の異変を察知した。
冷たい汗が彼の頬を伝ったのは、稲豊がルトの瞳を覗いてしまったからである。
色を無くした彼女の双眸は、少し下方を向いていた。
その視線の先が、自らの右手人差し指だと稲豊が気付いた瞬間。
「……あ」
彼の背中を凄烈な悪寒が行進する。
それほどまでに、ルトの瞳の奥は瞬時に冷え切っていった。その冷えは周囲へと伝播し、ミアキスとマリーの二人も少し遅れて異様に気が付く。
四人の内の誰も声を発することが出来ない空間に二つの声が響いたのは、その直後のことだった。
「ヒデェなこりゃ」
「……イナホ!!」
更に間が悪い事に、その場に現れたのは事情を知らないターブとタルト。
誰かが声を上げれば、自然とルトもその方向に視線を走らせる事となる。そして、ルトはそこで確信する。マリーの犯した“罪”の存在を。
「――――待ちな」
ルトの異様を瞬時に感じ取ったターブは、稲豊に駆け寄ろうとするタルトを止める。
不思議そうな顔を彼に向ける少女だが、彼女がその行動の意味を知るのは……、そう遠くはなかった。
「マリアンヌ。先刻の提案は変更する」
「な、なんやねん! 回数増やせとか今更言われても聞かへんで!!」
振り返ったルトの言葉に、マリーは抵抗する素振りを見せる。
感情の消えた姉の瞳に警戒はするも、これ以上の譲歩は出来ない。強い言葉を吐く彼女だが、その声に若干の震えが混じっているのを、稲豊は聞き逃さなかった。
「逆じゃ。回数を減らす」
「へ? なんや! 怒ってるワケやないん――――
最後まで言わせない。
「は?」
マリーは初め間抜けな声を零した。
そして、数瞬後に自らの異変に気付く。
「あっ……はっ? ……い、いだい!! いだい痛い痛い痛い!!!! あっ! あっ! あっ!?」
絶叫しながら後ずさり、暖炉にぶつかった後に地面に倒れ込むマリー。
その際に暖炉上の人形達が床にばら撒かれたが、彼女にとってはそれどころではない。
何故なら、自身の左足大腿部、膝、足先から、大小三本の氷柱が生えていたからである。三本の氷柱は健康的な肌をドレスごと貫通し、肌と氷の間から流れ出た血液は、大量の血溜まりを床に作り上げる。
それがルトの放った氷塊である事にマリーが気付いたのは、彼女が氷よりも冷たい視線を自身へと向けていたからだ。激痛から来る苦悶の表情を浮かべるマリーに、ルトは更に冷たい言葉を言い放つ。
「回数はゼロで良い。貴様は此処で死ね」
「痛い痛い…………はっ……はっ……あ、謝る……シモン君食べた事……タルトちゃん食べた事……謝る……から……!」
姉が妹を殺害しようとしている。
そんな衝撃的な光景を、皆はただ呆然と見ている事しか出来ない。いや、“一人を除いた皆”と表現した方が正しいだろう。この場で唯一、静かに憤怒したルトに意見出来る者がいたからだ。
「あ、あの。ルト様……、何も殺す事は無いんじゃないですか? ほら! 俺達は一応生きていた訳だし!!」
――――そう。
志門 稲豊。
彼だけは姉妹以外の者が硬直する空間で、口を動かした。
その気持ちが同情である事は理解していたが、それでも口を挟まずには居られなかったのだ。
「シ、シモン…………君……」
全身に大粒の汗を浮かべ、息も絶え絶えに稲豊の名を呼ぶマリー。
その瞳からは涙が溢れるが、それが何から来る涙なのか? 彼女自身にも分からない。
「シモン。口を挟むな。問題はそれほど単純ではない」
「え?」
勇気を振り絞り主に意見した稲豊だが、それは簡単に握り潰される。
そしてルトは一人歩き出し、マリーの傍まで近寄ると、彼女を見下ろしながら感情の無い言葉を言い放った。
「貴様は二つの罪を犯した。そのどちらも妾の逆鱗に触れるものじゃ。一つは姉である妾の従者に手を出したこと。もう一つは――――何か分かるか?」
「くっ……はっ…………う、裏切った…………こと……」
「分かってやっておったのか。救えんな貴様は」
激痛に耐える妹を見下ろしながら、ゴミでも見るような視線を向ける姉。
その光景は――――――とても悲しい。
「汚点は妾が拭おう。死ね愚妹よ。貴様のやった事は万死に値する」
「ま、待って……おね……お願いが…………あるんやけど……」
ルトの右手に漲る魔素を視認したマリーは、自身の最期を悟る。
そして、例えそれが叶わぬ望みであったとしても、彼女は望まずにはいられなかった。屋敷の主として、どうしても口に出さなければならない願いだったからだ。
「ウチの……使用人達には……手……ださんといて……。悪いの……ウチだけやから……あの子らも……ウチの犠牲者……やから」
「ならん。貴様らは同罪じゃ。余すこと無く処刑する」
「ほ……ほんまに……この……冷血女が……!」
「遺言は済んだな?」
ルトの右手人差し指の先が、問答は終わったと言わんばかりに白く淡い光を帯びる。
そしてそれは、真っ直ぐマリーの額に向けて照準が合わせられた。
遂に最期の時である、マリーはもはや痛みなど感じていない。
絶望と憎々しげな表情を浮かべた後に視線を落とし、地面に落ちていた人形の一つを胸に抱く。そしてゆっくりと目を閉じ、涙を一つ零した。
「さらばだ。マリアンヌ」
ルトの言葉に、瞼をギュッと閉じるマリー。
それを合図にするかのように、ルトの白い指先に宿る光は、一際大きな光を灯した。
――――――そして。
淡い光から強い光へと昇華したそれは――――放たれる事無く収束する。
「…………………………え?」
いつまで経っても最期の時が訪れないマリーは、恐る恐る開いた目で、信じられない光景を目の当たりにした。
「どういうつもりだ? シモン」
ルトがそう話すように、その事態を招き起こしたのは志門 稲豊――――
その者であった。
彼は床で蹲るマリーを背に、ルトから彼女を庇うかの如く、両手を広げ姉妹の間に割り入ったのだ。困惑顔を浮かべる周囲の者達とマリー。ルトは眼前に立つのが稲豊でも、冷たい表情を一切崩さない。淡い光を宿した指もそのままに、棘のある言葉を言い放つ。
「シモン。先に言うがこの指先に宿る魔法は感覚魔法ではない。故に退け」
「嫌です。俺はまだ納得いってません。なんで彼女を殺さなければいけないのか? 説明して下さい」
数秒間、視線を交差する両者。
ルトは稲豊の覚悟が本物であることを悟り、やれやれと頭を左右に振った。
「何故貴様の了解を得ねばならぬのか理解に苦しむが……。良かろう、教えてやる」
強い眼差しをする稲豊は簡単には折れぬだろう。
だからと言って力で退かすのも大人げない。ルトは言葉で稲豊を退かしにかかった。
「シモン。貴様は知らぬだろうが……。妾達六人の姉妹は、父上からある使命を申し付けられておる。それは――――」
「最悪の食糧問題。その解決ですか?」
「…………知っておるなら話は早いの。ならば貴様にも分かるだろう? 父上が憂いていた、魔物が人を食べるという行為。妾達はそれを防ぐ立場にあるという訳だ。なのに……それなのに……、この莫迦は何をした?」
ルトの言葉に、マリーは奥歯を噛み締めて表情を歪める。
「あろう事か……、人間を食べておった。将来妾が魔王となり『人を食すべからず』という政策を行った際に、こやつの存在がどれほどの影響を与えるのか? 分からぬお前ではあるまいよ?」
「だからと言って、今殺すのはどうなんですか? 過去に人を食べていた魔物は、このモンペルガには多く住んでます。その者達も罰するんですか?」
「一般の者と、それを導く王族とでは立場が違う。下々の者への示しがつかん」
「それはどうでしょう? 身内とはいえ、裁判もせず処刑する方が、暴君だと捉えられる可能性もあるんじゃないですか?」
ルトの言葉に、稲豊は真っ向から対抗する。
その度に気が気でない周囲の者達。ルトは決して気が長い方ではない。ミアキスは稲豊に止めるようにと視線を送るが、彼はその場を動く気配を示さない。
「百歩譲って過去に目を瞑ったとしても、享楽主義であるこの阿呆はまた同じ事を繰り返すぞ? また人の犠牲者が出る前に、今此処で処理した方が皆の為じゃ」
「そんな事にはなりません」
「ほほぅ? 大した自信じゃな。何故そう言い切れる? 根拠を言え」
威圧的な声を目の前の少年に浴びせるルトだが、稲豊は怯える様子など全く見せない。
そして真摯な瞳そのままに、彼は静かだがはっきりと告げた。
「俺が彼女を説得するからです」
「なに?」
そこで初めて、ルトは目を泳がせ考える仕草を見せる。
『あと一押し』。そう感じた稲豊は、最後の畳み掛けに入った。
「もう二度と人間は食べさせません。俺を信じて任せて下さい! そして、これはルト様の為でもあります。どうか貴女の為に彼女の説得をさせて下さい。お願いします!!」
深く深く頭を下げる稲豊。
自らの為と言われ、遂には動揺を覗かせるルト。
しばらくの沈黙が場を支配し、そして……。
二人がした初めての物言いは――――
「そこまで言い切るのならば………………シモン。貴様に任せる」
志門 稲豊に軍配が上がった。
「ありがとうございます!!」
眩しい笑顔で礼を言う稲豊の姿に、外野達はようやく安堵の吐息を洩らした。
ルトの指先の魔素は消え去り、冷えていた場の空気も温度を取り戻す。
「しかし少年。そのような大口を叩いても大丈夫なのか? 説得など、そんな簡単なものでは無いだろう? どうするつもりだ?」
安堵したのも束の間、稲豊に近付いたミアキスは次の心配を早々にする。
あれだけの啖呵を切ったのだ、もはやそれが出来なかったでは済まされない。
しかし、額に汗する彼女の心配など気にも止めず。
稲豊は実にあっけらかんと返答した。
「そッスね。取り敢えず――――飯でも食いますか?」




