第45話 「三叉の矛」
「いっってぇぇぇぇぇ!!!!!!」
アリスの谷に木霊する絶叫。
不可解なのは、それが一人の声ではなく。二重の音声であった事だ。
稲豊は地に伏せながら、右手で左肩を押さえ苦悶の表情を浮かべ、襲撃者も右足を両手で押さえ、悶えながら地面を転がる。
無様な姿など晒したくない二人だが、押し寄せる苦痛のせいで、起き上がる事さえ自身の体に拒まれていた。
何がなんだか分からない稲豊。しかし、ただで苦しむ訳にはいかない。左肩に走る激痛に耐え忍びながら、薄目を開けて、紅蓮の蛇の正体を視界に捉える。
「…………女の子と……鞭…………じゃなくて……剣……か?」
稲豊がそう呟く通り。
彼の視線の先には炎を纏った少女と、稲豊の肩を切り裂いた鞭の様に伸びた鈍色の片手剣。少女から溢れ出す覇気と、その異様な片手剣を、紅蓮の蛇だと稲豊は咄嗟に感じてしまったのである。
「大変!? ど、どうしましょう!!」
「全く……何事でござるか。騒々しい」
「いだだだだ!? と、とにかく早く助けろ! エルぅ…………治癒魔法頼むよぉ! 足折れてっからさぁ!」
慌てふためく長髪の少女と、涙目になりながら、足を押さえ転がり続ける女の子。既に鎮火した炎の襲撃者に、冷ややかな視線を送るのは忍者少女だ。
その三人の口振りから、皆が知り合いである事を窺わせる。
「エル。先に小僧から助けるでござる。早くしないと全身に回って手遅れになるでござるよ」
「あっ! そ、そうですわね!」
稲豊は少女二人のやり取りを理解できなかったが、その言葉の意味を、直ぐに身を持って知る事となる。
「…………う…………え?」
突如稲豊を襲う猛烈な震えと凍えるような寒気。
更には、今まで感じた事も無い程の凄烈な嘔吐感。稲豊は肩の傷さえ脳内から忘却し、両手で口を押さえ吐き気を堪える。
苦しむ少年に駆け寄る長髪の少女は、稲豊の体を優しく抱き起こし。「失礼しますわ」と一言告げると……、驚く事に、稲豊を正面から抱擁する。そしてその後、傷付いた左肩に口づけを交わした。
「うあ…………!?」
体を包む柔らかな感触と、肩を吸われる唇の感触に、稲豊の背筋を快楽の悪寒がぶるっと走る。鼻腔を擽る少女の芳香と、ぐいぐいと押し付けられる控え目でない二つの膨らみ。稲豊は呼吸すら忘れ、「時間よ止まれ!」と、脳内で三度繰り返した。
「気分は……どうかしら?」
いつの間にやら幸せな感触は離れ、稲豊の眼前には薄目を開けた美しい少女。
「大丈夫…………れす」赤面した稲豊が、かろうじてそう答えると……、少女は「良かった」と安堵の声を漏らした。そして、座ったままの稲豊の傍を離れ、次はもう一人の治癒へと取り掛かる。
「傷……消えてる」
稲豊の左肩には何も無い。破れた服から、健康そうな肌が覗くのみである。
胸を撫で下ろす稲豊だが、やはり気になるのは先程の猛烈な嘔吐感。
「異世界固有の変な病気とかじゃないよな?」
首を捻り疑問の声を漏らした稲豊だが、そんな彼の独り言に答えたのは、近くにいた忍者少女であった。
「“世界蛇”より抽出した致死性の猛毒でござるよ。あの剣の刃にはそれが塗られているのでござる」
「猛毒!?」
状態異常の正体を知り、驚愕の声を上げる稲豊。
慌てて自身の体を省みるが、異常は何処にも見受けられない。健康そのものである。
「安心するでござるよ。エルの治癒能力は無欠。吸引魔法で毒も吸いだしたので、問題は無いでござる」
「へぇ……凄い能力ッスね」
命が助かった事に稲豊は感謝もしているが、それと同時に恐ろしくもあった。
ルトの敵である少女達には、猛毒すらも通用しない事が判明したからだ。複雑な表情をする稲豊は、彼女達とルト達が、相見えない事を真摯に祈った。
「あ~痛かった。サンキューなエル! やっぱウチの隊の奴よりも、お前の治癒魔法が一番だぜ! ――――んなのにさぁ。なんでそんな魔物治すんだよ? しかもオレよりも先にさぁ……」
エルと呼ばれた少女の治癒魔法により、完全回復した桃色髪の少女は、感謝しつつも不服を申し立てる。片手剣を器用に折り畳みながら拾う姿は、何処か拗ねているように見えなくもない。そんな少女に声を掛けたのは、最早説明役と化した忍者少女だ。
「よく見ろバカ。お前にはこの者が魔物に見えるのでござるか?」
「誰がバカだ!! って…………んん?」
何かに気付いた様子で、稲豊に近づく勝ち気な少女。
近付けばより分かりやすいが、頭一つ分は稲豊よりも背が低い。忍者少女と横に並べば、同じぐらいの背丈に違いない。そんなどうでもいい事を考える稲豊の全身を、警戒した瞳で見る勝ち気女子。彼女は舐め回す様に視線を這わせた後で、ハッとした表情を見せる。そして、後退りしつつ驚きの声を上げた。
「に、人間!? おい! シグ、エル! こんな所に民間人がいるぞ!?」
「ええ。そうですわね」
「知ってるでござる」
稲豊が人間だと気付き、動揺を隠せない勝ち気な少女に、他の二人は呆れた様子で同意する。
「で、でも……魔族が人に化けてる可能性が……」
しかし、自らの失態を認めたくない少女は、往生際が悪く『稲豊魔族説』を唱える。
そこに関して、実は稲豊も彼女の意見が分からないでも無かった。ルトやアドバーンは一見、人間との相違点を見つけられない。最初に現れた二人の少女が、迷う事無く稲豊を人だと断定した事に、稲豊は些かの疑念を抱いていたのだから。
「ムッ! エテ吉を疑うでござるか? 憤慨でござる」
忍者少女がそう言うと、その忍装束の胸元がもぞもぞ動き、手の平に乗るほどの小猿が顔を覗かせる。そしてそのまま胸元を飛び出し、少女の右肩の上で、小猿は怒りの地団駄を披露した。その猿の姿に、稲豊は軽い衝撃を受ける事となる。エテ吉と呼ばれた猿の小さな背中に、天使を連想させる純白の両翼を持っていたからである。
稲豊は今まで腕の多い動物を多々見て来たが、羽の生えた猿は初めてだ。
愛らしいその姿に稲豊の動物好きの本能は疼いたが、敢えてここはスルーする。
「わぁったよ。オレが悪かった! エテ公が人間だって言うなら信じるよ! 兄ちゃん。殺そうとして悪かった!!」
両手の平を自身の前で合わせ、豪胆に謝る少女。
エテ吉の人間観察はかなり信用に足るらしく、往生際の悪い彼女に素直さを取り戻させるだけの力を見せた。
「まあ、正直『死んだな』って思いましたけど……過ぎた事なので」
明らかに年下の少女に敬語を話す自身に、稲豊は少しの情けなさを感じながら、話を切り上げる方法を模索する。レフトに危機が迫っているのなら、一刻も早くその元に向かわねばならない。しかし、少女達の前で魔物側に味方する訳にもいかず、切迫感は、容赦なく稲豊の胸を圧迫した。
冷や汗を浮かべる稲豊の事など露知らず、勝ち気な少女は豪快な笑顔を浮かべる。
「兄ちゃん良い奴だなぁ! 殺され掛けたの水に流すなんて、すげぇじゃん! いやぁ~。オレの足が折れてて良かったぜ。でなけりゃ、優しい兄ちゃんの心臓貫いてたわ! 詫びにエデンまで送ってやるよ!」
桃色髪の少女はそう話すや否や、稲豊の手を引き、自陣深くへ連れて行こうと歩き出す。
またもお節介に苦しめられる稲豊。しかも今度は、思案する時間すら与えられていない。
「いや!! あのちょっと!?」
恐ろしい怪力で引き摺られる稲豊の体。
このまま誘拐されるのではないか? という、考えが稲豊の脳を過ぎったその時。
「ティオ? 彼は私が保護いたしましたの。なので私が連れて帰ります」
「うぷっ!?」
勝ち気な少女から、奪い取る様に稲豊を抱き寄せる長髪の少女。
その豊満な胸に再び抱かれ、喜びと不安の感情にも稲豊は板挟みにされる。
「ま、待って下さい! 俺はまだ貴女方とエデンに行くとは言ってな――――」
名残惜しくも胸の誘惑を振り切った稲豊は、頑張って自己を主張する…………が。
「ああ!? そう言えば、私達。名乗ってさえいませんでしたわ!」
「おお、それだ!! 兄ちゃんのノリが悪い理由が分かったぜ!」
「当然至極でござるな」
話を聞かない三人娘は、話を変な所に着地させる。
呆気に取られる稲豊を置き去りにし、少女達は名乗りを上げる。最初に稲豊に近付いたのは勝ち気な少女だ。
「オレは楽園国第二軍団、蛇腹衆筆頭の『ティオス』! 兄ちゃん! オレと一緒に帰ろうぜ? 損はさせねぇからさぁ!」
ティオスは無邪気な笑みを浮かべ、豪快奔放に稲豊を勧誘する。
唐突な『一緒に帰ろう宣言』に動揺を隠せない稲豊。――――その両手を優しく包み。自らの方向に振り向かせたのは、長髪の少女である。
「右に同じく。海星隊、隊長の『エルブ』ですわ。私の隊と帰りませんか? 私の愛馬で、エデンまで送らさせて頂きますわ」
体のスキンシップが多い美少女と、馬上で密着しながらの移動。
妄想に鼻の下を伸ばす稲豊だったが、またも別方向からの接触により、意識をそちらに逸らされる。稲豊が首を回して後方を見やると、コートの端を引っ張る忍者少女と目が合った。
「…………右に同じく。黒猿軍団頭領。『シグオン』でござる。こっちは相棒のエテ吉。拙者と帰るなら、漏れ無く拙者がイジメてあげるでござるよ」
サディスティックな笑みを浮かべる忍者少女と肩の猿。
その瞳に宿る確かな悪意に、稲豊は冷や汗を流しながら三歩程少女達から離れ、露骨に話題を逸らした。
「いやぁ、皆さん個性的で何よりですけど。若くして隊長やってるなんて凄いッスね! ハハハ……」
「おおよ! “レトリア様”の三叉の矛――つったら、エデンで知らない奴はいないくらいだぜ! そんなオレらに救出されるなんて、兄ちゃんはラッキーだなぁ!!」
ティオスに背中を二度強く叩かれ、咳込みながらも稲豊は思考を巡らせる。
統一感ゼロな名称を持つ三つの部隊。その隊長である三人娘。それをこの場から遠ざけるには、どうすれば良いのか?
そして、ようやく捻りだしたとある案を、稲豊は実行に移す事とした。
「分かりました! 一緒に帰ります。ですが、最後にターブと二人だけでお別れをしたいんです。必ず向かいますから、お仕事中の皆さんは谷の入り口で待っていて下さい」
エデン国が谷の向こう側、故に彼女等の侵入経路が稲豊とは逆であるという予想。少女達の性格なら、呑んでくれるのではないか? という、根拠も無い憶測で初めて成り立つ、名案とはとても呼べない稚拙な案であったのだが…………。稲豊の目論見は見事に成功した。
「そうですわね……私も愛馬を飼っておりますので、心中はお察ししますわ。分かりました、私達は入り口で待ってます」
「アリスの谷は迷路でござる。迷った時はコレを使うでござるよ」
悲しげな表情を浮かべるエルブと、稲豊に拳大の石を手渡すシグオン。
稲豊が石を不思議そうに眺めているのを察したエルブは、その性能について語って聞かせた。
「それは魔煙石ですわ。砕くと白煙を天に昇らせて、位置を知らせたりするのに役立ちます。谷で迷った際は、迷わず砕いて下さい! ――――なんて言っちゃったりして」
「あ、ありがとうございます」
ココで貰わない選択肢など無い。茶目っ気はあるが、心優しき少女の言葉に従い、稲豊はありがたく石を頂戴する。
稲豊が魔煙石をコートの右ポケットにしまう動作を見届けると、長髪の少女は「では」と短く稲豊に伝え、谷の奥へと歩き出した。
「拙者達も行くでござるよ」
「えっ? えっ? おいシグ!? 引っ張んなって!! じゃ、じゃあ兄ちゃん後でなぁ~!」
途中参加のティオスは流れについて行けず、疑問符を浮かべながらシグオンに腕を引かれて去って行く。訳が分からないながらも、流れだけ汲み取るティオスは、稲豊に簡単な別れだけ告げた。そして、直ぐに気持ちを切り替えて、愛らしい無垢な笑みを浮かべながら――――稲豊にとって信じられない言葉を、仲間達へ向けて言い放つ。
「そういやさぁ~! オレ、敵の“大将のエルフ”討ち取っちゃったぜ! 大手柄じゃね?」
「ぐっ! ティオに先を越されたでござるか!?」
「あら。おめでとうございますわ! 作戦成功率万年最下位、返上出来るかも知れませんわね?」
上機嫌な少女が零す残酷な真実。
その言葉に魂を持って行かれた稲豊は、ただ呆然と、優しい少女達の背中を、見送る事しか出来ないでいた…………。




