第107話 「溢れんばかりの逞しさ!」
「今……なんて言った?」
「俺はヒャクを使わない」
ネロが確認をしても、稲豊の答えは変わらない。
生き物を惑わす森の中で飛竜に何度も襲われ、文字通り命懸けで入手した伝説の万能食材――ヒャク。稲豊の命を救ったと言っても過言ではないその食材を、彼は事もあろうに「使用しない」と断言したのだ。
「山菜は洗って、鳥の胸肉は茹でて……」
そして言葉の通り、稲豊はヒャクを使わずに調理を開始している。
その姿を呆然と眺めていたネロは、自らの腕を止めてまで思考を巡らせた。
ヒャクは食材の苦味や臭み取りに絶大な力を発揮する。
苦味の強い野菜や果物、更には肉までもがその果汁に漬け込むだけで何倍も味が良くなるのだ。もはや旨い料理を作る代名詞とも成りつつあるヒャク、それを敢えて使わない――その理由。
「まさか!」
ネロは一つの理由に考えが至り、酷く軽蔑した表情で顔面を染めた。
「お前……勝てないと知りこの勝負を捨てたな? どうせ負けるなら、貴重な食材は使いたくないって理由か?」
青年のする質問に、稲豊は返答せず無心で山菜を洗っている。
少年の沈黙を『YES』と受け取ったネロは、眉をハの字にして呆れ果てた。
「はっ! 僕の後釜の料理長はとんだ腰抜けだったという事か。女の前でいい格好をしたいが為に勝負を引き受け、愚かにも味音痴を審査員に仕立てただけでなく、最後は臆病風に吹かれてその勝負を捨てる。少しは料理人としての自覚があるのかとも思っていたが、どうやら僕が買い被っていただけのようだな」
歯に衣着せぬ青年の言葉にも、稲豊は一切構うこと無く調理の手順を進める。
やがてネロは嫌味にも対戦相手にも興味を無くし、前だけを向き調理へと勤しんだ。
「僕は違うぞ、最高の料理を用意してみせる」
そんな条件を己に課したネロの手際は、鮮やかを通り越して華麗ですらあった。仔牛の肉を香草と共にヒャクの果汁に漬け込むと、今度は豚肉を焼いた物をスライスし、新鮮な野菜と一緒に皿へと並べる。肉と野菜で美しく彩られた皿だが、それだけではネロは満たされない。彼は流れるようにソース作りへと移行した。
ネロが次々と料理を完成させていく一方、稲豊は対戦相手と比べてゆっくりとだが調理工程を進めていた。ヒャクで臭み抜きをしていない肉は、鍋の沸騰した湯の中でも遺憾なく強烈な獣臭を発揮する。悪臭に苦しめられながらも、稲豊は次のメニューへと取り掛かった。
「肉を焼くのは最後だから、ああ次は別の鍋がいるな。大きい鍋――っと、あったあった」
刻一刻と迫る時間の中で、稲豊は厨房の中を行き来する。
彼の目的はただ一つ、ミアキスを“救いたい”。その為に稲豊は腕を奮った。それがどれだけ難しい事かも彼は理解している。それでも、止まる訳には行かなかったのだ。あの日、恩人の流す涙を見てしまったのだから。
「残りは十五分で御座います!」
アドバーンの声が厨房内に響き渡る。「もうそんな時間!?」と焦る稲豊とは対照的に、ネロは涼しげな顔で少し乱れた眼鏡を整えた。それもそのはず、青年は既に盛り付けの段階まで進んでいたのだ。
「少し時間が掛かってしまったな」
そう嘯くネロの前には、沢山の皿が並んでいる。
それは別に、大食漢のミアキスの為に用意された物ではない。彼は稲豊よりも短い調理時間にも関わらず、自分の主と来賓の分まで料理を用意していたのである。
「さあ、冷めない内に運んでくれ」
使用人へ声をかけ、皿を庭へと運ぶよう指示をするネロ。
次々とサービスワゴンに乗せられていく皿に、彼はドームカバーを追うように被せていった。
「アドバーン様。先に料理を振る舞ってもよろしいですか? このままでは折角のシチューが冷めてしまいますので」
「もちろん構いませんぞ。私めはイナホ殿の料理の完成を見届けてから参りますので、お先に庭の方へどうぞ」
「ありがとうございます。では失礼」
二つのサービスワゴンと共に厨房を出るネロ。
彼が去り際に稲豊へ向けた勝ち誇った笑みは、アドバーンの瞳に留まるだけに終わった。老執事はもう一度時計へと視線を走らせてから、「間に合いますか?」と四苦八苦する稲豊へと声を掛ける。
「後はスープの味付を整えるのと、肉を焼くだけです。なんとか間に合わせてみせます!」
「ファイトですぞイナホ殿! ああ! 応援しか出来ない我が身がもどかしい!!」
「ハハ。そのいつもの感じ良いっスね」
身を捩らせるアドバーンを見て落ち着きを取り戻した稲豊は、いつも通りの自分へと意識をシフトした。
『ここはクロウリー家の厨房で、今日はただ昼食を用意するだけ』
そう考えると、自然と取れる肩の力。
稲豊は「よし!」と気合を入れ直すと、“普段通り”に調理へと心血を注いだ。
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ネロが調理を終えた時から、遡ること十分前。
談話する姉妹たちは、ある意味では今回の主役とも呼べる者の登場で会話を止めた。
「久方振りじゃの――ミアキス」
「……ええ、ご無沙汰しております。ルートミリア様」
アリステラ達の手前、会話に花を咲かせる訳にもいかない。
久しぶりの再会を果たした元主と元騎士は、どこか余所余所しく挨拶を交わす。
「ささ、ミアキス様。今回の主役はこちらへ」
「痛み入ります」
クリステラに勧められ円卓へと腰を下ろしたミアキスは、座ると同時に自らの鼻を右手で覆った。地面により近付いた事で、人狼の鋭い嗅覚が悲鳴を上げたのである。
「あら、ミアキスごめんなさい。庭に撒いた香水がきつかったかしら?」
「い、いえ問題はありません。もう慣れてきましたので」
申し訳なさそうに両手を合わせるクリステラに、やせ我慢を返すミアキス。
そして訪れる、暫しの沈黙。料理が来なければ、審査をすることだって出来ない。空高く飛ぶ鳥の声だけが木霊するエルルゥ家の庭で、沈黙に痺れを切らしたアリステラは唐突に言った。
「ルートミリアお姉さまわぁ、想い人はいらっしゃいますの?」
「ぶふぁ! きゅ、急になんじゃ!!」
妹からの予想外の言葉に、ルートミリアは振る舞われた茶を盛大に吹き出した。
「良いじゃありませんのぉ。この場には居るのは女子だけ、恋バナしましょう?」
「こ、恋バナ……」
瞬く間に威厳を失うルートミリア。
免疫の無い彼女は、『恋』の言葉を聞くだけで赤面してしまう。そんな姉の様子を見たアリステラは、瞳を爛々と輝かせた。
「もしかして――ルートミリアお姉さま。想い人がいらっしゃいますの!」
「あ……う……いや、その」
「誰ですの! 絶対に口外しませんから、仰ってくださいまし!」
「絶対に嘘じゃ! 昔お前に話した粗相の話は皆が知っておったぞ!」
アリステラは自席を離れ、ルートミリアの席にまで移動し身を乗り出す。
好奇心を顔いっぱいに浮かべた妹の姿に、姉は真っ赤な顔を左右へと振った。
「ではヒント! ヒントだけでも! ルートミリアお姉さまぁ」
「ええい、しつこい! 想い人と言うほどのものではない、ただ気になっておるだけじゃ! そういうお前こそどうなのじゃ!」
縋り付くアリステラを引き剥がしたルートミリアは、乱れた服を整えながら質問を返す。するとアリステラは「ちぇ」とつまらない顔をした後、煌めく瞳を浮かべて空を見上げた。
「愚問ですわルートミリアお姉さま! アリステラが愛しているのはお父様だけ!! 強く逞しく愛らしく快活で美しく優しくて雅で温かくて逞しいお父様!! ……ああ、アリステラはいつどんな時でもお父様の事をお慕いしておりますわぁ」
「…………逞しいが被っておるの」
父への愛を語り遠い目をするアリステラ。
頬を上気させるその様子は、まるで恋に酔う乙女のよう。そんな彼女をどこか羨ましげに眺めるナナを尻目に、ルートミリアは痛くなった頭を左手で抑えた。
「クリステラよ、妹が暴走しておるぞ。なんとかせい」
「分かりました――――。アリス! お父様の『聡明』さが抜けているぞ! お父様は強く逞しく聡明で愛らしく快活で美しく優しくて雅で温かくて逞しいんだ」
「あらぁ。私としたことが、クリステラお姉さまの言うとおりですわぁ」
やはり双子は双子。
ルートミリアが『ダメじゃこいつら』と妹達に白い目を向けた時、サービスワゴンの車輪の音が皆の耳に届いた。
「お待たせしました。お三方の分もご用意させて頂きましたので、どうぞ召し上がり下さい」
「あらぁ、さすがネロねぇ。速い上に気が利くわぁ」
そして使用人たちの手により、皆の卓の前に並ぶ料理たち。
ドームカバーを掛けられているせいで、その中身は彼女らには分からない。更に庭の香水も相まって、人狼のミアキスですら、ステーキなのかスープなのかも判別がつかない状態である。
「シモンはどうした?」
「あの手際に合わせていてはシチューが冷めてしまいますので、先にこちらを運ばさせていただきました。どうかルートミリア様もご堪能ください。腕を上げた自覚は持っていますので」
「……うむ」
ヒャク酒をルートミリアのワイングラスに注ぎながら、ネロは自信に満ち満ちた様子で食事を勧める。そして青年は皆のグラスを満たした後で、使用人たちに“オープン”の合図を送った。
「ほぅ」
「美しい見た目をしているな、さすがはネロだ」
「勿体無いお言葉です」
遂に露わになるネロの料理に、周囲の者達からは感嘆の息が漏れる。
見た目の美しさも然ることながら、そのバランスも申し分ない。ネロの腕を余すこと無く発揮されたメニューは、魔王国の高級料理店でさえ味わう事が出来ない領域へと達していた。
「リ・ド・ヴォー……つまりは仔牛の胸腺肉のフリカッセです。こちらは豚肉と季節の野菜のサラダ、シチューには――」
喜々として皆にメニューを説明するネロだが、独りミアキスの表情は暗い。
しかしそれも仕方がなかった。彼女は味を感じないにも関わらず、ネロの料理を美味いと言わなければならない。その上、言ってしまえば友人は屋敷を去らねばならないのだから。
「…………やはり、分からないか」
味を確かめるように何度も咀嚼するミアキスだが、何一つ舌を伝っては来ない。
最高の素材で作られた最高の料理を口に運んでいるのに、彼女の魔素は素材分の量しか満たされはしなかった。
「なるほどの。確かに腕は上げたようじゃな」
「はは! 日々精進に務めておりますので」
ルートミリアに褒められ、有頂天が加速するネロ。
彼は誰にも見えないように薄ら笑いを浮かべた後で、テーブルの隅に置かれている浮遊砂時計へと目を滑らせる。残り時間は、あと一分を切ったところであった。
「残念ながら、もう一人のコックの料理にはありつけなさそうですね。まぁ、どちらにしろ同じ事でしょう。既に結果は出たと言えます」
「そうねぇ。この料理を上回る物は無理じゃないかしらぁ? ルートミリアお姉さま。もう負けを宣言してもぉ、こちらとしては一向に構いませんわよ?」
ネロの料理に舌鼓をうつ双子の王女は、勝ち誇った顔を長女へと向ける。
「たわけ」
しかしルートミリアは、そんな二人を一蹴。
美しい口元を持ち上げたかと思うと、細い指で“屋敷”を示しながら、
「妾は言ったはずじゃ、シモンを信じておるとな」
そう豪語した。
そしてその言葉を体現するかの如く、屋敷の勝手口より現れる一つのサービスワゴン。それを押しているのは、紛れもなく志門稲豊――その人であった。
「はぁはぁ……アドバーンさんタイムは!」
「イナホ殿、ギリギリセーフで御座います!」
「よっしゃ!!」
息を切らせた稲豊は、皆の前でアドバーンとハイタッチを交わす。
そして既にネロの料理を平らげているミアキスの下へと歩み寄り、朗らかな笑顔を彼女へと向けた。
「ミアキスさん、お待たせしました。食ってもらっても良いッスか?」
「はっ! 躾のなってない男だなお前は。それが人に食事を提供する者の言葉か?」
「お前にゃ言ってねぇ」
嫌味を吐くネロの視線を無視し、稲豊はミアキスの目の前の食器を片付ける。
そして代わりに並べられたのは、ドームカバーに覆われた三つの皿たち。その内の一つは、一際大きなサイズの物となっている。
「アリステラ達の分はございませんの?」
「すんませんけど用意してません。だってこれは、ミアキスさんの為だけに用意した物なんスから。さあミアキスさん! 食って下さい!」
「あ、ああ。……承知した」
鼻息を荒くする稲豊に催促され、ミアキスは目の前の皿たちへと視線を落とす。
庭の香水の匂いの所為で、中身は全く予想が出来ない。
「……っ!」
ふと、ドームカバーを持ち上げようと伸ばした彼女の右腕が止まる。
中身を食べてしまったら、目の前の少年に非情な言葉を告げなくてはならない。そんな思いが、ミアキスの右腕を動かなくしたのだ。
一瞬にも永遠にも近い逡巡がミアキスを襲った後で、そんな彼女を動かしたのは、以前に稲豊が発したある言葉であった。
『ミアキスさんに俺の料理を美味しいって食べてもらいたい。俺はその為にこの勝負を受けたんです』
『待ってて下さいね。俺は今回、貴女の為に――貴女の為だけの料理を作ります。絶対に美味しいって言わせて見せますから』
稲豊の言葉が、ミアキスの胸の奥を熱くする。
するとその熱が浸透したかのように、凍りついた彼女の右腕は解れていった。
「よし」
自らを鼓舞したミアキスは、一度稲豊の顔を見てから、視線を正面の皿たちへと戻す。
そして大きく深呼吸した後、ミアキスは意を決して一つのドームカバーを取り去った。
「なっ!?」
その中身を見た人狼の瞳は、大きく見開かれる事となる。




