第100話 「四年前 後編」
2017/04/19 三話構成に修正しました。
森の木々や、地を駆ける風も寝息をたてる闇の中。
ポタロ村の入り口を見張っていた僧兵の一人は、ある異変に眉を顰めた。
「……なんだ? この臭いは?」
村中を巡る、黴を思い出せさる悪臭。
二つの指で鼻を摘んだ彼は、臭いの元を突き止めるべく視線を巡らせる――――のだが。
「あがっ!?」
彼の意識が保てたのはそこまで。
突然背後より現れた黄金色の剣が、彼の意識を根こそぎ刈り取り奪う。
崩れ落ちる僧兵が最後に耳にしたのは、「峰打ちだ」という若い女の声だった。
「これで全員」
気絶した兵士に覚えたばかりの治癒魔法を施した後で、ミアキスは口笛を二度鳴らす。すると十数秒後に、暗闇から一つの影が出現する。僧兵の持つランタンの灯りに照らされた人物は、黒い毛布に身を包んだ村長。その人である。
「では手筈通り、我々は移動しよう」
村長は地面でのびる見張りに申し訳無さそうな顔を向けるが、直ぐに気持ちを切り替えそう告げる。そしてまた暗闇の中に戻ると、彼は少しだけ声のボリュームを上げて言った。
「皆の衆。グヤの煙を浴びた毛布は持っているな? 今から森を移動するが、慌てず騒がず。列になって進むように」
小さな号令が暗闇を通り抜けると、大小様々な影達がぞろぞろと移動を開始する。子供達の中にはちょっとしたピクニック気分の者もいるが、大人達の顔はどれもが不安気。先の見えない未来は、闇の中を彷徨う今の状況そのものである。
ミアキスは皆の不安を払拭するかの如く、赤の魔石を用いて持参した松明に火を灯す。そして村長と一緒に列の先頭へと歩み出ると、全神経を周囲へと張り巡らせた。今の彼女ならば、近付く羽虫の一匹すら見逃さないだろう。
細心の注意を払いながら、百人弱の列は森の中をひた進んでいく。
慣れない夜道に足を取られながら、それでも住民達は歩みを進める。それは偏に村長の人望と、生への渇望。そんな思いに突き動かされた彼らは、只管に足を前後させた。
そして住民達の体力が限界に近付いた頃、目的の場所が見えてくる。
過去、ミアキスが偶然見つけた巨大な洞穴だ。そこであれば、村人全員の収容が可能である。
「ふ~。何事もなくて良かった」
洞穴内の石で出来た床に腰を落ち着ける住民達を見て、点呼を終了させた村長は安堵の吐息を漏らした。気を張り詰めグッタリとした大人達の姿も目立ってはいるが、その隣では子供同士が仲良く遊びに興じている。この光景を守りたいが為に作戦に同意した彼は、それが間違いではないことを切に祈った。
「親父。最小限の照明は設置したし、今のところ体調を崩した者もいない。次は入り口を見張ってくる」
「ああ。すまんな」
長男は報告を終えると、弓を持って入り口へと向かう。
その後姿を見送った後で、村長は毛布に包まったある人物へと歩み寄る。
「……大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よあなた。私は良いから、他の人達の事を考えてあげて」
村長の妻は病弱な体にも関わらず、気丈にも他者を気遣う。
その隣には、人一倍に呼吸を乱す次男の姿。途中から母を背負って移動した為の消耗である。村長は二人への申し訳無さから、足早に洞穴の入り口へと向かう。自らの行いが正しかったことを誰かに証明して欲しかったのだ。
「恐らく、今頃はもう村に襲撃をかけた頃だろう」
村長が入り口へと到着すると同時、人狼が悲しげな瞳で言った。
もぬけの空になった村を見て、呆然とする族長の精鋭達。そんな光景がミアキスの頭の中で何度も再生される。結果、彼らが何を思い、そして感じるのか? そこまでは彼女にも想像はつかない。
――――そう。
実際に確かめるしか、それを知る方法はないのだ。
「……村長。我は行ってくる。皆に必ず誇りを取り戻してくるから、待っていて欲しい。この辺で危険な獣を見たことはないが、注意は欠かさないでくれ。毛布は幾つか入り口に置いておくと良い」
「承知致しました。ご武運を祈っております」
村長と、その隣に無言で立つ長男に見送られ、ミアキスは少しだけ薄くなった森の闇へと溶け込んでいく。
疾風となり来た道を遡る金色の人狼。
彼女の双肩に掛かるのは、大勢の人間の命と自身の今後。そんな重圧に押し潰されそうになりながらも、それを支える存在のお陰でミアキスは立つ事が出来た。父に母に村人に、そして――――
「レトリア、君ならきっと」
誇り高き人間の友人。
ミアキスは更に速度を上げて、木々の間を縫うように駆ける。
族長が“人狼族の誇りを取り戻す”という、淡い希望を胸に抱きながら。
ポタロ村までの道程が半分を切った頃、動き続けていたミアキスの両足が止まる。それは疲労から来る行動ではなかった。スタミナも常人離れした人狼族。数時間の疾走など、彼らにとってはただのジョギングでしかない。ミアキスが足を止めたのは別の要因。即ち、彼女が見過ごせない物を発見したからだった。
「…………なんだ?」
否。
正確には“ソレ”は“物”ではなく、微かな音と臭いであった。
白み始めた北の空から運ばれる音と臭いは、ミアキスの胸にこの上ない焦燥感を焚き付ける。そして人狼は、迷うこと無く進路を変更させた。ポタロ村より北西に位置するその場所へ。
父と母の待つ――――――その場所へ。
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一日ぶりに故郷に帰着したミアキスは、そこで二つの“赤”を見た。
暗雲にも似た黒い煙を立ち上らせる幾つかの炎の赤と、村の至る所を染め上げる黒寄りの赤。そのどちらもが不快な臭いを村中にばら撒いている。
「なんだ……コレは……?」
当初、呆然と立ち尽くすことしか出来なかったミアキスだが、やがて両足は緩慢とした動きを見せる。村に何が起こったのか、確認をする必要があったからだ。
燃え盛る炎によって崩れ落ちる数軒の合間を歩きながら、ミアキスは休むこと無く視線を右へ左へと走らせる。そして、その瞳を動かす度に、彼女の視界には異様な光景が広がっていった。
いつもミアキスに気さくに声を掛ける、働き者の近所の農夫。
彼は砂に塗れながら、路傍に無造作な格好で投げ出されている。その背中は右肩から左の横腹にかけて大きく切り裂かれていて、夥しい量の血液を周囲に撒き散らしていた。誰が見ても絶命は明らかである。
「くっ」
井戸の前には、我が子を庇うように蹲る女の人狼。
歳はミアキスと十も離れてはいない。しかし近くで様子を窺えば、子も母も呼吸をしていないことが分かる。親子は無残にも、既にこの世を去っていた。
「……惨い」
母と子から視線を外し面を上げたミアキスは、上手く働かない頭を必死に回転させて、現状の把握へと努める。破損した岩壁や、そこかしこに転がる住人達から察するに、ミアキスはこれが戦闘の後だと結論付けた。逃げ惑う弱者まで殺すことを、“戦闘”と呼べばの話ではあるが。
「父さんと母さんは……?」
人狼族が襲撃を受けたのなら、次に気になるのは家族の安否。
ミアキスは息のある者を探しつつ、我が家へと足を急がせた。しかし残念ながら、彼女が自宅に向かうまでの道で、生きた人狼に出会うことは到頭なかった。
壊れた扉を横目に自宅へと足を踏み入れたミアキスは、進入するなり大声を上げる。それは父と母を呼ぶ声であったが、狭い部屋にも関わらず両親からの反応は戻っては来ない。最悪の想像を膨らませながら、寝室や、果ては風呂場まで確認するミアキス。だが、彼女の父と母の姿は一向に見つからない。
「どこだ! 父さん! 母さん!!」
悲痛な声を出しながら、両親の姿を捜すミアキス。
だが隅々まで視線を走らせても、家の何処にもその姿を捉えるには至らない。家での捜索を諦めたミアキスは、二人を求めて再び惨劇の村へと駆け出した。
「誰かいないのか! 誰でも良い!! 誰か!!」
優秀な耳も鼻も、生者の気配を何一つ伝えてはくれない。
全身に嫌な汗を掻きながら、それでもミアキスは走り続ける。時が経つにつれて膨れ上がる不安に見ない振りをし、彼女は遂に“その場所”へと辿り着いた。
村で一番大きな族長の家、その中庭。
ミアキスは中庭に到着するなり――――絶叫した。
「父さん!! 母さん!!!!」
彼女が駆け寄った中庭の芝の上、折り重なるように倒れていたのは、変わり果てたミアキスの両親であった。父は喉を、母は胸を鋭利な“何か”で一突きにされ、無念の中で非業の死を遂げていた。
「だ、誰か! 誰か助けて!!」
一目見れば死んでいることは明らかであったが、ミアキスは混乱した頭で来もしない助けを求める。視界をぐるぐると動かした彼女は、そのついでに族長の姿を視界に捉えた。彼自慢の花壇の中に大の字に倒れ、その頭部はパックリと割られている。最早この場所には、『絶望』しか落ちてはいなかった。
しかもそれは、激しく痛心するミアキスに、更なる拍車を掛けて迫ってくる。
「たす…………あ?」
地面に膝をつき両親を抱き抱え、家族の血で両手を赤く染め上げたミアキス。
その彼女の優秀な鼻が、この場にいる筈のない者の匂いを感じ取った。首をゆっくりと右へ回したミアキスが見たのは、族長宅の前に立つ黒髪の少女。少女は沈痛な面持ちで、嘆く人狼の姿を見つめていた。
亡霊のように立ち上がった人狼は、泣くとも怒るとも分からない表情を少女へと向ける。ミアキスは彼女に会った時、言いたいことが沢山あった。『また会おう』とも、『世話になった』とも声を掛けようかと考えていたミアキスだったが、口から飛び出したのは――――
「レトリア…………君が殺ったのか?」
友人を疑う言葉であった。
「私じゃない」
黒髪の少女は間髪を入れずにそう返事をしたが、その言葉の後に「でも」と付け加える。
そして眉を顰めながら、
「やったのは私達」
と、襲撃犯の正体を告げた。
動揺を通り越した悲しみと怒りに支配されたミアキスは、少女の言葉に顔を酷く歪ませる。
「なぜだ……? なぜこんな……ッ!」
「貴女は分からないの?」
取り乱し理由を求めるミアキスに、レトリアは冷静に質問を返す。
みるみる内に顔面を蒼白に変えていく人狼。心当たりは、現在進行系で彼女の中に漂っている。
「確かに我は住民逹を移動させ、エデンの作戦を台無しにした。だがそれは……人間達を想って取った行動だ! それが咎だと言うのか? 人を思いやる気持ちすら、人間は否定するのか!」
怨嗟の籠ったミアキスの糾弾の声。
それを静かに聞いていたレトリアは、たっぷりと時間を掛けて瞼を持ち上げる。そして肩で息をする人狼を真っ直ぐに見据えて、一言――――
「人間を想うなら………………どうして私の仲間を殺したの?」
と、悲しみの声で告げる。
「は?」
そんなレトリアの言葉は、当然のように人狼の頭の中を掻き乱す。
ミアキスの過去に、誰かを殺めた記憶などない。全身で困惑を表す人狼に少女が向けるのは、先刻とは逆の立場となった疑いの眼である。レトリアはその後に遠い目をし、視線を右へと反らした。
「昨日。この近辺に来ていた隊との合同演習がとつぜん決まったの。私はその演習の間、貴女の事ばかり考えていたわ。『私をずっと待っていたらどうしよう』とか『ちゃんとお別れを告げたいな』って。だから、そんな私の憂いを汲み取ってくれた神官様が、調査を一日伸ばしてくれた時は素直に嬉しかった……。今日、あんな光景を見るまでは……」
「……あんな光景?」
その先を訊くことに若干の戸惑いを覚えたミアキスだが、そんな不安は怒りで踏み潰し、彼女は尋ねた。ここは終点。全てを失ったミアキスに、引く場所などありはしないのだから。
「私達がポタロ村を再び訪れた時、村の様子がおかしい事に気がついたわ。村中にグヤの香りは広がっているし、朝方とはいえ住人達の気配が無さ過ぎた。当然、異変の原因を求めて村を調べた私達は、そこで見つけてしまったの。滞在していた僧兵二人の“死体”と、瀕死の重傷を負った一人を……」
「……なに?」
呆然と目を見開くミアキスと、物憂げな瞳を地へと落とすレトリア。
二の句を継げない人狼を余所に、少女は語気を強めていった。
「重症を負った僧兵の一人は、死の間際に言ったわ。“金髪の人狼”にやられたって!! いつも村に顔を出していた……貴女だって!!!!」
突然上がるレトリアの叫びに、ミアキスはまるで魂を刈り取られたかの如く棒立ちをする事しかできないでいた。一体何が起きているのか、脳の処理が全く追いついてはいなかったのだ。
「そのことを知った神官様は、確認の為に人狼の村に行くと言った。私もついて行きたかったけど、それは許されなかったわ。でも、私はどうしても貴女自身に問いたかった! だから待機命令に背いて、この村へとやってきた。だけど、その時には全てが遅かった!!」
レトリアの語りを遠くに聞きながら、ミアキスは口をパクパクと開閉するだけ。まだ彼女の意識は定まっては来ない。
「神官様は正当防衛だと言った。そして今は森の中で、他の僧兵達と一緒に貴女と住人達を捜してる。神官様の行動が正しかったとは思わない。でも、その切っ掛けを生み出したのは……、貴女なの? ミアキス」
「わ……私が……? この惨状を生み出した……?」
周囲へと視線を走らせるミアキス。
その金色の瞳に映るのは、大切な者達の死体、死体、死体。それを受け入れることなど、まだ若い人狼に出来るはずもなかった。そしてミアキスの脳は、現実逃避にも似た思考を導き出す。
『自分よりも悪い者が存在する。それは、自分を陥れようとする僧兵達に他ならない』――と。
仲間達の無念が宿ったように、金色の人狼は瞳に憎しみの炎を滾らせる。
そしてドスの利いた声で、
「我は……人間を殺してなどいない。虚言を吐いてまで、魔物を駆逐しようと言うのか? 何が“誇り高い騎士”だ、何が“魔物との共存”だ!! 父さんと母さんを返せ!! 村の皆を返せ!!!!」
そう吠えて猛った。
狂ってしまった運命の歯車は、関わる全ての歯車も狂わせる。
何が正しく何が間違っているのかも判らない空間で、人と魔物はどちらともなく剣を抜いた。
「貴女は人狼族の戦士として、私はエデン国の騎士見習いとして。……こんな形で相見えるとは、思わなかった」
そんな少女の合図とも言えない呟きを切っ掛けに、両者は剣を握る拳に力を込める。
――――そして。
「はぁぁぁ!!!!」
「あああぁあぁああ!!!!」
同時に響く喚声と共に、金色と銀色の剣が激しく衝突し小さな火花をあげた。
双方の仲を別つように舞った鉄粉の間を、二つの雫が筋となって流れた。だが、人と魔物は意に介さず剣を振るう。
「女子供まで殺めるのがお前達の正義か! 本当の魔物は貴様等の方だ!!」
「私だって止めたかったわよ! 救いたかった!! どうしてこんな事になったのか……、今でも判らない!!」
訓練とは全く違う、本気の剣を打ち付け合う二人。
数度の金属音を響かせた後で、両者は一旦の間合いを取り、
「速度強化魔法!」
「腕力強化魔法!」
またも同時に声を上げた。
レトリアは人狼に対応出来る速度を、ミアキスは人間を屈服させる剛力を。
互いに身体強化を施した二人は、キッと眼前の“敵”を睨みつける。
「住人達を返して!!」
そう叫びながら、少女とは思えぬ鋭い突きを繰り出すレトリア。
目指す先は人狼の利き腕、その肩。
「ふざけるな! もう何も……奪わせないっ!!」
しかし、速度を上げたはずのレトリアの突きも、人狼の反射神経には及ばない。
いとも容易く剣を弾かれ、「あぅ!」という叫びと共に、少女の体は飛ばされる。
剣を離さぬよう、強く握りしめていたのが災いした。
強化した人狼の怪力の前では、人間の少女の体など赤子と何ら変わらない。
「くっ!」
地面に強か体を打ち付けたレトリアは、素早く体を起こしながらミアキスへと視線を這わせる。そして強張った表情を少しだけ緩め、言った。
「ずっと耐えてきた苛烈な鍛錬も、魔物――いえ貴女の前では意味を為さないのね。正直、嫉妬するわ」
「森の戦士は強い。だからこそ、お前達は卑劣な手を使い襲撃したに違いない。卑劣な人間め!」
「……たしかに。人間は卑怯なのかも知れない。でも、倒される訳にはいかないの! 守りたい人がいるから!!」
レトリアは強く叫びながら、空いている左手を自らのへと向かわせる。
そして僧兵の服の下に忍ばせていた“ソレ”を手に取ると、彼女は迷わず上空へと放り投げた。
自然と目を奪われるミアキス。
人狼の視界の中には、空舞う群青の宝石があった。
「魔石か!?」
その正体に気付いた時にはもう遅い。
魔素の宿った石は、内包していた存在を勢い良くこの場へと顕現させる。
ミアキスの視界一杯に広がる水色。
それは鉄砲水となって、一目散に人狼を目指す。虚を突かれた彼女には、避けるという選択肢を既に奪われていた。
「……がぼっ!!」
動揺し振るった剣も、液体の前では為す術もない。
鉄砲水は黄金色の片手剣をすり抜け、球体となって人狼を飲み込んだ。陸地でありながら水中へと送り込まれたミアキスは、苦悶の表情で呻き声を上げる。彼女が人並み外れた力を持つ魔物であっても、水中での呼吸はどうしようもない。
「エレーロ! 気絶までにして!」
水越しに伝わる少女の声に、ミアキスは球体の正体がレトリアの使役する上級精霊であることを知る。魔石より飛び出した水の精霊エレーロは、自身を球状へと変化させ、人狼の上半身を飲み込んだのである。
「ぐぼ! ぐぶ!!」
酸欠の苦しみにもがくミアキスだが、纏わり付いたエレーロは離れてはくれない。液体では掴むことも不可能。少しずつ遠くなる意識の中で、追い詰められた彼女は、一か八かの手段に打って出る。
「ングングング!!」
喉をグビグビと鳴らし、半身を覆うエレーロを全力で飲み下し始めたのである。
「……!!!!!!!!!!」
胃液と混ぜられては、上級精霊と言えど堪ったものではない。
エレーロは液状でもハッキリと分かるほどの狼狽した動きを見せ、子が母に泣き縋るようにレトリアの下へと逃げ帰る。その体積は目に見えて減っていた。
「ぐはっ! ハァ……ハァ……!」
両手を地面に付き、蒸せながら肩で息をするミアキス。
その姿に『信じられない』と言った瞳を向けるレトリアだったが、数秒後に我に返ると、背中に隠れるエレーロを引き摺るようにして歩を進める。
そして――――
「貴女は本当にスゴイわ。土壇場での気迫……素直に尊敬できる」
賞賛の言葉を浴びるミアキスだが、その表情には微塵も喜びなど浮かんではいない。浮かぶのは、皆の仇を取れなかった事への無念だけである。エレーロを退けた体力の消耗により次の手を躱すことが困難になった彼女は、歯噛みしながら無力な自身を呪った。
「もう一度だけ聞くわ。ポタロ村の人達はどこ?」
少女の問い掛けにミアキスが返したのは沈黙。
やがて覚悟を決めたレトリアは、「そう」と悲しげに零した後に、剣を反転させ峰を下にする。そして、人狼の意識を断ち切るべく振り上げた剣は――――
振り上げた形で固定される。
別に、レトリアが情け心を起こした訳ではない。
この場に舞い降りた“異常”が、少女の右腕を中空へと縫い付けただけのこと。
「……な、なん……なの……?」
勇敢な少女の口から震えた声が漏れ出るほど、それは明らかな異常であった。
世界が呼吸を止めたかの如く、静まり返る人狼の里。まるで鳥や虫達、いや周囲の生物の全ての命が刈り取られてしまったかのよう。
「何が起きている……?」
全身の毛が総毛立つのを感じながら、ミアキスは目の前の敵さえ忘れて視線を彷徨わせる。そして、人狼と人間は、ほぼ同時にその姿を視界に捉えた。この異常を振り撒いた張本人。
それは――――
「ああ終わった? なら事情を聞かせていただきたいんだけどねぇ。はむっ」
二人の視線の先には、数軒離れた民家の階段に腰を下ろす若い男の姿。
雪のように白い短髪に、悪戯好きそうな瞳。芋を食べる為に開いた口からは、ギザギザの歯が垣間見える。体格はどちらかと言うと華奢な方。
仕事帰りの農夫のような見窄らしい格好をした青年は、タル芋を頬張りつつミアキスとレトリアに鮮やかな“緋色”の瞳を向ける。
「あっ……は……」
瞳を向けられたレトリアは、地上でありながら呼吸に苦しめられた。
それほどまでに、青年の放つ覇気は尋常ではない圧力を持っていたのだ。上級精霊であるエレーロも、主人の背中で怯える事しか出来ない存在。その答えは、もはや一つしかなかった。
「ま、魔王……サタン?」
ミアキスは何とか言葉を絞り出す。
すると青年は困惑した表情をして、
「は? なんで分かんの? わざわざこんな格好して来たのに……。立つ瀬がないねぇ」
芋を平らげつつ軽口を吐いた。
そしてピョンと立ち上がると、バサと服の背面を破りながら翼を出現させる。軽薄な態度と、蝙蝠を連想させる巨大な羽根は、人狼と人間に更なる混乱と畏怖を与えた。
だが二人の硬直の時間は、更なる登場人物が姿を見せたことで終わりを迎える。
「これはこれは! こんな辺鄙で貴君に会えるとは。神の――いや、悪魔のお導きかな?」
村の入口方向より、さも愉快そうに現れたのは黒衣の老人トロアスタだ。
彼はそのすぐ後ろに三名を従えていた。一般的な僧兵とは違い、顔まですっぽりと白装束で覆った三名は、大参謀が呼び寄せた精鋭達である。
「見ての通りよ。少し羽を伸ばしたのさ」
数の利はエデン側にあるが、魔王は意に介さず冗談を口にする。
もはや主役の変わった舞台。ミアキスとレトリアは、舞台を下りた役者のように身を引いた。
「さて、早速ですが遣り合いますかな? 拙僧としては、見逃して貰えると小躍りするところなのですが」
魔王の覇気にも全く臆さず、トロアスタは挑戦的な大きな瞳をギョロつかせ、弱い言葉を吐く。その態度には、絶対の自信が溢れんばかりである。そんな老人の姿を見たサタンは、片眉を上げながら、
「ケッ。良く言うぜ。そんな奴を連れてきてるクセによ」
と、老人の背後の精鋭を見て毒づく。
魔王が唸るほどに、トロアスタの背後の力は一筋縄ではいかないものであったのだ。
「では、“互いに引く”という結論でよろしいですかな? 人狼族は中立の種族。貴君が暴れる道理はありますまい?」
「ま~そうなぁ。同じ魔物だからって理由もあんまり好きじゃないしな。オレはそれでも構わねぇよ? “そちらさん”が良ければの話だけど」
サタンが緋色をスライドさせると、その先にはレトリアとミアキスの姿。
二人の顔面には、不満がありありと表されている。
「神官長様! ポタロ村の住民達を諦めるのですか!?」
勇気を振り絞り、トロアスタに抗議する僧兵見習いの少女。
彼女の正義は、住人達を見捨てる事を良しとはしない。だが――――
「魔王の力を侮ってはいけない。我々は何かを望める立場にないのです。今この場で往生しては、これから先、救済できる命を殺すのと同義。レトリア、貴女には生きる目的がある。ここは引きなさい」
老人の有無を言わさぬ迫力に、少女はグッと口唇を噛み視線を落とす。
そんなやり取りを見ていた人狼は、『逃がすものか』とでも言うように足を進めた。しかし、一歩踏み出したところで、巨大な翼が彼女の視界を遮断する。
「悪いが空気を読んでもらう。ここで闘っても誰も得をしないんでな」
魔王の左眼がギロと動くと、見入られた人狼の体は途端に動かなくなる。
指一本を動かせなくなったミアキスは、退却する仇達を棒立ちで見送ることしか出来ない。
「それではまた何れ」
「次に会うときゃ一対一がイイな」
双方の代表が視線を交わし、この場での遭遇は決着となる。去り際にちらと友人だった存在を見やるレトリア。物憂げな瞳に浮かぶものが何だったのか、ミアキスには分かるはずもない。
やがて敵の後ろ姿が完全に見えなくなった頃に、人狼の体は呪縛より解き放たれる。
「くっ……クソ! クソォ!!!!」
レトリアに勝てない自分が、神官に勝てるはずもない。
理屈では理解っていても、込み上げる感情を抑えきれずに爆発させるミアキス。地面を何度も拳で殴りつけながら、己が無念を叫びと共に吐き出す。
エデンに引っ込まれてしまっては、もうどうする事も出来ない。
仇どころか、一矢報いる事すら叶わなかった情けない自分。
そう考えたミアキスは、何よりも未熟で愚かな自分に心底嫌気が差した。
自暴自棄となった彼女は、瞳をギュッと閉じ大きく口を開けると、鮮やかな舌を伸ばす。
そして――――
「はぐッ!!」
自らの舌を噛み切ろうと、力一杯に顎を閉じる。『もはや生きている価値はない』と、混乱した頭が咄嗟に起こした行動。
だが、ミアキスは自決すら許しては貰えなかった。
「なっ!?」
違和を感じ目を開いたミアキスが見たのは、彼女の口に三本の指を入れた魔王の姿。舌を押し込んだその指は、当然ながら勢い良く閉じた顎の餌食となる。骨まで潰れた三指から伝わる鮮血は、人狼の牙を通り顎から落ちた。
「仇を取りたいか?」
しかし魔王は眉一つ動かさず、先程までとは違う真摯な声で問い掛ける。
そして呆然とするミアキスに、
「命を預けると言うのなら、その願いを叶えてやる」
悪魔の取引を持ち掛けた。
やたらと長くなってしまった回想、お付き合い頂き誠にありがとうございました!m(_ _)m




